映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

四つのいのち

2011年05月22日 | 洋画(11年)
 『四つのいのち』を渋谷のイメージ・シアターで見てきました。

(1)この映画の冒頭は、黒くて丸い塚のようなものに人が登って、スコップの形をしたものでペタペタ叩いている場面です。何をしているのかさっぱり分からないのですが、その塚のようなものから盛んに煙が噴き出しているので、あるいは陶器を製作しているのかなと思っていると、場面が変わって、年老いた牧夫が山羊を放牧させているシーンとなります。
 山の斜面の草地ではたくさんの山羊が草を食べていますが、その間も、上のペタペタという音が聞こえますから、冒頭の場面は何かしら意味があって、あとで再度登場するのではと思わせます。

 この山羊の放牧については、よく見ると、牧夫がコントロールするというよりも、数頭の犬が山羊の動きを監視していて、群れ全体を統率しているようです。
 老人の方は絶えず咳き込んでいて、放牧が終わると教会に行っては、山羊の乳と引き換えに、そこの掃除人から煎じ薬をもらっています(といっても、教会にたまっているチリ・ホコリをかき集めたもののようで、にもかかわらずそれを飲むと牧夫の咳が治まるのです)。
 ある時、老人はその薬を草地に落としてしまい、飲まずにいたところ、咳が酷くなってついには亡くなってしまうのです。



 その一方で、山羊の小屋では子山羊が生まれます(この子山羊も、仲間の群れから一匹だけ逸れてしまい、探し回った挙句、大きな樅の木の根元で力尽きてしまうのですが)。

 といったところまで進んでくると、この映画は一体何なのか、という疑問が生まれざるを得ません。
 どうして牧夫の老人以外の人間が明示的に登場しないのか、いったい時代設定はいつなのか、このあと物語はどんなふうに展開するのか、そもそも「四つのいのち」とは何を指しているのか、などなど。
 そして、この映画は、こんな風に台詞なしで最後まで進行するのだろうし、「四つのいのち」のうちの少なくとも二つは牧夫と山羊だろうが(犬の可能性も排除できないものの、大写しにならないので違うのではなかろうか)、他の二つはこれから登場するのだろう、などと自分で自分に言い聞かせつつ見続けることになります。

 結局、後の二つは、大きな樅の木と、冒頭の塚(ここでを焼いていたのです)であることがわかってきます。「人間、動物、木、木炭という四つの命」の移ろいが描かれているといえるのかもしれません。

 ですが、4番目の炭は無機物ではないでしょうか、となると「四つのいのち」といえるのでしょうか?原題は「Le Quattro Volte」(英語タイトルが「The Four Times」)ですから、「いのち」というよりも、むしろ、4つの「時」の移ろいというべきではないのか、などと思えてきます。

 それはともかく、本作品において興味をひかれるのは次のような点です。
イ)まったく台詞がないままに最後まで進むものの(あるいはだからこそ)、かえって次はどうなるのだろうという興味から、退屈することなく見終わることができます。

ロ)劇場用パンフレットの解説からすると、時代は現代であり、舞台は南イタリアのカラブリア州の田舎にある小さな村とのことですが、よくもまあこんな現代文明から見放されたような場所があったものだと驚いてしまいます。
 アンデスのマチュピチュのように、山の上に設けられた村であり、電気は通っているものの、夜になると数本の街灯しか点いておらず、また下からかけ上がってくる軽トラックも酷く時代がかっていますし、カトリックの古い祭礼が律儀に執り行われているようでもあります(イスラエルのエルサレム市のヴィア・ドロローサで行われるような行事が行われたりします)。

ハ)「四つのいのち」のうちの大きな樅の木は切り倒されて、村に運ばれてお祭りに使われますが、村まで運ぶ様子は、まるで諏訪大社の御柱祭を見ているような印象です。




ニ)最後のシーンで生産される炭は、実際にもこの村の各家に配られているのですが、今時このような燃料を使っている場所が他にもあるのでしょうか?

(2)この映画を見ていたら、なんとなく昨年末に見た『うつし世の静寂(しじま)に』が思い出されました。
 本作品が台詞が一言もないところから、『うつし世の静寂に』のようなドキュメンタリー風の作品と感じられたのかもしれません。
 あるいは、本作品が、文明の発達したヨーロッパの中に見出される非現代的なものを大きく取り上げているのと同じように、『うつし世の静寂に』は、頗る現代的な首都圏の中に取り残されて存続する前時代的なものを取り上げているためなのでしょう。

 そんなところから、『ブンミおじさんの森』とのつながりも見えてくるかもしれません。というのも、ブンミおじさんの息子は、9年ほど前に失踪してしまうのですが、ブンミおじさんが自分の死期を悟ると、猿の精霊の姿になって表れるのですが、あるいは本作品において、老いた牧夫が死ぬとその代わりのように子山羊が生まれてくるのとパラレルに思えてきます。
 全体として、本作品は、この『ブンミおじさんの森』と同じように、自然と随分親和的なのです。

(3)福本次郎氏は、「一切の説明やセリフ、音楽を排し長まわしを多用したドキュメンタリーのような手法は、時に退屈を覚えるほど変化に乏しい。しかし、映像と自然の音のみで表現しようとする試みはイマジネーションを刺激する」、「特殊効果でもCGでもないが、「そこにある何気ない風景」を装ったすさまじいまでの作り込みは、まさに“今までに見たことがない映像”。新鮮な驚きと強烈なインパクトに瞬きするのを忘れてしまった」として70点もの高得点を付けています。




★★★☆☆






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10 コメント

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完全なる円環 (milou)
2011-06-08 00:09:46
この映画は見ていないのですがフランスの雑誌に以下のような記事がありました。

『4つのいのち』の原題である《4回》とはそれぞれ違う《主役》に
よる連続した4つの楽章でもある。
すなわち一人の年老いた牧夫が息を引き取るとき仔山羊が新たな生を
受ける。その仔山羊が群れからはぐれ樹齢100年の大木の下で眠りにつく。
その大木も村の祭りのために切り倒され、そして最後には大木の枝も
木炭として灰になるだろう。
このような筋立てがやや主意主義的な印象を与えるとしても結果的に映画は最後の一巻まで
直接的な因果関係ではなく一時の間接的な連関がそれ以上の役割を
果たすことを示している。この抵抗しがたい論理は聖火リレーのように
言葉を捨象した世界で(台詞のみならずオフの声すら発せられない)
4つの《世界》(人間・動物・植物・鉱物)を繋いでいる。
しかし、その炎を持続させるためには、この永遠の回帰は物語の進行と
ともに人間の姿が徐々に消えることによってバランスを保つことが
必然的になる。
この自然の絶対的なリズムが作品を2つの慣習に結びつけている。
すなわち、ある種のビデオインスタレーション(フランマルティーノは
その分野のプロである)のように観客は映画がどのように展開して
いこうと最終的にはこの壮大な映像と音の円環に戻ることができる。

ということで、意外やフランマルティーノは束芋同様ビデオインスタレーションで有名らしいです。
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ビデオインスタレーション (クマネズミ)
2011-06-08 05:51:46
milouさん、実に貴重な情報をありがとうございます。
ただ、「その炎を持続させるためには、この永遠の回帰は物語の進行とともに人間の姿が徐々に消えることによってバランスを保つことが必然的になる」とありますが、映画では、物語を進行させているのはやはり人間ではないか、という印象を持ちました。
確かに、一番最初に登場する老牧夫は死んでしまいますが、次の山羊を世話するのも人間ですし、大きな樅の木を切り倒して村の広場に備え付けるのも人間、そして最後の炭焼きこそ人間の手が随分とかかっています。
また、最後のパラグラフにある「2つの慣習」とは何を指しているのでしょう?あるいは、末尾の「この壮大な映像と音の円環」のことかもしれません。
確かに、ブログ本文に書きましたように、冒頭の「ペタペタという音」とか映像が、ラストの炭作りの光景と円環をなしているのでしょう。ただ、全般的にこの映画では、「音」が極力排除されているようにも思えるところですが(「言葉を捨象した世界」!)。
としても、この映画を「ビデオインスタレーション」という観点から捉えているこの雑誌記事の見方は、とても斬新だと思いました。
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誤訳かも (milou)
2011-06-08 09:02:43
しつこくてすみませんね。まずこの文章はJOACHIM LEPASTIERという人の記事の一部ですが雑誌がカイエ・デュ・シネマなので(?)原文が非常に難解なのです。そしてもちろん僕の訳です。
といっても定期購読はおろか(日本では)手に取ったこともありません。今回、といっても1月でしたが、たまたま翻訳を頼まれ2日間で訳したのですが、何と言っても、当然映画を見ることもできず数枚のスチール写真だけで訳しているので、必ず(?)誤解や誤訳があると思います。

そういうことで映画も見たかったのですが諸般の事情で見れず。
もっとも見たら勘違いに赤面したかも…
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Unknown (milou)
2011-06-08 09:23:26
そしてもう一つははるかに控えめで、ここでは人間の刻印との関係性の問題ではあるが17世紀の虚飾である。納骨堂を連想させる積み重ねられた木炭がそのような当惑を覚えさせることを指摘せざるをえない。そのやり方は映画の最終部分に特徴的である。つまりカメラを敢えて暗い内部に据え不明瞭な映像しか見せない。(牧夫の納骨堂が閉じられる前に炭を燃やすための干し草の山が見える)フランマルィーノが選ぶのは文字通りの暗さである。しかしフラマルティーノの意図は決して陰鬱さを見せることではない。その暗い空間の中でも耳には聞こえない臨終の鼓動を(墓堀りや炭焼きたちが発する音の中に)想像で聞くことができる余地を残している。絶え間なく続く単調な旋律は消すことのできない音符のようである。この映画は生命の消失と再生に真摯に向き合うことへの抗いがたい意志が生まれることを明らかにしてくれる。
埃、石のかけら、あるいは煙、それらに実体はなく凝視するには余りにも微少で生気はないのだが実は豊かな呼吸を表している。これは決定的なポイントだが巧妙に積み上げられた木がすべてを物語る。(冒頭、そして最後の画面に顕著だが火山を背景に干し草が燃やされる空撮場面は煙で見えない)彼らなりのやり方で素朴な自然に直結した即物的なものだが真の汎神論に立ち会うことができる。
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補足でした (milou)
2011-06-08 09:29:05
最初のコメントで2番目が抜けていたので補足したのですが
間違って(数字も入れないのに)送られてしまいました。
なお“2つの慣習”ではなく“2つの造形美術”が正解です。

なぜ慣習になっているのか調べようと思ったら、また難しい原文に当たらなければならないので気が重い。
全文は引用した3倍ぐらいの量です。
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自然と人間 (クマネズミ)
2011-06-09 05:37:05
milouさん、貴重な情報をわざわざ追加していただき、ありがとうございます。
milouさんが訳されたエッセイはなかなか難解で、よくは理解できないものの、あるいは、「2つの造形美術」とは、「ビデオインスタレーション」(すなわち、「壮大な映像と音の円環」)と「納骨堂を連想させる積み重ねられた木炭」を指しているのかもしれません。
ただそうだとすると、その二つは、「物語の進行とともに人間の姿が徐々に消えることによって」得られる「自然の絶対的なリズム」がもたらすものとは思われず、「巧妙に積み上げられた木がすべてを物語る」と筆者自身が述べているように、あくまでも人間の手が隅々まで介在したことによって得られるものなのでは、とも考えられるところです。
もしかしたら、この映画では、よくいわれる西欧的な関係(自然と人間との対立)を越える東洋的な関係(自然と人間との融合)―誠に図式的に過ぎますが―が描かれているのではないかとも見受けられるのですが?
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Unknown (milou)
2011-07-28 23:08:14
やっと見ることができました。どちらかと言えば見たくなかったのですが
資料の翻訳までやった(自分への)義理を果たすため京都に出かけて見ました。

さて、まず最初に(多分絵が出る前に)スコップで叩く音が“4回”聞こえ、
まるでドラムの音のようでジャズのような“音楽”を感じました”。
絵が出てからの叩く音と、ややリズムが違い意図的に作った音のように思える。そう思ってみていると、とにかく目立つのが“音”です。明らかに意識的に
繊細に“音”を作っています。そこで思い出したのがジャック・タチです。
特に『のんき大将脱線の巻(祭りの日)』(そして『プレイタイム』)。
当然映画のタイプは違うが田舎の生活、曲がった道、メイ・ポールなのか
大木を立てる場面、アップはほとんどなくロングで“台詞”を聞かせないこと、“音”に拘っていることなど…

予想と違い“台詞”は結構あったが明確には“聞かせない”。
だから“字幕”は一切ない。そして、それで正解。

ところで、今回は前情報がたくさんあったため混乱しているのですが
“一切台詞がない”という注意書きが本編前に映ったように思うのだが
あったのでしょうか?
クマネズミさんの文章を見ると台詞がないことを知らず見続けてるように
思えるので…
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 (クマネズミ)
2011-07-29 06:28:03
milouさん、コメントをありがとうございます。
「とにかく目立つのが“音”で」、「明らかに意識的に繊細に“音”を作ってい」るとの鋭いご指摘は、さすがだなと思います。
こちらは「前情報」が殆どないままに見ていて、「“一切台詞がない”という注意書き」には注意していませんでした。ですから、おっしゃるように、「台詞がないことを知らず見続けて」、見終わってから、なるほどそういう映画なのかと思えてきた次第です。
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サイレント・カラー (CS)
2012-05-24 15:34:34
古代ローマ兵士(?)が来て罪人を(十字架刑につけるために)近くの丘に、しょっ引いていくシーンは、聖書のキリストのことの 追体験的な宗教儀式なのでしょうね。リアリティありましたね。
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サイレント映画 (クマネズミ)
2012-05-25 07:00:23
CSさんわざわざコメントをありがとうございます。
そういえば、23日の夜にWOWOWで放映していましたね!
ご指摘のシーンは、エントリ本文で触れたように、「エルサレム市のヴィア・ドロローサで行われるような行事」のようだなと思いました。
なお、本作は、アカデミー賞を受けた『アーティスト』よりもずっと自覚的に「音」のことを考えている作品なのでは、と思っているところです。

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