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『エデンの東(1~4)』 ジョン・スタインベック ☆☆☆☆
スタインベックの『エデンの東』全四巻を読了。ただ、全四巻と言ってもこのハヤカワ文庫版は文字サイズが大き目で、あっという間に一冊読み終わってしまう。だから全部読んでもそれほどの重量感はない。
スタインベックといえばピューリッツァー賞を獲った『怒りの葡萄』が有名だが、スタインベック自身はこの『エデンの東』を自己の最高傑作と呼んでいたらしい。書いた時期も、『怒りの葡萄』が30代の作品であるのに対し『エデンの東』は40代後半。自伝的な内容もあって、これこそ自分の集大成という思い入れがあったに違いない。が、発表当時の評判はまったく芳しくなかった。その後再評価されつつあるという話ではあるが、現在でも評価は割れているようだ。
内容を一言で言えば堂々たる大河ドラマで、時代は南北戦争から第一次世界大戦にかけての古いアメリカ、舞台は東海岸のコネチカットで始まりカリフォルニアに移る。トラスク家とハミルトン家という二つの家の、三世代にわたる錯綜した人間ドラマを写実的かつヒューマニスティックなタッチで描いていく。この二つの家族の関係はというと、別に血縁関係だったり宿命的な敵対関係にあるわけではなく、同じ土地に住む二つの(わりと名の知れた)家族というに過ぎないが、精神的にも物質的にも、お互いにさまざまな影響を及ぼし合う。
この物語は主役はやはりトラスク家で、中でも、コネチカットからカリフォルニアに引っ越してきてトラスク家の基盤を築くアダム・トラスクが物語の中心ということになるだろう。三世代の中では二世代目に当たる。ハミルトン家はトラスク家の重要な隣人という位置づけだが、一世代目のサミュエル・ハミルトンはアダムのみならずあらゆる登場人物に強い精神的影響を及ぼす、物語全体の精神的支柱とも言うべき重要人物だし、子だくさんのハミルトン家はさまざまに個性的な男女のキャラクターを輩出し、印象的なエピソードの数々を生み出していく。作者ジョン・スタインベック自身も、このハミルトン家の第三世代の人間ということになっている。ただしスタインベック自身はあくまで語り部で、自分自身が物語に絡んで活躍したりはしない。
さて、この小説はカインとアベルの物語を下敷きにしているので、兄弟の相剋が重要なテーマとなる。このメイン・テーマを担う役割はトラスク家に与えられており、従ってトラスク家の歴史の中には二組の兄弟が登場する。二世代目のアダムとチャールズ、そして三世代目のアロンとキャルである。この二組の兄弟はまったくの相似形といっていいほどよく似ていて、いずれも兄が素直で人を信じやすく、優等生的で、誰からも好かれる性質なのに対し、弟は陰険でひねくれていて、暴力的で、他人を寄せつけない。また兄は父親を憎むか、あるいは疎んじているのに対し、弟はその陰険な気質にもかかわらず実は絶望的なまでに父親の愛情を求めている。この二組の兄弟の生きざま、その争いや深い絆を借りて、カインとアベルの物語が二度にわたって変奏される。これが、『エデンの東』の基礎となるストラクチャである。
ところで『エデンの東』といえばみんなが思い浮かべるのはジェームス・ディーン主演の映画だろうが、あの映画はこの原作における三世代目部分、つまりアロンのキャルの兄弟の物語を抜き出したものだ。ジェームス・ディーンが演じているのは、陰があってひねくれ者の弟キャルである。
さて、二組の兄弟の物語で非常に重要な役割を果たすのが毒婦キャシー(別名ケイト)である。アダムとチャールズ兄弟の物語においてはアダムの妻でありながらチャールズと関係を持ち、アダムを裏切って遁走、売春婦となる。アロンとキャル兄弟の物語においては、母親が忌むべき売春婦であったという事実でアロンを破滅させる。この毒婦キャシーの造形はほとんどオカルト的なまでに人間離れしていて、特に若い頃は可憐な美貌の持ち主でありながら悪魔の如く邪悪という、ファム・ファタルの一典型として強い印象を残す。このキャシーの造形こそが本書でもっとも重要な文学的成果だとする意見さえあるようだ。
二組の葛藤する兄弟と一人の毒婦、この組み合わせから大河ドラマの屋台骨が出来上がるわけだが、本書のもう一つの特徴として、ストーリーがエンタメ並みに波乱万丈であることを挙げてもいいだろう。キャシーが犯す殺人や裏切りもそうだし、売春宿で前科者ジョーと繰り広げる悪党同志の駆け引きなどもうエンタメ小説そのものである。だから面白くてスイスイ読めるが、反面、通俗的であるという批判もよんでいるようだ。それにしてもキャシーは狡猾な毒婦なのだが、酒が入ると理性が吹っ飛んで本音をさらけ出してしまうのがおかしい。
大長編なのでエピソードも数多いが、私が印象に残ったのは、キャルの贈り物を父親アダムが拒絶するエピソード、姉を救えなかった罪悪感から死んでいくトムのエピソード、ケイトが自殺するエピソード、などである。特に、理由が説明されない毒婦ケイト=キャシーの自殺はその謎めいた動機ゆえに心に残った。
これらさまざまな人間ドラマの果てにこの物語が収束していくのは、意外なことに「ティムシェル(汝能う)」という聖書の一文である。この文章はアダムと中国人召使いリーの議論の中に登場するが、人間はただ神に命じられた通りに動く奴隷ではなく、自由意志で道を選択することができる、という意味である。作者スタインベックにとって、この自由意志こそがこの上なく崇高なものであった。
善と悪の戦いに関する壮大な物語であり、そして人間が犯した数々の過ちの物語でもある『エデンの東』。力作であることは間違いないが、確かに散漫なところもあると思う。色々な見方があるだろうが、個人的には、これをあの名作『怒りの葡萄』と同列に置くことはできない。部分部分は通俗的なほど面白いけれども、リーダビリティという意味でも『アンナ・カレーニナ』や『嵐が丘』のような文学作品、あるいはエンタメ小説の傑作には及ばないし、何よりもこの長大な物語のあと『戦争と平和』や『大地』のように壮大な一大叙事詩を読んだという感慨が立ち上がってこない。なんといっても、そこが物足りない。
とはいえ、それは非常に高い基準に照らしての話だ。『怒りの葡萄』の作者ということでどうしても期待値が高くなってしまうが、普通に読めば面白くてドラマティックで、多少深遠な哲学が匂う大河ドラマということになるだろう。
スタインベックの『エデンの東』全四巻を読了。ただ、全四巻と言ってもこのハヤカワ文庫版は文字サイズが大き目で、あっという間に一冊読み終わってしまう。だから全部読んでもそれほどの重量感はない。
スタインベックといえばピューリッツァー賞を獲った『怒りの葡萄』が有名だが、スタインベック自身はこの『エデンの東』を自己の最高傑作と呼んでいたらしい。書いた時期も、『怒りの葡萄』が30代の作品であるのに対し『エデンの東』は40代後半。自伝的な内容もあって、これこそ自分の集大成という思い入れがあったに違いない。が、発表当時の評判はまったく芳しくなかった。その後再評価されつつあるという話ではあるが、現在でも評価は割れているようだ。
内容を一言で言えば堂々たる大河ドラマで、時代は南北戦争から第一次世界大戦にかけての古いアメリカ、舞台は東海岸のコネチカットで始まりカリフォルニアに移る。トラスク家とハミルトン家という二つの家の、三世代にわたる錯綜した人間ドラマを写実的かつヒューマニスティックなタッチで描いていく。この二つの家族の関係はというと、別に血縁関係だったり宿命的な敵対関係にあるわけではなく、同じ土地に住む二つの(わりと名の知れた)家族というに過ぎないが、精神的にも物質的にも、お互いにさまざまな影響を及ぼし合う。
この物語は主役はやはりトラスク家で、中でも、コネチカットからカリフォルニアに引っ越してきてトラスク家の基盤を築くアダム・トラスクが物語の中心ということになるだろう。三世代の中では二世代目に当たる。ハミルトン家はトラスク家の重要な隣人という位置づけだが、一世代目のサミュエル・ハミルトンはアダムのみならずあらゆる登場人物に強い精神的影響を及ぼす、物語全体の精神的支柱とも言うべき重要人物だし、子だくさんのハミルトン家はさまざまに個性的な男女のキャラクターを輩出し、印象的なエピソードの数々を生み出していく。作者ジョン・スタインベック自身も、このハミルトン家の第三世代の人間ということになっている。ただしスタインベック自身はあくまで語り部で、自分自身が物語に絡んで活躍したりはしない。
さて、この小説はカインとアベルの物語を下敷きにしているので、兄弟の相剋が重要なテーマとなる。このメイン・テーマを担う役割はトラスク家に与えられており、従ってトラスク家の歴史の中には二組の兄弟が登場する。二世代目のアダムとチャールズ、そして三世代目のアロンとキャルである。この二組の兄弟はまったくの相似形といっていいほどよく似ていて、いずれも兄が素直で人を信じやすく、優等生的で、誰からも好かれる性質なのに対し、弟は陰険でひねくれていて、暴力的で、他人を寄せつけない。また兄は父親を憎むか、あるいは疎んじているのに対し、弟はその陰険な気質にもかかわらず実は絶望的なまでに父親の愛情を求めている。この二組の兄弟の生きざま、その争いや深い絆を借りて、カインとアベルの物語が二度にわたって変奏される。これが、『エデンの東』の基礎となるストラクチャである。
ところで『エデンの東』といえばみんなが思い浮かべるのはジェームス・ディーン主演の映画だろうが、あの映画はこの原作における三世代目部分、つまりアロンのキャルの兄弟の物語を抜き出したものだ。ジェームス・ディーンが演じているのは、陰があってひねくれ者の弟キャルである。
さて、二組の兄弟の物語で非常に重要な役割を果たすのが毒婦キャシー(別名ケイト)である。アダムとチャールズ兄弟の物語においてはアダムの妻でありながらチャールズと関係を持ち、アダムを裏切って遁走、売春婦となる。アロンとキャル兄弟の物語においては、母親が忌むべき売春婦であったという事実でアロンを破滅させる。この毒婦キャシーの造形はほとんどオカルト的なまでに人間離れしていて、特に若い頃は可憐な美貌の持ち主でありながら悪魔の如く邪悪という、ファム・ファタルの一典型として強い印象を残す。このキャシーの造形こそが本書でもっとも重要な文学的成果だとする意見さえあるようだ。
二組の葛藤する兄弟と一人の毒婦、この組み合わせから大河ドラマの屋台骨が出来上がるわけだが、本書のもう一つの特徴として、ストーリーがエンタメ並みに波乱万丈であることを挙げてもいいだろう。キャシーが犯す殺人や裏切りもそうだし、売春宿で前科者ジョーと繰り広げる悪党同志の駆け引きなどもうエンタメ小説そのものである。だから面白くてスイスイ読めるが、反面、通俗的であるという批判もよんでいるようだ。それにしてもキャシーは狡猾な毒婦なのだが、酒が入ると理性が吹っ飛んで本音をさらけ出してしまうのがおかしい。
大長編なのでエピソードも数多いが、私が印象に残ったのは、キャルの贈り物を父親アダムが拒絶するエピソード、姉を救えなかった罪悪感から死んでいくトムのエピソード、ケイトが自殺するエピソード、などである。特に、理由が説明されない毒婦ケイト=キャシーの自殺はその謎めいた動機ゆえに心に残った。
これらさまざまな人間ドラマの果てにこの物語が収束していくのは、意外なことに「ティムシェル(汝能う)」という聖書の一文である。この文章はアダムと中国人召使いリーの議論の中に登場するが、人間はただ神に命じられた通りに動く奴隷ではなく、自由意志で道を選択することができる、という意味である。作者スタインベックにとって、この自由意志こそがこの上なく崇高なものであった。
善と悪の戦いに関する壮大な物語であり、そして人間が犯した数々の過ちの物語でもある『エデンの東』。力作であることは間違いないが、確かに散漫なところもあると思う。色々な見方があるだろうが、個人的には、これをあの名作『怒りの葡萄』と同列に置くことはできない。部分部分は通俗的なほど面白いけれども、リーダビリティという意味でも『アンナ・カレーニナ』や『嵐が丘』のような文学作品、あるいはエンタメ小説の傑作には及ばないし、何よりもこの長大な物語のあと『戦争と平和』や『大地』のように壮大な一大叙事詩を読んだという感慨が立ち上がってこない。なんといっても、そこが物足りない。
とはいえ、それは非常に高い基準に照らしての話だ。『怒りの葡萄』の作者ということでどうしても期待値が高くなってしまうが、普通に読めば面白くてドラマティックで、多少深遠な哲学が匂う大河ドラマということになるだろう。
「ジョン・スタインベック後期の作品。「怒りの葡萄」に比べれば読後の高揚感や感動はないが、十分楽しめる作品。土屋政雄訳はいつも読みやすく文字も大きいので、すぐ読める。本来2冊本とすべき分量」
でした。ほとんど同じですね。
やはり私の印象も「やや散漫」というもので、でも凡作と言い切れないのは、スタインベックらしい魅力的な言葉がたくさんあるからでしょうね。例えば、
「この世の強大な力に打ち負かされたとき、サミュエルはいつもこうして笑う。たとえ負けても、敗北を笑い物にすることで、ちょっとした勝利を盗み取れるような気がした」(第十七章)
なんて本当にしびれます。
「教会と売春宿は同時に西部にやってきた。この二つが同じものの表裏だと言ったら、どちらからも声高な反論が飛んでくるだろう。だが、やろうとしたことは、結局、同じではないか。それは、人々にしばしの慰めを与えることだ。」(第十九章)
などというのも、思わず自分で使いたくなります。