12月8日だ。昨夜は深夜頃から、気温がぐっと下がり、寒かった。
例年、寒くなると、利用したりしていた、敷き布団の上に敷く「電気毛布」なる薄物を取り出して、利用することに。
夏の酷暑ともいえる暑さにも応えたが、「冬は暖冬?」を予想していた自分は今回も見事に裏切られた。
こ頃の日本列島、というか、気圧の動きはどうなってしまったのか?。
自分の頭の衰えからは離れて自分勝手に思うようになった。
ところで、今日は「トラトラトラ」「新高山登レ 」と聞けば高齢の人たちならば、即、思い出す。
高齢の人であればだれでも言わずと知れた「大東亜戦争」の勃発である。
真珠湾にあったアメリカ海軍最大の基地だ。そこに戦争をするとの通知もなしに、深夜、アメリカ海軍の艦隊に総攻撃を
したのである。
そして広島、長崎に原爆投下だ。
大戦に負けて日本国は何もかもゼロにされてしまい、戦犯として処刑された人。国土も少なくなってしまった。
その他刑務所に入れられた人々。A級、B級などに分けられて、受刑された。
これらの決まり事は「ポツダム宣言」によって定められたように実行され、「マッカーサー元帥によって統治された」。
農地解放」つまり、小作人はその時点で田畑を耕作していた人のものになった。
只、日本列島には田畑のみならず、森林も多くあって、これについては手を付けられていないと、記憶している。
学校には行っても行かなくてもよく、小さな子供がさらに小さな子供を子守しながら(背中におんぶして)遊んでいたものだ。
山村などでは、着衣もままならず、上の子のものを下の子が受けて着る。
破れたら、ぼろ布で縫い付ける。そんな生活がかなりの間、続いた。
それでも、男子ならば、成人したら徴兵検査があって、まとも(健康及び体躯面で)な人は学生であろうが、職業人であろうが例外なくである。
やがて、「英霊」と言われた戦死者が「骨箱」に入って地元に帰ってくる。
外地で戦死した人の場合、本人の遺骨かどうかわからない。海軍に入れられた人は、航空隊同様、「骨箱の中身は小石や砂が一握り」であったとあとで聞いた。
学校の築山には戦時中は「明治神宮」と掘られた大きな石塔があって、朝一番の朝礼時には、最後に男の若い先生が
「明治神宮に向かって最敬礼」と大音響で号令をかける。(戦後はその場所にに)二宮尊徳のコンクリート像が立っていたのは記憶しているが、その後、その像はたおされて転がっていたのを思い出すが、今はその築山には杉の木が植わっている筈だ。その学校のあと地も年月を経て高校の分校になった。
NHKテレビの「朝ドラ」を見てて、遠い記憶を思い出した次第。