『別離』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)イラン映画で、昨年見て印象深かった『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディ監督の作品であり、さらに様々の国際映画祭で受賞しているとのことでもあり、期待して見に行ってきましたが、マズマズの仕上がりではないかと思いました。
冒頭から、裁判所における離婚調停の場面です。
英語教師である妻シミン(レイラ・ハタミ)は、前から請求していた海外移住の許可が下りたので外国へ出ようと言い出したところ、銀行で働く夫ナデル(ペイマン・モアディ)は、アルツハイマーを患っている父親を残してそんなことはできないと言い、さらに妻の方は、娘テルメー(サリナ・ファルハディ)の将来を考えて海外移住を強く望むのですが、夫は娘を手放すことにも同意しません。それで、離婚調停というわけでしょう。
でも、ことはそんなに簡単に進みませんし、娘も、なぜか夫のもとから動こうとはしないので(注1)、妻はとりあえず実家に戻ってしまいます。
そこで、夫は、父親の介護のために家政婦ラジエー(サレー・バャト)を雇うものの上手くいかず、ある時、怒って彼女をアパートの入り口から外へ追い出してしまいます(注2)。
すると、その時突き飛ばされたがために階段を転げ落ちて流産してしまったと、家政婦の夫ホッジャト(シャハブ・ホセイニ)から訴えられてしまいます。それも、胎児に対する殺人罪ということで(注3)。
そんなことになったら大変です。夫ナデルも妻シミンもなんとか罪にならないよう奮闘するのですが、さてその結果は、……?
前作『彼女が消えた浜辺』がミステリー的な要素を持っていたのと同様に、本作でも、家政婦ラジエーは本当にナデルによって流産したのだろうかということを巡っての謎の究明が見る者を引っ張ります(注4)。
本作ではさらに、イランの人たちの暮らしがじっくりと描かれていて、興味深いものがあります。それも、家政婦を雇える中流層(ナデル達が住むアパートに備わっている電器製品とか家具調度品などは、日本とそれほど変わりがないように見えます)と、その家政婦を供給する貧困層(住まいもテヘランの周辺部にあって、ラジエーは、バスなどを利用して1時間半以上もかけてやってきます)の生活振りが対比的に描かれています。
こう見てくると、本作では、色々なものが対になって描かれていることが分かります。
まずは、ナデル達の中流層(核家族化が進展しています)とホッジャト達の貧困層(一族がそばで生活しています)。
それに、
・銀行に勤めるナデルと失業中のホッジャト(ナデルは冷静沈着、ホッジャトは感情的)。
・英語教師であるシミンと家政婦のラジエー(海外に憧れるシミンと、敬虔なイスラム教徒のラジエー)。
・11歳のテルメーとラジエーの幼い子供ソマイェ(幼いながらも大人の行動をよく見ているテルメーと、悪戯盛りのソマイェ)。
なお、前作でもゴルシフテェ・ファラハニーとかタラネ・アリシュスティなどに強い印象を受けましたが、本作でも主役のシミンを演じるレイラ・ハタミなど、出演している女性が皆凄く魅力的なことにも驚かされます。
(2)本作については、イランの法律等の事情について知らないためでしょう、クマネズミにはよく分からないことが散見されます。
例えば、本作の出発点は、裁判所における離婚調停のように思われるところ、その内容は実際のところよく分かりません。
どうやら、以前は夫ナデルの方も海外移住に賛成していたらしいのですが(許可申請は家族単位で行なうのではないでしょうか)、彼の父親がアルツハイマーに罹ったために(注5)、独りで置いてはいけないと反対し出したようなのです(注6)。
ただ、こうした状況の変化に対して、妻シミンの態度が分かりません。アルツハイマーの義父をどうしようというのでしょうか?
確かに、最早顔の判別が出来ない義父をいくら世話をしても甲斐がないかもしれず、シミンとしては、義父を医療施設に預けた上で自分たちは移住すればいいのだと考えているのでしょうか(彼らはそれぞれ仕事を持っていますから、そのまま残っていても大した世話ができるわけではないでしょうから)。
でも、病気の父親を残して海外に行けないと夫が反対するのは、長年夫婦生活を営んで来たのであれば、妻はその気持ちを十分に理解出来るのではないかと思われます(結局は医療施設に入れるにせよ、そのまま放置する家族など通常では考えられないでしょうし)。
もしかしたら、ナデルは、妻シミンがその仕事を辞めて、家で父の面倒を見てくれることを望んでいるのかもしれません。にもかかわらず、ようやっと移住許可が下りたのだから海外に出ようと妻シミンが強く主張することから、二人の間がぎくしゃくし出したのではと思われます。
とにかくそれで離婚の話が持ち上がり、離婚自体はナデルは受け入れるものの、娘の親権を手放そうとはしないことから、シミンが裁判所に離婚調停を申し入れたのではと考えられます。
しかしながら、この場合、相手のナデルは、自分の方に何らの落ち度がないにもかかわらず離婚に応じてもかまわないと寛容な態度をとっているのに、さらに子供の親権まで請求することなど出来るのでしょうか?
ナデルは、子供の勉強を見たりして子煩悩であり、加えてシミンは、移住先での所得確保について現時点では何らの見込みも立ってはいないはずですから、それに子供の教育は海外で行う必要があるといった主張が認められるはずもありませんから、ナデルが子供の面倒を見ると強く主張すればそれでオシマイではないかと思われます。
仮にそれでオシマイにならないとしても、ナデルが離婚自体を認めなければ、シミンは今度は裁判で離婚を認めてくれるよう申請するかもしれませんが、到底そんな請求は受理されないでしょう(注7)。
でも、本作では、最後に、この離婚調停担当の裁判官の判断は、11歳とされるテルメーがどちらの親を選択するかに依存するかのような描き方がされています(注8)。
こんなことから、全体としてどうもよく分からない感じが残ってしまいます。
(3)渡まち子氏は、「必死に生きようとすればするほど、他の誰かを傷つけてしまうのは、もはや業(ごう)というしかないが、それぞれの心の痛みが分かるがゆえに、私たち観客は この上質でスリリングな人間ドラマから、一瞬も目が離せない。アスガー・ファルハディ監督は、前作「彼女が消えた浜辺」でも現代社会の病巣をミステリアス に描いたが、本作ではより洗練され鋭さを増している」として90点を付けています。
なお、本作については、前作の『彼女が消えた浜辺』と同様、沢木耕太郎氏が朝日新聞(4月27日夕刊)に論評を掲載しています。ただ、「この「別離」という映画には、イラン、あるいはイスラムという固有なものから入って、不変に達する回路が見事に用意されているのだ」と述べていることから分かるように、前作について「この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思える」と述べているのと同じ姿勢が窺えるところです。
(注1)娘のテルメーは、母親の元に行けばすぐに離婚となって、父親と別れて海外移住する羽目になるものの、父親の元にいる限り、母親は海外移住しないでしょうから、しばらくしたら元の家族に戻るのでは、と考えているのでしょう。
(注2)ある時、ナデルが勤務先から戻ると、いるはずの家政婦がおらず、父親がベッドに手を括りつけられたまま倒れているのを発見します。そのため、ナデルは、戻ってきた家政婦を家の中に入れずに外に追い出してしまうのです。
(注3)劇場用パンフレットに掲載されている貫井万里氏(早稲田大学イスラーム研究機構研究助手)のエッセイ「イラン映画の中の北と南」によれば、「イスラーム法では、胎児は受精後120日目以降人間と見なされる」とのこと。ラジエーは妊娠19週目ということで、殺人罪が適用される可能性があります。
(注4)この際争点となるのは、ナデルが、ラジエーが妊娠していることを知りながら彼女を突いたのかどうかと、さらには、仮に知っていたとしても、ナデルが突いたくらいでラジエーは階段を転げ落ちるかどうかという点です。
(注5)アルツハイマーというのは、突然に発症するものなのでしょうか?次第に病状が進展していくのが普通ではないでしょうか?でも、本作では、突然、そういう事態が父親に訪れたかのように見えます(Wikipediaでは「徐々に進行する点が特徴的」とされ、「国外移住すべく、1年半奔走して許可を取った」というのであれば、その間に誰かが気がついたはずではないでしょうか)。
(注6)仮に家族で申請している場合(夫婦が個々に申請することは余り考えられないのですが)、夫が反対したら妻だけ海外移住出来るのでしょうか?
(注7)上記「注3」の貫井氏のエッセイによれば、「女性から離婚を請求する権利は、夫が性的不能か精神異常のばあいなど著しく制限されていた」ところ、「現在では、夫のDVや麻薬中毒、夫が扶養の義務を果たしていない場合には、女性から離婚を家庭裁判所に申し立てできるようになった」そうです。
本作のケースは、言うまでもなくこれらのいずれにも該当しないでしょう。
(注8)本作ではテルメーの選択結果は示されませんが、その表情からすると、もしかしたら「お爺さん」と言ったのかも知れないな、と突拍子もないことを考えました。
★★★☆☆
象のロケット:別離
(1)イラン映画で、昨年見て印象深かった『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディ監督の作品であり、さらに様々の国際映画祭で受賞しているとのことでもあり、期待して見に行ってきましたが、マズマズの仕上がりではないかと思いました。
冒頭から、裁判所における離婚調停の場面です。
英語教師である妻シミン(レイラ・ハタミ)は、前から請求していた海外移住の許可が下りたので外国へ出ようと言い出したところ、銀行で働く夫ナデル(ペイマン・モアディ)は、アルツハイマーを患っている父親を残してそんなことはできないと言い、さらに妻の方は、娘テルメー(サリナ・ファルハディ)の将来を考えて海外移住を強く望むのですが、夫は娘を手放すことにも同意しません。それで、離婚調停というわけでしょう。
でも、ことはそんなに簡単に進みませんし、娘も、なぜか夫のもとから動こうとはしないので(注1)、妻はとりあえず実家に戻ってしまいます。
そこで、夫は、父親の介護のために家政婦ラジエー(サレー・バャト)を雇うものの上手くいかず、ある時、怒って彼女をアパートの入り口から外へ追い出してしまいます(注2)。
すると、その時突き飛ばされたがために階段を転げ落ちて流産してしまったと、家政婦の夫ホッジャト(シャハブ・ホセイニ)から訴えられてしまいます。それも、胎児に対する殺人罪ということで(注3)。
そんなことになったら大変です。夫ナデルも妻シミンもなんとか罪にならないよう奮闘するのですが、さてその結果は、……?
前作『彼女が消えた浜辺』がミステリー的な要素を持っていたのと同様に、本作でも、家政婦ラジエーは本当にナデルによって流産したのだろうかということを巡っての謎の究明が見る者を引っ張ります(注4)。
本作ではさらに、イランの人たちの暮らしがじっくりと描かれていて、興味深いものがあります。それも、家政婦を雇える中流層(ナデル達が住むアパートに備わっている電器製品とか家具調度品などは、日本とそれほど変わりがないように見えます)と、その家政婦を供給する貧困層(住まいもテヘランの周辺部にあって、ラジエーは、バスなどを利用して1時間半以上もかけてやってきます)の生活振りが対比的に描かれています。
こう見てくると、本作では、色々なものが対になって描かれていることが分かります。
まずは、ナデル達の中流層(核家族化が進展しています)とホッジャト達の貧困層(一族がそばで生活しています)。
それに、
・銀行に勤めるナデルと失業中のホッジャト(ナデルは冷静沈着、ホッジャトは感情的)。
・英語教師であるシミンと家政婦のラジエー(海外に憧れるシミンと、敬虔なイスラム教徒のラジエー)。
・11歳のテルメーとラジエーの幼い子供ソマイェ(幼いながらも大人の行動をよく見ているテルメーと、悪戯盛りのソマイェ)。
なお、前作でもゴルシフテェ・ファラハニーとかタラネ・アリシュスティなどに強い印象を受けましたが、本作でも主役のシミンを演じるレイラ・ハタミなど、出演している女性が皆凄く魅力的なことにも驚かされます。
(2)本作については、イランの法律等の事情について知らないためでしょう、クマネズミにはよく分からないことが散見されます。
例えば、本作の出発点は、裁判所における離婚調停のように思われるところ、その内容は実際のところよく分かりません。
どうやら、以前は夫ナデルの方も海外移住に賛成していたらしいのですが(許可申請は家族単位で行なうのではないでしょうか)、彼の父親がアルツハイマーに罹ったために(注5)、独りで置いてはいけないと反対し出したようなのです(注6)。
ただ、こうした状況の変化に対して、妻シミンの態度が分かりません。アルツハイマーの義父をどうしようというのでしょうか?
確かに、最早顔の判別が出来ない義父をいくら世話をしても甲斐がないかもしれず、シミンとしては、義父を医療施設に預けた上で自分たちは移住すればいいのだと考えているのでしょうか(彼らはそれぞれ仕事を持っていますから、そのまま残っていても大した世話ができるわけではないでしょうから)。
でも、病気の父親を残して海外に行けないと夫が反対するのは、長年夫婦生活を営んで来たのであれば、妻はその気持ちを十分に理解出来るのではないかと思われます(結局は医療施設に入れるにせよ、そのまま放置する家族など通常では考えられないでしょうし)。
もしかしたら、ナデルは、妻シミンがその仕事を辞めて、家で父の面倒を見てくれることを望んでいるのかもしれません。にもかかわらず、ようやっと移住許可が下りたのだから海外に出ようと妻シミンが強く主張することから、二人の間がぎくしゃくし出したのではと思われます。
とにかくそれで離婚の話が持ち上がり、離婚自体はナデルは受け入れるものの、娘の親権を手放そうとはしないことから、シミンが裁判所に離婚調停を申し入れたのではと考えられます。
しかしながら、この場合、相手のナデルは、自分の方に何らの落ち度がないにもかかわらず離婚に応じてもかまわないと寛容な態度をとっているのに、さらに子供の親権まで請求することなど出来るのでしょうか?
ナデルは、子供の勉強を見たりして子煩悩であり、加えてシミンは、移住先での所得確保について現時点では何らの見込みも立ってはいないはずですから、それに子供の教育は海外で行う必要があるといった主張が認められるはずもありませんから、ナデルが子供の面倒を見ると強く主張すればそれでオシマイではないかと思われます。
仮にそれでオシマイにならないとしても、ナデルが離婚自体を認めなければ、シミンは今度は裁判で離婚を認めてくれるよう申請するかもしれませんが、到底そんな請求は受理されないでしょう(注7)。
でも、本作では、最後に、この離婚調停担当の裁判官の判断は、11歳とされるテルメーがどちらの親を選択するかに依存するかのような描き方がされています(注8)。
こんなことから、全体としてどうもよく分からない感じが残ってしまいます。
(3)渡まち子氏は、「必死に生きようとすればするほど、他の誰かを傷つけてしまうのは、もはや業(ごう)というしかないが、それぞれの心の痛みが分かるがゆえに、私たち観客は この上質でスリリングな人間ドラマから、一瞬も目が離せない。アスガー・ファルハディ監督は、前作「彼女が消えた浜辺」でも現代社会の病巣をミステリアス に描いたが、本作ではより洗練され鋭さを増している」として90点を付けています。
なお、本作については、前作の『彼女が消えた浜辺』と同様、沢木耕太郎氏が朝日新聞(4月27日夕刊)に論評を掲載しています。ただ、「この「別離」という映画には、イラン、あるいはイスラムという固有なものから入って、不変に達する回路が見事に用意されているのだ」と述べていることから分かるように、前作について「この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思える」と述べているのと同じ姿勢が窺えるところです。
(注1)娘のテルメーは、母親の元に行けばすぐに離婚となって、父親と別れて海外移住する羽目になるものの、父親の元にいる限り、母親は海外移住しないでしょうから、しばらくしたら元の家族に戻るのでは、と考えているのでしょう。
(注2)ある時、ナデルが勤務先から戻ると、いるはずの家政婦がおらず、父親がベッドに手を括りつけられたまま倒れているのを発見します。そのため、ナデルは、戻ってきた家政婦を家の中に入れずに外に追い出してしまうのです。
(注3)劇場用パンフレットに掲載されている貫井万里氏(早稲田大学イスラーム研究機構研究助手)のエッセイ「イラン映画の中の北と南」によれば、「イスラーム法では、胎児は受精後120日目以降人間と見なされる」とのこと。ラジエーは妊娠19週目ということで、殺人罪が適用される可能性があります。
(注4)この際争点となるのは、ナデルが、ラジエーが妊娠していることを知りながら彼女を突いたのかどうかと、さらには、仮に知っていたとしても、ナデルが突いたくらいでラジエーは階段を転げ落ちるかどうかという点です。
(注5)アルツハイマーというのは、突然に発症するものなのでしょうか?次第に病状が進展していくのが普通ではないでしょうか?でも、本作では、突然、そういう事態が父親に訪れたかのように見えます(Wikipediaでは「徐々に進行する点が特徴的」とされ、「国外移住すべく、1年半奔走して許可を取った」というのであれば、その間に誰かが気がついたはずではないでしょうか)。
(注6)仮に家族で申請している場合(夫婦が個々に申請することは余り考えられないのですが)、夫が反対したら妻だけ海外移住出来るのでしょうか?
(注7)上記「注3」の貫井氏のエッセイによれば、「女性から離婚を請求する権利は、夫が性的不能か精神異常のばあいなど著しく制限されていた」ところ、「現在では、夫のDVや麻薬中毒、夫が扶養の義務を果たしていない場合には、女性から離婚を家庭裁判所に申し立てできるようになった」そうです。
本作のケースは、言うまでもなくこれらのいずれにも該当しないでしょう。
(注8)本作ではテルメーの選択結果は示されませんが、その表情からすると、もしかしたら「お爺さん」と言ったのかも知れないな、と突拍子もないことを考えました。
★★★☆☆
象のロケット:別離
さまざまな問題が描かれていて
脚本が非常に巧いなぁと
前作よりも洗練されていることには納得ですが
私的には「彼女が消えた浜辺」の方が好きだったりします
クマネズミも、この作品にはよく分からないところがあったりして、「リバー」さん同様、「彼女が消えた浜辺」の方が好きです。
だからナデルにしてみたら現時点でもかなり譲歩していると思っているのに、父の事も考えずに海外移住したいという彼女に余計に苛立つってことなんじゃないかと。
実はこれって移住はともかくとして、日本でも似たような状況ってあると思うんですよね。
おっしゃるように、「ナデルにしてみたら現時点でもかなり譲歩していると思っているのに、父の事も考えずに海外移住したいという彼女に余計に苛立」っているのでは、と思います。
ただ、この場合、離婚調停を提起しているのが、「苛立っている」ナデルではなく、シミンのように見えるのが不可解ではないかと思えるのですが(余計に、テルメーの親権を確保するのが難しい状況と思えますから)。
そして、それらの問題点が全て吹き出すのがナデルが被告になる次の裁判。個々人の都合により正義が遂行されない。外国に行く行かないに関わらず、問題が発生した場合、個々人の都合で左右される正義に取り囲まれている限り、テルメーは正しく成長できない。だから、テルメーは選ばない。選んでも選ばなくても未来は変わらないから。
ご指摘の点はその通りではないかと思います。
「娘を海外で教育させたい」というのでは裁判にも調停にもならないのではと思われますし、また、映画を見終わったあと、テルメーはどっちを選ぶだろうかと観客は考えてしまいますが、「テルメーは選ばない」というのがあるいは正解なのかもしれません。