人と自然

人は自然の一部である
水と緑によって癒される

終日の雨です

2017-09-16 | 

 いま、15:35時だが今日は終日、降りっぱなしのようだ。
つい先日まで暑さで苦労したのに、今日は本気で寒さを感じます。薄い秋物のシャツなどを引っ張り出して羽織った。

 老人なので、一日ごとの気温、湿度が気になります。
昨日は、たしか名残蝉とでもいいますか、蝉の声をきいている。夜はコオロギの音も。
 気温も高かった。そして今日は寒い。
 気温、湿度に体の方が付いていかないものだということが、この齢になってよくわかった。このことは自分にとっても想定外のことだ。だからといって、どうすることもできない。病院に行く日だけは厳格に守らねばならない。個人差はあるが、自分としてはもっと早く、寝込んでしまうだろうと思っていただけのことだ。(↓は摩周湖、一般の観光バスで行かない反対側からの風景)

 


秋らしい天候、昼間は暑い

2017-09-09 | 

 今日のところは、快晴と言ってもよいだろう。しかし、昼間は暑い。梅雨明け頃の暑さに感じてしまう。
午前、少し離れた場所にある、「何でも屋」といった感じの店(コメリ)に家内と一緒に散歩がてらのつもりで出かけた。
 ところが、出かけた直ぐ後から、猛烈な暑さ、容赦なく照りつける太陽。雲一つ出てこない状態。徒歩で行くのだが約一時間近く費やす。店でいろんなものを見たり、ほんの少しだけ購入したり、でこれも一時間。かえりも一時間。日陰はなく。これは大変と思うが時すでに遅く、日は中天に近い。雲もない。「これは失敗」と思うも時すでに遅い。持参の瓶の水を飲んだり、僅かでも日陰があるとこをでは休む。さすがに九月、ちょっとした日陰はそれだけで涼しい。当分の間、暑くなりそうな日は、外出を控えようと思う。(日よけの傘はもってでたんだが)



摩周湖を一般にみるところの反対側から見たとこだ。(↑)


雨が降ったり止んだり

2017-09-07 | 

 雨が降ったり止んだりの日です。
まあ、しょうがないでしょう。家でテレビ、パソコン、整理などに時間を。
 ところで、久しぶりでPCでのグーグルアースを開いてみたんだが、なんかおかしい。
電話で、専門家に問い合わせる羽目に。すぐに思い出せてよかったのだが、ヒヤリとした思いがした。
 俺も傘寿と言われる日を迎えて、数か月。「まあ仕方がないか」と納得。
 外で庭いじりしたり、土を穿ったり、「あっちの花をこっちに移動など」のことは毎日のように雨でない限り、やっているけど物忘れが極端になった。これは人により差があるが、これも何ともならない。あとは「病院通いで、日が暮れる」。今の病院は些細なことでも、検査する。血液、内臓、腸、頭(MRI)その他で。だから自分のような人間でも生きているのである。
 ところで、北朝鮮が大陸間弾道弾をいつでも、目的地に発射できるようになった。これで、地球上に5~6か国なったと思う。ひとつ間違えれば、人類の破滅につながる。ちなみに日本は大陸間弾道弾をつくる気なら短期間で作れるが、作らない。
 どこの国でも、部族間の争い、大陸では当時(歴史上)の国同士での争い、戦争で血を流し、死んでいった。日本も例外ではない。江戸時代までは戦の絶えない島国だった。大陸から離れていたから、他国から仕掛けられる戦がなかっただけのこと。(荒島岳)



すっかり秋になった

2017-09-04 | 

 9月になって今日はもう4日。自分がこどもの頃のように、野分(のわき)の風が決まった日に吹き、雨もふり小さな小川でもあふれるように水量が増えて、山の栗や梨、その他の喰える植物の実を振り落とすようなことはあまりなくなった。(学校では上級生の書いたポスター「鬼畜米英」がいたるところに貼ってあった)
 大東亜戦争当時の思い出だから、現代に生きる若者に話しても、通じないであろう。
 家で飼っていた馬にやる草刈りを学校から帰宅後に背負い道具と刈った草を縛って束ねる「つなぎ」と称する、稲わらを「すぐって」(藁の芯だけにして先端を結ぶ)それを6本、(そして草を刈って、ひと抱えの束に縛るために)、更に草を刈る鎌を研ぐ。一抱えの束を6把が必要だ。自分の家の持山(草刈り場)まで徒歩で30分ぐらいか?。
 家から少し離れた場所で豚小屋を作り、豚も飼った。農薬の散布 、馬小屋の敷き藁や喰い残しは馬が適当に踏み固める。そのうえで新しい草や、フスマ(精米すると必ずでる)野菜くず等、塩も少し、いれて別の飼い葉おけに水とともに与える。馬も喜んだ。数日に一度、15分程離れたところのある小さな流れが平たんになった場所に馬を連れ出して、空き缶のようなもので水を汲み、藁を丸めて馬の背や、首筋、足、などをごしごしこすって洗ってやる。
 馬も喜ぶ。この馬は農耕馬だ。春の馬耕、秋の収穫期の稲架(はさ)に掛ける稲の束などの荷を背中に載せて自宅まで運ぶ。
 秋は収穫期。稲架の高さは12段あった。最初の2段までは大人が立って稲束をかけることができたが、3段目以上はひとりが稲架に載って下から一束づつ投げ上げてくる束を受けて稲架にかける。稲架で充分乾燥した米は良質になる。
 脱穀も初めの頃は、足ふみ脱穀機だったが、戦後も数年も経つと、電力の事情も少しづつよくなり、また、重油による発動機(かなり重いもの)が威力を発揮してくるようになる。 農薬を使わなかったから、イナゴ、ドジョウ、タニシ、等は極めて有効な蛋白源であった。
 都会から、親戚、縁者を頼って疎開してくる人が一挙に増えて、こどもの数が一挙に増えた。我が家にも分家の分家、一家が疎開してきた。座敷を開放して、そちらの玄関から出入りする。炊事も別に。
 学校の児童が一クラス60人以上に。このクラスを今でいうところの高校卒業したばかりの若い女性だけ。我が家にも学校の先生(女)が下宿する。教科書はなく、ガリ版刷りの資料が2~3枚。 当時から何年経ったのだろう。
 私は、小学生の頃から雪靴(膝までの)を作った。母が喜んで上手だとほめてくれたのが、嬉しかった。
 母は、もっと困っている独り暮らしのおばあさんの家にモンペの膝下あたりが擦り切れないように古い布切れで縫い合わせて私に届けさせるのだった。
 
自分にとって、今は昔の話になる。