アブソリュート・エゴ・レビュー

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クイズショウ

2017-07-31 21:28:23 | 映画
『クイズショウ』 ロバート・レッドフォード監督   ☆☆☆★

 Netflixで再見。この映画を観るのはもう四度目か五度目ぐらいだろう。それほど大傑作ではないが、昔から妙に好きな映画である。監督はあのロバート・レッドフォードで、題材は硬派な社会問題告発型、悠揚迫らぬペースで織り成される人間ドラマ。二人の男の人生の対比。まさに王道ハリウッド映画の風格で、レッドフォード本人のイメージにぴったりだ。

 50年代、アメリカで実際に起きた大人気テレビ番組「21(トウェンティ・ワン)」のスキャンダルが題材で、要するに一般視聴者が参加するフェアでスポーツマン的な対戦を謳っていたショーが、実はヤラセだった、というもの。クイズ番組なんてそりゃヤラセだろ、と言う人もいるだろうが当時はまだテレビ黎明期、しかも番組では「問題は鍵をかけた金庫に保管されています」などといってフェアネスを売りものにしていた。しかも、この番組でチャンピオンになったチャールズ・ヴァン・ドーレンは名門一族の出身で、コロンビア大学の講師であり、この番組で勝ち続けたがために一躍有名になってタイムやライフの表紙を飾るまでになる。

 映画は、「21」で勝ち続けているユダヤ人のハービー(ジョン・タトゥーロ)がダサく気が利かず、TV映えしないため、スポンサーから「あいつを降ろせ」と指令が下るところから始まる。プロデューサーはたまたま他の番組のオーディションに来ていたハンサムで貴公子的なチャールズ・ヴァン・ドーレン(レイフ・ファインズ)に目をつけ、「21」に出ないかと持ちかける。しかも、事前に答えを教えるという。驚いたチャールズは出演するならフェアにやりたいと主張し、受け入れられる。ところが対戦当日、チャールズに出題されたのは彼がすでに答えを知っている問題だった。こうしてチャンピオンになったチャールズだったが、最初はこの「ヤラセ」に懐疑的だったにもかかわらず、スターの座の心地よさと高額の賞金に目がくらみ、事前に答えを教えてもらって勝ち続けることが習慣化する。そんなある日、若い捜査官ディック・グッドウィン(ロブ・モロー)がチャールズの前に現れ、「21」の八百長疑惑について調査していると言う…。

 この問題が難しいのは、粉飾決算や公害垂れ流しなどと違って善悪の境界がはっきりしないことだ。TVのクイズ番組でヤラセをやってそれが不正か、ということである。実際、この事件は全米放送史上空前の一大スキャンダルに発展するが、終盤の公聴会で番組プロデューサーは「これは娯楽なんです、一体何が問題なのでしょうか」と主張する。出演者はいい思いをし、スポンサーは喜び、視聴者は番組を楽しんだ。それのどこがいけないのか、と。

 この「不正」としてのスケールの小ささ、曖昧さが、人によっては本作の粒の小ささと思えるかも知れない。少なくとも「巨悪」というには違和感がある。しかし、このスキャンダルの結果チャールズはコロンビア大学を追われ、二度と教壇に立つことはできなくなる。彼の社会的信用は破壊され、二度と元に戻ることはなかった。その一方で、番組のプロデューサーはしばらくしてまた業界に復帰し、番組をヒットさせて大金持ちになったという。一体なぜこのようなことが起きるのか。果たして、パブリック・トラストとは何なのか。TV番組のモラルとは何なのか。これらの問いは白黒はっきりしないがゆえに微妙で、だからこそ面白い問題だと思う。

 まず単純に考えると、視聴者は楽しみを求めてTVを観るけれども騙されたいとは思っていないはずだ。楽しませてやったんだからいいじゃないかという理屈は、夢を見させてやったんだから金を盗ってもいいという結婚詐欺師の言い分に似ている。もし視聴者が対戦を八百長だと知っていたら、「21」があれほどヒットしたはずはないのである。

 それからもう一つ、チャールズが八百長の結果二度と教壇に立てなくなったのは、大学がそれだけ社会的モラルを重視する社会だからであることは言うまでもない。一方で、テレビ界は八百長をやったプロデューサーでもさほど気にしないでまた使った。当たる番組を作り、儲けてくれればよいのだ。映画の中で、スポンサー役のマーティン・スコセッシがディックに言う。「大衆はとても短い記憶しか持たないが、企業は絶対に忘れない」つまり、パブリック・トラストを気にするよりも企業を失望させないこと=利益の方が大事なのである。これをよく理解しているプロデューサーは公聴会で「すべて自分の判断でやったことで、上司はまったく知りませんでした」と嘘をつく。その結果、しばらくするとまた企業に復帰して大金を儲けることができる。

 では、なぜ大学とTV業界のモラルのレベルはこんなに違うのだろうか。まあ色々な理由や背景があるのだろうが、独断と偏見で言わせてもらえば、TV界の方がはるかに金が儲かるからである。金がある場所ほどモラルは腐敗する。かつ、それが一個人ではなく集団のモラルとなれば猶更だ。以前『コーポレーション』というドキュメンタリーDVDを観たが、その中で、もし企業を人間とみなしてその心理を診断するとほぼすべての企業がサイコパスになるというくだりがあった。この映画の中でも、NBCの社長、プロデューサー、プロデューサーのアシスタント達は身も心もTV局と一体化していて、もはやサイコパスである。人を騙すことをなんとも思わず、誠意というようなものはひとかけらもない。

 一方で、そんなTV業界のシステムに巻き込まれた二人の青年、自分の行為を悔い、またその代償を払うことになるチャールズ・ヴァン・ドーレンと、TV業界に挑んで一時的には勝利するも結果的には敗北するディック・グッドウィンを対比して描くことによって、この映画は心に残るものになった。特に、もともと高い倫理感の持ち主でありがらTV界の虚飾に目がくらみ、間違いを犯し、悩みに悩むチャールズを演じたレイフ・ファインズは見事である。

 一方、捜査官ディックを演じたロブ・モローにも私は好感を持った。彼はまっすぐな理想主義者で、NBC社長やスポンサー企業の重役にも臆せず突っ込んでいく。彼が決定的証拠を掴み、プロデューサーに「自分のパネルショーをやりたくないか?」と持ちかけられて笑い飛ばすところは、このもやもやした映画の中で唯一爽快な場面である。一方でチャールズの立場に同情し、なんとか彼を巻き込まないように心を砕く情の厚さも持っている。

 とはいえ、この映画の中でもっとも強烈な印象を残すのはもしかしたらハービー役のジョン・タトゥーロかも知れない。強烈にアクの強いキャラで、被害者と言えば被害者だが、彼のメンタルはTV局プロデューサーのそれに近く、自分の利害とメンツだけで行動する。実にいやらしく、生理的嫌悪感を掻き立てるキャラだ。彼がクイーンズの自宅で妻とダンスを踊るシーンは醜悪で、かつ物悲しい。

 爽快感がなく後味が悪い映画だが、その底には良い意味でアメリカらしい正義を求める感覚と、真摯な問いかけがある。いい映画だと思います。



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