いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

戦艦長門と日本海軍

2018年11月30日 | 極楽日記(国内旅行)

 旧日本海軍の戦艦と言えば大和が最も有名ですが、大和が現役だったのは昭和15年(1940年)8月から昭和20年(1945年)4月までの5年にも満たない期間です。それに対して長門は大正9年(1920年)から終戦まで主力艦として運用されており、大和よりもずっと長きに渡って海軍のシンボルでした。

 戦艦としてこれだけ長く一線にあったということは、何回も改装を経ているとは言え、当初の設計と製造が高い水準にあったということでしょう。明治維新から半世紀で最先端の軍艦建造が可能になったというのは驚くべきことだと思います。

 同型艦「陸奥」の主砲が引き揚げられ展示されています。

 同じく舵とスクリュー。

 当時はCADもコピーもないので、設計図を写し取るには青写真を使いました。若い人には何のことかわからないかも知れませんね。

 長門の完成に合わせて絵葉書が出たり、命名式の入場券が発売されたり、国家的な祝い事になったことがわかります。今でも信頼されているジェーン海軍年鑑にも、当時最大の41cm砲を搭載した最新鋭の戦艦として解説されています。

 ワシントン海軍軍縮条約により、主力艦の合計トン数は制限されていました。その中では、いかに強力な戦艦を持つかが海軍力の鍵であり、最強と目されたのが7隻の戦艦、いわゆるビッグセブンでした。長門と同型艦の陸奥は、このビッグセブンのうち2隻を占めたわけです。攻撃は最大の防御であって、強力な戦艦は抑止力としての機能を期待されていました。このため、後の大和の時代と異なり、海軍は「平和の守り神」としての長門を大いに宣伝し、長門が海軍のシンボルであることは国民に広く知られるようになります。

 これは長門の士官用の食堂を再現したのかな。それまでの艦船に比べると装備の充実が際立っており、「長門御殿」という言い方もあったそうです。

 機密一点張りだった大和、武蔵と異なり、長門の写真はたくさん残っているようです。終戦までその生命を永らえ、米軍に接収されて原爆実験艦となり撃沈。米軍は自前の空母「サラトガ」なども原爆実験に使っているので、必ずしも不当な扱いとは言えませんが、大和の玉砕と並んで日本海軍の終焉を象徴する最期でした。
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