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終日の雨だ

 朝、9時00時、 長寿会のグランドゴルフ。いつものように始まったが、すぐに雨が降り出す。
 大降りではなかったので、そのまま急いで一ゲーム、次いで二ゲームとやってしまった。ある種の「気違い」である。
すくなくとも、そのように思われても致し方あるまい。10時過ぎには終わり、急いで帰宅。やれやれである。
 その後は外出しない。そして、寒い。つまり、昨日まで好天に恵まれて、暖かく、むしろ暑いとも思われる日もあり、今日の雨天は寒いと体感したものだ。
 つまり人間とは実に自分中心なものである。
虫けらでもミミズでも、この世に生を受けているものは、みな同等なのだ。
 たまたま現代に生きる私たちはあらゆる面で贅沢三昧で生きているだけだ。
自分も老境にあるからには、大自然に感謝する思いを大切に、生ある限り生き続けるだけだ。

 自宅で開いた花  ジャーマンアイリス




 ブナの木 ↓ 樹齢40年(幹の中は空洞である。自宅近くでは普通であれば育たない)



 

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久しぶりの雨を期待

いろいろなことがあって、季節は移り行く。
昨日はこの住宅団地の山側に当たる標高300m程の山を久しぶりにゆっくりと歩いた。
 サクラの季節は終わったが、今はツツジが主に尾根筋に咲いている。ミツバツツジが多いんだが、こちらは最盛期が過ぎた。日光が少ない場所では殆ど咲いていない。
 この時期はヤマツツジが殆どである。(↓赤坂山)
 

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小雨の一日

 今日は朝から小雨が降ったり、時に止んだりといった日です。
しばらくの間、好天に恵まれていたので、そろそろ雨が。とは思っていた。
 この時期は山や里の木の芽が伸びる、伸び始める時期だ。
 雨がたっぷりと降って、木の芽、草の芽がぐんぐん伸びるときだ。
自宅でも花の苗などを購入したり、昨年までの株の間隔を分けたり、一部には肥料を薄めて与えたりしている。
 この時期、自分はたのしい。この春は野蕗が結構多く、しかも大きく葉を広げてきたので、少し間引いて、食用にした。旨い。(画像は高山市)


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天候が変わり寒風が吹く

 天候ががらりと変って、今日は朝から冷たい風が強く、立て付けの良くない障子戸や、戸袋の雨戸が、ゴトゴトと音をたてている。
 「昨日までの陽気はなんだったんだよ」といった感じだ。
自分はいま、「テレビのまえで炬燵の中だ」外出するのも考えてしまう。
 春になったし、園芸の店にでも出かけて気に入った花の苗でも見てこようかと思うが、踏ん切りがつかない。
外はとても寒い。すでに15時に近い時間で晴天だが寒いだけで、花や植木も芽を出したままの状態でストップしてる。
 気が付くと、野ショウブの根が埋まっている場所にはいまだ発芽が見られない。この野ショウブは下呂市の奥の駅の近くでたくさん自生していたのを、一株だけ抜いてきたものだ。とても丈夫なものだ。でも、もともと自生した場所の気温、土、その他のの条件が揃うまでは発芽しないのだ。気になったので少し表面の土を削って様子を見ると、表面のすぐ下で、発芽して表面に顔を出すときをじっと待っていることが分かった。なるほど、植物は我々より、少なくとも自分よりはるかに堅実だし、生きて子孫を残す力を備えていることが分かった。



 
  

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山の公園はサクラが満開

 昨日午後、愛宕山に登る道路を歩いて見ると、山の裾にある小道付近にある広場などに植えてあるサクラはちょうど見ごろか、満開前の状態だった。つまり、サクラの木、周囲の林間に植えられているとか、沢沿いにあるとかの状態によって、日差しの時間が微妙に変化する。更に野鳥によって種子がバラバラに違った位置に蒔かれたが故に、開花のようすがバラバラになる。
 山のかなり高い位置にいつまでも咲いているサクラもあるのが、特に印象的だ。







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サクラは落花中

 この春の陽気は、いわばバカ陽気。従ってサクラはすでに落花の最中だ。
雨に会うこともなく花の時期は終わった(この春は)。
花は一滴の雨にも会わなかった。
 いずれにしても、異常な気象であると思う。
 すぐ近くのサクラは今は無残な状態であるが、人々の目と心を和ませてくれたことだから、当たり前のこのとだが「今年もありがとう」「また、来年よろしく」と言いたい。
 花の期間は絶好の日和だった。↓八木山山頂のミツバツツジ」

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爛漫の春

 まさに爛漫の春です。好天に恵まれて今日も暖かな一日だった。
それは良いことなんだと思いますが、ただ、あまりにも良すぎて、この反動が怖い。
 そんなことを思う自分だ。
 物事すべて、表があれば裏もある。
 表だけがずっと続いた人生を送ることがあるならば、そんなに良いことはないだろう。
自分の過去を振り返ってみても、そう思う。生身の人間である限り、大方の人に当てはまるんだとは思うところだが、品行、生活全般を考えてみても、決して正しいことのみに徹して生きてきたわけでもない。
 かなり正しくないことをも、やって生きてきたように思われる。つまり生活の知恵だ。
 そういうことだって全く無しであっては、この歳まで生きては来れなかったであろうと思う。
 敗戦直後から、物心が付くまでのことは、大方の人たちにとっては当然ともいえた時代があったし、そういうこともなかったならば、まともな日々が過ごせないというような、時代もあったと思う。
今は、のんびり、ゆったりと無理のない日々を過ごすことを良しとしている。
 毎朝、寝床の中で裏山の八木山、愛宕山方面から、「ボー、ボー」とキジバトの声、またはウグイスの「ホーホケキョ」の啼く声を聴きながら惰眠をむさぼっている。可能な限り、「自然はあるがまま」がいい。傘寿も越えた
自分である以上、今のこの瞬間こそが、何よりの贅沢?というべきであろう。(サルボボ神社 高山)

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