昨夜から今朝にかけての降りっぱなしの雨。
凄かった。途中少しは小雨になるだろうと思っていたが、勢いは変わらず今朝になった。
八時頃になってようやく雨の勢いに陰りが見えてきた。
自分も妻も後期高齢者なので、時間に追われることもないが、通勤に電車を使う人たちも多い。
このあたりでは、私鉄の駅まで歩きのひとも多い。家族の誰かに駅近くまで車で送ってもらった人も多いと思う。
ご苦労様と思う次第。
夕方までには晴れて欲しいと思う。
昨夜から今朝にかけての降りっぱなしの雨。
凄かった。途中少しは小雨になるだろうと思っていたが、勢いは変わらず今朝になった。
八時頃になってようやく雨の勢いに陰りが見えてきた。
自分も妻も後期高齢者なので、時間に追われることもないが、通勤に電車を使う人たちも多い。
このあたりでは、私鉄の駅まで歩きのひとも多い。家族の誰かに駅近くまで車で送ってもらった人も多いと思う。
ご苦労様と思う次第。
夕方までには晴れて欲しいと思う。
6月25日、今日も晴れ、8時30分現在。
梅雨はどうなったのか、あとの反動が嫌だ。
自然現象にだって、反動があると自分は信じている。
大雨が降るのも仕方ないが、災害はこまる。
予測ができないからだ。
チゴユリ
牧場
朝から晴れたり薄い雲が出てきたりだが、今日も暑い日だ。
夏山に根気よく出かけた頃を思い出す。
いまは、そこまでの体力、元気がなくてくすぶっているが、山でなくても、せめて大自然の中に身を置いてみたい。
緑と水と清らかな流れ。
そこで育まれる心、感動は単に非日常であるからだけではなく、心身の休養である。
思い出します「ヤッホー」そして少しの時間差で「ヤッホー」と返ってくる。
「懐かしいなあ」あの頃が。
早朝五時頃に起床。ゆっくりと眠りたいのは当然だが、いくら暇があるからといっても82歳の老人だ。
起床より早くに目覚めている。
目覚めてしまってから、我慢しながら時間の経過を待つのも結構つらいもの。近くでホトトギスの鳴き声が聞こえる。「夏だなあ」の印象がさらに強まる。キジバトやウグイスの声は毎年、夏になると早朝に聞くことが出来るが、ホトトギスはめったにない。
「早起きは(その習慣は)徳を貰える」といった表現もあるが、いまの自分にとっては、「もっともっと眠りたいのに早朝に目覚めてしまう」といったところだ。
今日は日曜日だ。長寿会のグランドゴルフの練習もない。一日、どうして過ごそうかな?。
「贅沢な悩み」というべきだろう。今日も晴れの天候だ。日が差して周囲の緑が目に沁みる。
新緑の木の葉や森の色がとてもきれいだ。贅沢なことだと思う。
一番初めは夏の暑い盛りだったと思う。
パソコンに向かっていたとき、急に発作に襲われ机に座っていられなくなり、板の間に横になってしまった。
その瞬間、茶箪笥の上の受話器のコードだけは握った状態だった。出かけていた家内に電話連絡をすることが出来た。
以後の処置が適格であったので、何とか今日まで生き延びている。
それからは、ことあるごとに同じ病院にかかっている。(現在もである)
そのことのメリットもある。長い年月が経過しても、自分が患者としての記録はすべて残っている。
病院の医師が変わってもすべてがわかるようになっているからだ。
自分は古いタイプの人間だ。検査を受けながら、自分の内臓が目の前で同時進行で動いている状態がわかるのだ。
「日本の医学の進歩もたいしたものだ」
長女が長年看護師として(港区で)働いていることから、いろいろと助言もしてくれるし、出来る範囲で病院にまでついて行ってくれる。従って父(私の)の体調に少しでも変化があれば、その状態を担当医に説明してくれているので、自分自身であれこれと説明しなくて済んでいる。
現在はおおむね二ケ月に一回通院するという状態が続いている。
多分これから先も同じような状態であろう。
長い年月の間には考えられるあらゆる検査を受けた。それは各科にわたっている。総合病院の便利なところである。
頭は脳の構造とその大切な部分(能神経外科)胃(内視鏡による胃の検査)腸の検査(大腸の内視鏡による)
幸運なことにいずれも大きなダメージはない。内視鏡による検査は細い螺旋状の先端に小さなカメラがついていて、患者である自分の大腸であれ、胃の内部であれ、そのカメラを通して患者自身がテレビの画面が動いてるような状態でみていられる。
日本の医学の進歩はすごいものと感心している。
この暑さは何だろう。
梅雨明けの知らせも聞いた覚えがないが、カンカン照りでとても暑い。
昔の、というか数十年前の頃を思ってみるが、6月の暑さはこんな暑さではなかったと思ったりする。
しかし、今日は6月20日だ。
暑くて屋外に長時間いたら、どうにかなってしまいそうだ。
家の周りで何かをやろうと思えば、麦わら帽を手放せない。
自分の感覚から思うと梅雨明け直後の天気を思い出す。
社会にもそれなりに変化もあろう。例えば日傘とか、麦わら帽子は手放せないと思ってる屋外作業の人も増えてる筈だ。
自分は朝のうちに外でやりたいことはやって、あとは夕方涼しい時間になってから、散水などに取り掛かる。
いづれにしても異常気象に思えるんだが、日本列島全体を俯瞰してみたら、大したことではないのかも。
美濃市は美濃和紙の里、「和紙会館」という立派な資料館がある。↓
美濃 和紙を使って近づいた花まつりの準備が進んでいるところ(上)
円空上人塚 ↓(この塚の下に入仏している)
円空さんは似たこの塚の下に入仏している
円空さんの墓 ↑
岐阜県関市は歴史の古い町だ。
いまは刃物の町として立派に通用してるが、例えば「刃物会館」?があって、そこではいろんな刃物が見学できる。炉の中に赤々と火が燃えていてその中に鉄の塊を入れて焼く、十分に焼けた鉄の塊を鋼鉄の上で力を入れて叩いて少しずつ刀の形に整えていく。購入もできる。私も毎日のように使用してる「カミソリ」使い捨てのものでも驚くほどの切れ味である。
また、変わった小物では「鼻毛切」というのがあって、購入するときは所詮子供の玩具だろうと思っていたが、一回使用してみたところ驚いた。これはすごい、本物だ。認識を改めさせられた。
時節柄、製品はすべて本物であるので、値段も安くはないが、実際に使ってみれば納得できるものばかりだ。
年に数回だが、自分の住む町のスーパーマーケットにも関市の「刃物やさん」が出張して宣伝を兼ねて店を広げていることもある。
例年秋だったと思うが、「関市刃物祭り」があってそこでは刃物販売のほか、包丁研ぎを無料でやってくれていたのを思い出す。自宅で切れなくなった包丁を持参していくと「決まった場所で預かってくれ、帰りに切れるように研いで渡してくれた。いまも、同じようなことが行われているかと思う。
また、実演の時間になると、真剣を使い、孟宗竹や藁人形を立てて置き、すごい速さで斜め輪切りにする実演を見せてくれた。
四方が階段状になった席の真ん中で刀をつくる実演も見た。中が薄暗い中心の炉の中で鉄の塊を真っ赤に焼き、大きなハンマーでたたいて平べったい板状の鉄に、そして徐々に刀の形になるまでたたき続ける。
やがて、きれいに刀の形になるまで整える。
あとは、砥石を使って研ぐだけ。↓関市の長良川
古い時代の建築物の後にはこのように「印」がある。
先般、天皇皇后 両陛下が愛知県で行われた植樹祭に出席された。もちろんテレビでも報道されたが、
私は興味深く見ていた。
それは自分が現役で働いていたころ、愛知県犬山市に「昭和天皇ご夫妻」がおいでになったからである。
目的は犬山市にあった「財団法人日本モンキーセンター」にサル類(霊長類)を見にこられたからだ。
その後、間もなく皇室の方々が次々においでになるということがあった。
両陛下が旅で「モンキーセンター」に見学でお越しになられるということは理事長以下、従業員の末端に至るまで名誉なことと思った。
その時も愛知県で実施された植樹祭にご出席される目的で来県された。
そのようなことは通常あり得ないし、計画もおおむね一年ほど前に決まるように感じたものだ。
まず、モンキーセンターの近くで車列が通過する道路でへこみがあったり、枯れた「赤松の木」などは、すべてきれいに処理され、薮の奥まで見通せるように雑木の伐採も。園内のマンホールの蓋までめくって点検。
前日の夜は職場の近くの宿泊所に従業員の一部は宿泊となり、当日の朝は真っ暗いうちに出勤。正面の門の前には県警の人が幾人か待機していて、宿泊所から出勤した従業員に対しても一人ずつ身分証明の提示を求められるのだった。
天皇ご夫妻の御行啓とは、「これは当たり前のことではない」ことを思い知った。
飛騨で行われた植樹祭の会場跡 ↓
昨夜はカミナリがとどろき、かなりの雨が降った。
今朝はそれなりに好天に恵まれたが、「日差しはチョッピリ」といった感じだった。
今日は特別なことはなかったが、「青紫蘇」やたらに増えていたので、夫婦で葉をちぎって、ビニール袋に入れ冷蔵庫に収納。
これは結構利用価値が高い。ビッシリと葉を広げているので、ほかの雑草が生えてこないのだ。
「天ぷら」にして食べるのが、自分は好みだが、秋の始まり頃だろうか、細かい実がいっぱいつく。頃合いを見てその実を指でしごいて「ざる」にとり、食塩を混ぜて広口瓶に保存する。以後、時々食事に出して少しずつご飯にまぶして食す。しそ
真夏に「ソーメン」を食べるとき、青紫蘇を細かく刻んで「ソーメンつゆ」と一緒にまぜて食べると旨いのだ。
広口瓶(海苔のつくだ煮用)などで冷蔵庫で保存して時季外れに青紫蘇の香りを楽しめる。
昨日も、深夜もだったが、本格的な雨か?。
ただ、それだけのことで気分が塞いでしまう自分だ。
少し前からの天候が、晴れの日が多いので、そのことの反動が怖いと思っていた自分。
一般的に見て、物事のすべてに表裏があることから、それぞれの地域の気象条件は山やその高さ、気流の関係などで、変化する。
登山が好きな人の場合、前日に登った山の頂上付近で(山小屋の前)でご来光を拝するといった、ことが一般的なことと思うが、せっかく前日に苦労して登った山の小屋で明朝は雨または曇り空ということが、はっきりわかったら、楽しみも朝を迎える前に減ってしまう。
老人の一日も「サンデー毎日」であるが同じような日々の繰り返しだ。
夜中や早朝に寝床の中で、「外は雨とはっきりとわかる」ときは気分的に盛り上がらない。
当然、睡眠そのものが浅いのも事実だし、気分も盛り上がらない。
梅雨本番だ。
昨日も、深夜もだったが、本格的な雨か?。
ただ、それだけのことで気分が塞いでしまう自分だ。
少し前からの天候が、晴れの日が多いので、そのことの反動が怖いと思っていた自分。
一般的に見て、物事のすべてに表裏があることから、それぞれの地域の気象条件は山やその高さ、気流の関係などで、変化する。
登山が好きな人の場合、前日に登った山の頂上付近で(山小屋の前)でご来光を拝するといった、ことが一般的なことと思うが、せっかく前日に苦労して登った山の小屋で明朝は雨または曇り空ということが、はっきりわかったら、楽しみも朝を迎える前に減ってしまう。
老人の一日も「サンデー毎日」であるが同じような日々の繰り返しだ。
夜中や早朝に寝床の中で、「外は雨とはっきりとわかる」ときは気分的に盛り上がらない。
当然、睡眠そのものが浅いのも事実だし、気分も盛り上がらない。
梅雨本番だ。
昨夜の雨も結構つよく降っていた。
いまも小雨が降ったり止んだりで、スッキリしない日だ。
予報では「こんな日がつづき、梅雨になる」でした。
いつ、気象庁の判断が出る?(東海地方)なんでしょうが、もう梅雨入りで間違いはなさそう。
そんな予感がしたので昨日、家の周りを片づけて植木の剪定(何本もないが)も何とか済ませてある。
昨日は気温も高くて、老人が、長時間、屋外での作業は出来ない程の暑さだったから、手抜きもあるが、狭い範囲のことだ。簡単に終わる。
梅雨が過ぎて真夏の暑さを乗り切らねばならない。
「梅雨入り前の晴天だから今日の晴天を大切に使い切ってください」
今朝のテレビの天気予報を聞いてたら、概ねこのような内容だった。
予報どうりの好天で、布団毛布まで2階のベランダも隙間なく使い切って、「布団」まで干すことが出来た。
真夏に劣らない程の暑さになったようです。
ところで、明日からは本当に雨の日が多くなるのかな?。などと思いながら。
屋外に出ると「ビリビリ」と思えるほどの暑さが肌を刺してきます。
「もう夏か」半年が過ぎてしまうのだ。「ボーツ」としてはいられないんだ。
気持ちだけは盛り上がるが具体的に「何をどうする」ところまでは考えられない。これが現実だ。
今日もいい天気だ。
自分は雨降りよりも晴天の方が好きなんだけれど、そのあとが気になる。
すべては大自然のなせる業ではあるが、何事も、人の能力を超える分野だ。
適当な時に適量の雨と陽光とが降り注いでくれれば、最高なんだけれども、地球全体のバランスやら、いろいろと難しい法則もあろう。人類だけを考えても太平洋上の島国である日本と、反対の気候の国々とだけでもまるで異なる。
かなり前に、ニュージランドの南島に観光で行ったことがあるが、日本の真夏の季節に、真冬の衣類、をいっぱい持参しての旅だった。
南極の永久凍土が溶けて、大きな氷壁が海に崩れ落ちる場面をテレビで見ていたが、すごい勢いで崩れ落ちるものだ。
地球と言えど永久、絶対ではない。いまある自分を感謝して、日々を前向きに生きなければならない。