アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

嵐が丘

2009-10-31 10:30:29 | 
『嵐が丘(上・下)』 エミリー・ブロンテ   ☆☆☆☆☆

 岩波文庫版で再読。何度読んでも壮絶な物語である。きれいとか感動的とか、端整とか心温まるとかそういう話ではまるでない。異形、凄愴という言葉がぴったりの驚くべき小説だ。この圧倒されるような感覚は一体何なのか。しかしもちろん、こういうものこそが本物の小説の美しさであって、あの岡本太郎画伯も「何だこれは」というものこそが芸術だと言っている。

 イギリスはヨークシャー地方の荒野に立つ館「嵐が丘」。その当主であるアーンショー家と隣家であるリントン家、そしてアーンショー家に拾われてきた得体の知れないヒースクリフが三代にわたって繰り広げる愛憎と復讐の物語、それがこの小説である。アーンショー家の娘キャサリンとヒースクリフの激しい愛がメインになってはいるが、それだけではなく、その子孫やヒースクリフの復讐もかなりのウェイトを占めている。キャサリンの印象があまりにも強いのでそういう感じがしないが、彼女は物語がまだ半分のところで死んでしまう。

 いやまあ、それにしてもこの登場人物たちの気性の激しさはどうだろう。誰もが異様なまでに憎しみをぶつけ合う。彼らの愛は憎しみとほとんど区別がつかない。出てくるのはみんな性格破綻者としか思えないような人物ばかりで、たとえばキャサリンはわがまま、ヒースクリフは残忍、後半出てくるヒースクリフの息子リントンは卑劣極まりない柔弱な若者だ。まったく救いようがない。一番まともに近いエドガー・リントンもどこか臆病者風の描き方がされていて、決してすんなり感情移入できる人物ではない。本書の主人公はやはりヒースクリフなのだが、後半、罪のない両家の子供たちに復讐していくヒースクリフの悪辣さは悪役としか思えない。そういう人物たちがお互いに感情をむき出しにして終始激しくぶつかり合う、まさに吹き荒れる嵐の如き物語だ。

 また作者のエミリが心から愛したというヨークシャーの荒野が見事に描き出されているのも大きな魅力である。緑したたるような美しい自然ではなく、曇天の下にいつも風が吹きすさんでいるような荒涼とした情緒。私はこの人寂しさと自然への畏怖が渾然一体となった独特の情景になぜか強烈に惹かれ、ノスタルジーすら感じるのだが、こういう描写にはこの『嵐が丘』以外でほとんどお目にかかったことがない気がする。これも物語の力かも知れない。この物語において背景の嵐が丘は単なる舞台というだけでなく、むしろその荒涼とした情景のエッセンスが抽出されることによって物語が立ち現れてきたといっていいほど、分かちがたく結びついているのである。キャラクターたちもみんなどこか神話的で、嵐が丘の精霊たちのようだ。キャサリンとヒースクリフの亡霊が風とともにさまよう嵐が丘の光景は、読者の心に焼き付いて離れなくなるだろう。
 
 そして本書の序文にある通り、私たちはこの作品がイギリスの片田舎からほとんど出たこともない一人の娘によって書かれた、たった一作だけの小説というところに、何かしら奇跡的な感じを受けるのである。しかし今では『リア王』『白鯨』と並んで英語で書かれた三大悲劇の一つと称されるこの『嵐が丘』も、発表当時はまったく受け入れられなかったらしい。このバロック的な異形性が、調和と洗練を旨とする当時の文学観と相容れなかったのだろう。粗野で荒削り、というわけだ。『ジェーン・エア』の作者でありエミリの姉であるシャーロット・ブロンテが、この地方の人々は本当に気性が荒くて乱暴なんだとか、作者は田舎に育ったんだから田舎くさいのはしょうがないなどと、序文で一生懸命擁護しているのが今となってはおかしい。当時『嵐が丘』は、『ジェーン・エア』の作者がまだ未熟な時代の失敗作と思われたらしい。

 それにしてもエミリ・ブロンテは寡黙で家庭的な女性だったというが、一体どういうわけでヒースクリフのような並外れた人物像を描き出し、ここまで激しい愛憎に満ちた息詰まるような物語を書いたのだろうか。文学少女のロマンティックな空想というにはあまりにも常軌を逸している。ヒースクリフは間違いなく文学が産んだ原型的人物像の一つであって、個人的には『月と六ペンス』のストリクランドに匹敵する稀有なキャラクターだと思っている。


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