アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

夜中に犬に起こった奇妙な事件

2007-05-26 08:49:00 | 
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』 マーク・ハッドン   ☆☆☆☆★

 昨日読了。これは面白い。ちょっと風変わりで、すごく感動的な小説だった。

 犬の死体から小説は始まる。犬は園芸用のフォークで突き刺されて死んでいる。誰が殺したのか? 「ぼく」は犯人を捜す決心をする。そしてその過程をこの小説に書くことにする。
 魅力的な書き出しである。小説にははっきりとは書かれておらず、読者にはだんだんに分かってくることだが、「ぼく」=クリストファーは高機能自閉症と呼ばれる病気にかかっていて、普通の人とは異なる世界に生きている。例えば人の表情を読むことができない。例えば写真のような記憶を持ち、人に触れられることに耐えられない。人ごみが耐えられない。互いにくっついている食べものは食べられない。怒ったり混乱したりすると悲鳴を上げる。茶色のものと黄色のものにさわれない。などなど。

 クリストファーはシャーロック・ホームズが好きなので、ミステリを書こうとする。「これは殺人ミステリ小説です」と彼は書くが、殺されたのは犬で、それ以上人が死ぬようなことはない。そして彼はつくり話を書くことができないので、自分の身に起きたことをそのまま書いていこうとする。まず彼は誰が犬を殺したか調べるために、飼い主のシアーズ夫人に話を聞きにいったり、近所の人達に聞き込みをしたりする。やがて父親に探偵活動を禁止されるが、それでも何とか調査を続行しとうとしていると、はからずもだんだんと自分の家族、つまり父親と母親のことに話の焦点が移って行く。

 小説の冒頭で説明されるのは、クリストファーは父親と一緒に暮らしていて、母親はすでに死んでいるということ。けれどもやがて意外な真実が明らかになる。そして物語は死んだ犬の捜査から、クリストファーと父親と母親の痛々しい人生の物語へと様相を変えて行く。ここでようやく読者は、これがクリストファーと家族の物語であることに気づくことになる。犬の「殺人」もきちんと話の中でケリがつけられるが、それはもっと大きなテーマに飲み込まれていく。

 この小説の中で、人々は懸命に生きている。人生のさまざまな問題にぶち当たり、絶望したり後悔しながら。みんな悪い人間ではないが、間違いを犯してしまう。そしてその代償を払いながら、尚も懸命に生きていかねばならない。読者はクリストファーの描写を通してそれを目の当たりにするが、クリストファー独特の感性がフィルターとなっているので感傷に流されず、抑制された透明な感動がもたらされる。またクリストファーの目から見た「普通の」人々の世界が奇妙な異界のようで、それがこの小説を他の家族小説・成長小説とは一味違う、魅力的なものにしている。

 それからまた、クリストファーは数学・物理学に関しては天才的な才能を持っているが、その彼が物語の合間に語る数学や物理学の話が非常に面白い。それは素数の話だったり、銀河系の話だったりするが、私がとても面白いと思ったのはモンティ・ホール問題の話だった。
 あなたはテレビのクイズ番組に出て、三つの扉のうちから後ろに車がある扉を当てなければならない。はずれの二つの後ろにはヤギがいる。あなたが扉を選ぶと、司会者は残りの二つのうちの一つを開き、後ろにヤギがいるのを見せる。そして、あなたは一度だけ考えを変えてもいい、と告げる。あなたは考えを変えて、もう一つの扉を選ぶべきだろうか? これがモンティ・ホール問題である。答えは簡単に思える。考えを変えても変えなくても確率は1/2で同じ、ように思える。ところが違うのだ。これにはびっくりした。
 他にも、子供達が妖精の写真を撮った<コティングリー妖精事件>の話や、生物の個体数の変化を表す法則などが出てくる。すごく面白い。
 
 物語は完全な大団円を迎えずに終わる。この家族が今後どうなっていくのかはまったく分からない。おそらくうまく行くだろうというような暗示もないし、むしろまた彼らが一つの家族になるのは難しいだろうと思われる。けれども、最後のパラグラフを読み終えて、私はほとんど涙が出るほど感動した。そして、クリストファーと別れたくないという思いでいっぱいになった。それは多分誰が読んでも同じだろうと思う。


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