人と自然

人は自然の一部である
水と緑によって癒される

梅雨入り

2012-06-09 | 老いの風景

 

 毎年、思うことだが、この地域の田植えは、随分遅くて驚く。それでも、気候その他の条件に恵まれているからだと思うが、秋にはきちんと稲穂が垂れる。山間地の棚田などに比べると、随分、恵まれた農地だと思う。しかし、ひとつ難点があって、水源が限られていることから、一軒の農家だけが、田植えの時期を早めるといったことが出来ない。雨が降って、山から流れ出る水を幾重にも連なる溜め池に蓄えておき、地域全体で取り決められた日時に一斉に放水が始まるので、農家では、その日に合わせて田植えの準備を進める。昨日、近くの農道に続く道を散歩した。ちょうど数時間前ぐらいに放水が始まった状態で、水源に近い田圃から遠い田圃まで、均等に流れ込んでいた。そして、あらかじめ耕してあった田圃をきれいに均して、すぐにでも田植えが出来るように機械をいれての作業も始めていた。

 そして(水の流れ込まない場所)耕作放棄地がとても多い。山間地などの傾斜地の田圃はすべて棚田である。畑も同様。中には傾斜のきつい場所に石垣を積んで狭い面積の田畑を、先祖からのものとして、大切に守り続ける人たちがいる。そういう場所では、田の畔や土手などの草もきれいに刈って、手入れに怠りはない。それに比べたら、このあたりの田畑は平地ゆえに、作業がずっと楽である。しかし、土手や田の畔には除草剤が撒かれて赤茶けた草が目立つ。この地は農業以外でも、働く場所が多くあり、また、専業農家なら、畑でのニンジン、白菜、カブ、といった野菜が農協を通じて出荷できる。

 稲作だけの山間部の農家では、いまは生活が成り立たなくなって久しい。そのような地域では若い人がいなく、老人だけが(荒れていく田圃を眺めながら)ひっそりと、暮らしている。いわゆる「限界の集落」である。その老人たちも年々、減っていき、やがて無人の集落に。昨日、野田首相が「大飯原発再稼働すべき」との判断を出した。いまの日本、軍備(防衛)、外交、その他をアメリカまかせで、国としての確固とした方針も何もなしに、ただ、景気が悪い、経済が成り立たない、などという風潮である。アメリカが手を引いたら国はどうなるか。先祖から受け継いだ国土のみならず、日本民族に受け継がれている筈の精神的な拠り所を大切にしないと、国が無くなる。テレビを中心としたマスコミの罪(とくに民放)もあると思うところだ。(以上、老人の戯言)


朴葉すし

2012-06-03 | 家庭

6月、間もなく梅雨の季節。でも近頃は季節の変動は当てにならないことが多いので、どうなるか分からない。雨が降らなくて暑い日々が続いたので、その反動が必ずどこかで来るような気がして、心配だ。

「今年も朴葉すし」を家内が作った。例年、山へ行ったときに葉を少し失敬してきて作っていたが、今年は近くのお宅で、採らせて貰う。(木から直接採らせてもらえた。

 上は自宅で作ったものです。下は翌日、近くのお宅の奥様が、実家(下呂市馬瀬)から持ってきたので、といただきました。