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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

メランコリア

2012年03月14日 | 洋画(12年)
 『メランコリア』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で凄そうな作品と思えたので見たのですが、実際にもなかなかの出来栄えで大層感動しました。

①予告編には映画の冒頭の序章の一部が使われていて、メインタイトルが現れてからが本編となります。そこまではオペラの序曲といった感じでしょう、本編全体の展開振りが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が大きく流れる中で、ゆったりと映し出されて予告されます。
 特にそこでは、ブリューゲルの「雪中の狩人」が使われるなど、絵画的なイメージが横溢しています(注1)。
 序章の最後に、地球(日本列島が見える感じです)と大きな惑星が衝突して、ゆっくりと地球が大きな惑星の中に飲み込まれていく様子が映し出されますが、ため息が出るように美しいものです。



②次いで、「メランコリア」のメインタイトルが現れて始まる本編は、「第1部ジャスティン」、「第2部クレア」と分けられていて、前者は、主人公ジャスティンキルスティン・ダンスト)の結婚披露宴、後者は惑星メランコリアの地球接近(第1部でも、僅かながらの兆候が描かれますが)が中心的に描かれます。いってみれば、第1部は、常識的な世界に生きる様々の人間の俗な有様を、結婚披露宴という儀式の中で凝縮させて描き出しており、第2部は、有り得ないような自然の出来事が迫ってくる中における4人の動きを映し出します。

 この対比が至極興味深いのですが、まず興味を惹かれるのが、第1部の結婚披露宴における主要な登場人物の振る舞いです。
 例えば、花婿のマイケルアレクサンダー・スカースガード)は、直前に購入したリンゴ園の写真を見せて、「リンゴの木が君を幸せにする」などと言いますが(注2)、ジャスティンは、その写真を置いたままどこかへ行ってしまいます。
 また、この披露宴を企画して進行に当たっている花嫁ジャスティンの姉クレアシャルロット・ゲンズブール)は、ジャスティンに「今夜は、馬鹿な真似はしない約束よね」と念を押したにもかかわらず、彼女に振り回され続けて、「時々あなたが堪らなく憎くなる」と非難がましく言い放ちます(注3)。
 さらに、姉クレアの夫ジョンキーファー・サザーランド)は、披露宴会場として自分の豪壮な邸宅(18ホールのゴルフコースを備えていることが自慢のようです)を提供していますが、「このパーティにいくらかかったか、普通の人なら一財産だ」などとジャスティンに言います。
 ジャスティンの父親デクスタージョン・ハート)は、一方で匙を隠して騒ぎ立てたり、他方でスピーチで「愛する娘よ、輝いている」などと述べたりします。
 デクスターの元の妻でジャスティンの母親ギャッピシャーロット・ランプリング)は、披露宴におけるスピーチで、「私は、結婚制度も何も信じていない。せいぜい今のうちに楽しんで」などと元夫に当てつけがましく述べます。
 ジャスティンが勤める広告会社の上司ジャックステラン・スカースガード)は、披露宴におけるスピーチで、「彼女は広告業で才能があるから、これまでのコピーライターではなくてアートディレクターにする」と発表し、以後も尊大な上司風を吹かし続けます(注4)。

 更に興味を惹かれるのが、主人公のジャスティンがかなりの鬱病だという点です。第1部の披露宴においても、主役にもかかわらずジッとしていられずに、顔つきが酷く暗くなって、何度も宴会場を抜け出したりしています(注5)。

 結局、ジャスティンの考えられないような振る舞いから、結婚披露宴は台無しになってしまい(結婚は解消となります)(注6)、招待客は皆帰って(注7)、ジャスティンや、その姉のクレア、クレアの夫のジョン、そして二人の子供のレオが残される中で、映画は第2部に入り、惑星メランコリアが次第に接近してきます。

③第2部の舞台も、第1部と同じジョンの邸宅。ただ、劇場用パンフレット掲載の「Story」によれば、第1部と第2部との間には7週間の隔たりがあるとのこと。

 ジャスティンが邸宅に戻ってきますが(いったい何処に行っていたのでしょう?)、タクシーにも乗れないほど重篤な様子で(体に力が入らず、風呂に入ることも出来ません)、眠り続けます。
 他方で、クレアは、惑星が地球に衝突するからと不安になって騒ぎますが、ジョンは、「そんなことを言っている科学者はいない、地球の側を通過するだけだ」などと言って安心させます(注8)。
 ジャスティンも、クレアと一緒に庭のブドウを摘んだりしているうちに次第に回復し、クレア達と一緒に空を見上げて接近してくる惑星を見上げたり、ある時は川縁で全裸になって空を仰いだりします(その様子を、クレアは覗き見しています)。

 今夜惑星が通過するという日になると、これまで無断欠勤したことのない執事リトル・ファーザーイェスパー・クリステンセン)がジョンの邸宅から姿を消します(その結果、周囲にいるのは4人だけになってしまいます)。
 惑星が地球の近くを通過するのを見たいと言っていたレオを起こし、ジョンは、テラスに置いてある望遠鏡を覗いたりします。
 画面には大きくなった惑星が映し出され、また息苦しくもなってきますが、ジョンは、「惑星が地球の大気を吸い込んでいるだけで、惑星は時速10万キロで地球から遠ざかりつつあるから大丈夫だ」などと言っています。
 ところが翌朝になって、外の椅子で眠っていたクレアが起き出して周囲を見回すと、いるはずのジョンがいません。
 探しに行くと、厩舎でジョンが事切れていました(何かのためにクレアが買って、鍵を掛けた抽斗に仕舞っていた毒薬を仰いだようです)。
 ジョンの死体に藁を掛けてあげたクレアは、惑星が大きくなっているのを確認して泣き出してしまいます。
 馬はどこかへ走り去ってしまい、車も動かすことが出来ず、残る3人は邸宅の外には出れません。

 クレアは最後の時を覚悟しますが、手を繋いで一緒にワインを飲むといった儀式めいたことをしてそれを迎えようと提案します。
 他方、ジャスティンは、「ベートーヴェンの第9を流したり、キャンドルを灯したりするのもいいけど、そんなことは最低」と言い放ち、またもやクレアに「あなたが堪らなく憎い」と言われてしまいます。
 ジャスティンは、怖がるレオに「魔法のシェルターをつくればいいの」と言って、2人で森に入って木の枝を何本も集め、その皮をナイフで剥ぎ取ります(注9)。



 それらをテントの格好に立て3人は中に入って、惑星が衝突する瞬間を待ちます。サアどうなるでしょうか、……?

(2)とはいえ、惑星メランコリアは、突然大接近したかと思うと、また遠ざかったり、そしてまた近づくなどと、自然界では有り得ないような動きをすることから〔3月16日追記:この点については、下記の「佐藤秀」さんのコメントを参照〕、その名称からも簡単に予想がつきますが、ジャスティンに間隔をおいて訪れる欝状態を象徴しているもといえそうです。
 となると、第1部は、世俗の間における鬱病患者ジャスティンの動きを客観的な目から描き出し、第2部はそれを内面から象徴的に捉えたものといえるかもしれません。
 そうなれば、ラストの大衝突の映像も、現実に起こったことというよりも、むしろ、鬱病状態に患者が陥った様を具象的に描き出している、ということなのかもしれません(注10)。

 ただ、第2部のタイトルがクレアとなっていて、実際にもクレアが中心的に描かれていますから、ジャスティンの精神状態だけを表しているとばかりもいえない感じもします。
 それに元々、そうした精神状態を描くだけであれば、何もこんなに大掛かりなことをせずともと思えますし、またそうすることにどれほどの意味があるのか疑問なしとしません(注11)。

 そこから、惑星メランコリアが鬱状態を象徴しているなどといった解釈をせずに、やはりこの作品を通常のSF物(近未来?)と捉え、実際に起こりうる惑星と地球との衝突を描いていて、迫り来る大きな危難に対して人はどう対応するのかを描き出していると考えてみたら(注12)、あるいはそうしたシチュエーションを背景にした姉妹の葛藤を描こうとしているとみたら(注13)、さらには、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が全編にわたって流れていることから、そのオペラで描かれる「愛の死」という観点から捉えてみたらどうかな(注14)、など様々に考えられるのではとも思えてきます。

 というように、本作に関しては、第1部と第2部との関係、更には第2部自体をどう捉えるのかが興味を惹きます。
 大袈裟に構えれば、ゲーテの『ファウスト』の第1部と第2部との関係に準えることが出来るかもしれません。というのも、その第1部は、ファウストとグレートヒェンとの恋物語であり、本作の第1部で描かれる結婚披露宴に対応し、その第2部は、皇帝に仕えるファウストの大旅行とか大事業や死の物語であって、本作の第2部で描かれる惑星メランコリアの地球衝突とジャスティンらの死に対応している感じがします(むろん、酷く大雑把過ぎる捉え方で、直ちに異論が出されることでしょうが)。
 『ファウスト』の第1部が比較的分かりやすいのに対し第2部が難解なのも、本作と類似しているといえるでしょう。

 あるいは、本作の第2部でジャスティンがクレアに、「最後の時には第9でも?」と皮肉を込めて言いますが、ベートーヴェンの第9交響曲の第1楽章~第3楽章と第4楽章との関係を、本作の第1部と第2部との関係に準えても面白いかな、とも思っています(なにしろ、第2部は、第9の第4楽章のソリストの数と同じ4人が登場人物ですし、それも男2・女2なのですから!)。

 それはさておき、第2部の解釈に当たっては、ある意味で、劇場用パンフレットに掲載されているラース・フォン・トリアー監督のインタビュー記事で尽きているのかもしれません。
 何しろ、そこでは、「この映画は、精神分析医のうつ病についての所見から発想を得たのが始まりだ」とか、「憂鬱は、ある意味恋に落ちるのと同じような甘い痛みなんだ。惑星メランコリアと地球の衝突はその象徴なんだよ」、「僕にとっては、ジャスティンは、メランコリアを体現したものなんだ」、「このメランコリアは、姉妹のひとりの象徴だというアイデア」などと述べられていて、本作は全体として鬱病患者を描き出したもの、といってしまえそうに思えてきます。

 製作者の意図は、いうまでもなく大層重要で、映画を見るに際し貴重な手がかりとなることは確かです。でも、それが明かされて、そしてそれですべてが解明されておしまいだとしたら、こんなつまらない話はありません。こうした作品の製作に当たっては、製作者がすべてをコントロールできるものではなく、製作者の意図とは大きく外れたものが観客に伝わるからこそ映画にする意味があるのだとも思われます。そういうところから、ここではほんの少々ながら製作者の意図なるものを括弧に入れて考えてみてはどうかな、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「全編に流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の優雅なメロディや、絵画のようにシュールで美しい構図は、まさにアートと呼ぶにふさわしい。破壊的にもかかわらず、不思議な幸福感に包まれるラストもまた、印象に残る。もっとも話そのものはミもフタもない上に、2部構成で冗長。技巧的な語り口は面白いが、作品の評価は激しく分かれそうだ」として65点をつけています。




(注1)ここらあたりは、第1部において、ジャスティンが、部屋に飾られている抽象画の画集(カンディスキーとかマレーヴィチなど)を、ブリューゲルカラヴァッジョなどの画集に置き換えるあたりに対応しているのでしょう〔もしかしたら、序章が超スローで描かれているところから、未見ながら『ブリューゲルの動く絵』(本作でジャスティンの母親に扮しているシャーロット・ランプリングが出演しています!)とは逆に、動くものを静止させる方向に描き出そうとしているともいえるのかな、と密かに思っています〕。

 なかでも、花嫁衣装を身にまとったジャスティンが川の中をゆっくりと流れて行く様は、劇場用パンフレット掲載の滝本修氏のエッセイ「処罰と顕示/映画『メランコリア』の核」で指摘されているように、ジョン・エヴァレット・ミレーが描いた著名な作品「オフィーリア」そのものでしょう。



 さらに、同じジャスティンが木々の枝とか蔦を引きずりながらスローに走る様は、クマネズミには、松井冬子の「陰刻された四肢の祭壇」と類似の感じを呼び覚まします(丁度いま、横浜美術館で「松井冬子展」が開催中でもあり!)。





 なお、ジャスティンは、第1部で、「私思うように動けない。灰色の毛糸が絡まって足を取られ、すごく重く引っ張られて進めない」とクレアに打ち明けますが、彼女がゆっくりと走る姿は、あるいはそれを映像化したものかもしれません。

(注2)マイケルは、人前でスピーチをしたことがないとして、わずかに「I love you」と言って、「僕は誰よりも幸せな男だ、というのが偽りのない言葉だよ」と付け加えるくらいですが、人柄がいい点は間違いなさそうで、結婚解消の憂き目を見るとは思いもよらなかったでしょう!

(注3)でも、翌日、皆が帰った後に2人で乗馬を楽しんだ際、ジャスティンが「努力したのよ」というと、クレアも「そうね、頑張ったわ」と許しています。

(注4)彼は、披露宴の席で、2日前に雇い入れた若者をジャスティン担当に指名し、「ジャスティンは、必ずコピーを思いつく、その瞬間を逃すな」と命じます。それ以来、その若者は、ジャスティンにまといつきます。
 なお、どこまでも上司風を吹かすジャックに対して、ジャスティンは悪態を吐き解雇されてしまいますが、彼女はジャックに対して皿を投げつけます。

(注5)ジャスティンは、一度などは衣装を全部脱いで風呂につかったりします〔ギャッピーまで風呂に入ったのを見て、ジョンはクレアに、「君の家族はみな異常だ、信じられない!」と叫びます〕。
 さらに驚いたことに、ジャスティンは、上記の「注4」で触れた若者と、邸宅の前に設けられたゴルフコースにあるバンカーの中でセックスに及ぶのです(あとでその若者が、一緒に事業をやっていこうと提案したのに対し、ジャスティンはすげなく断りますが)!

(注6)そもそも、宴会場に花嫁花婿を運ぶ車が大きすぎて前に進むことができず、結局2人は途中から歩かざるを得なくなって、開始時刻に2時間以上も遅れて会場に到着するという出来事があって、最初からケチのついた結婚ではあったのですが!
 なお、マイケルが、ジャスティンとの別れ際に、「別の可能性もあった」と話すと、ジャスティンは、「そうね、でも分かっていたでしょ」と言い、それに対してマイケルは「そうだな」と応じます。

(注7)ジャスティンは、部屋まで用意してこの邸宅に泊って自分の話を聞いてほしいと父親に頼みこんだにもかかわらず、父親は置手紙をして立ち去ってしまいます。すべてにニヒルな態度を示す母親(ジャスティンに、「夢を見るのをやめて、早くこんなところから出ていくのよ」と言います)、逆に娘にきちんとした態度をとらず安逸な方に走りがちに見える父親との間で育ったことも影響して、ジャスティンは鬱病になったのでしょうか。

(注8)他方で、ジョンは、クレアには内緒で、食糧など備蓄用物資を倉庫に運び込んだりもしています。

(注9)第1部で、クレアの息子レオの部屋に入ったジャスティンは、レオから「いつシェルターを作るの?」と言われ、「たくさん作らなくちゃ」と答えていますから、2人の間では普段から“シュルター”の話をしていたようです。

(注10)だいたい、あのように地球より遙かに巨大な星が、太陽系の外から地球に接近してきたら、その引力で地球の公転や自転は大いに変化してしまうでしょうし(その前に、「惑星メランコリア」自体が、木星や土星の引力の影響を受けることでしょう)、地上の物体は、その引力によって、衝突よりかなり前に壊滅的に崩壊してしまうのではないでしょうか?
 なにより、「惑星メランコリア」と命名されていますが、どの恒星の「惑星」なのでしょうか?
 あるいは、太陽系の外の星ではなくて「小惑星」の一つ?でも、それらは地球よりもズット小さな物ばかりです。

 そこで、映像とは逆に、地球に「小惑星」の中の大きな物が衝突するお話としてみたらどうでしょう。過去にもそうした物が地球に衝突したことで、恐竜が絶滅したとされているようですから。
 ただその場合に問題なのは、衝突する場所が予め特定されるでしょうから、そこの住民は避難しさえすれば、映画のような事態にはならない可能性があるということでしょう。

(注11)劇場用パンフレットに掲載されているラース・フォン・トリアー監督のインタビュー記事で、監督は、「憂鬱に支配された人間は、普通の人間よりも大きな可能性を秘めている。彼らは、最悪の状況を常に想定していて、実際に悲惨なことが起こったときには、普通の人々よりもずっと冷静に対応できるんだ」と述べていますが、だからどうだというのでしょう。
 まさか、世の中の人は皆鬱病になるべきだというのではありますまい。

(注12)上記「注10」で述べたように、「惑星」の地球衝突が本作のような形で起きるのかどうか疑問なしとしませんが。

 それでも例えば、アカデミー賞映画『タイタニック』(1997年)で描かれている状況を考えてみてはどうでしょう。沈みゆくタイタニック号のなかで人々がどのような行動をとったのでしょうか(丁度、その映画が、このほど3D作品として再度お目見えするそうですが)?
 あるいは、ジャック(レオナルド・ディカプリオ)とローズ(ケイト・ウィンスレット)を合わせた人格が本作のジャスティンなのかもしれません。
 また、ジョンのような俗物丸出しの典型的な行動をとる人物として、ローズの婚約者キャル(ビリー・ゼイン)を挙げることが出来るのかもしれません。

(注13)ラース・フォン・トリアー監督は、インタビュー記事の中において、ジャスティンの名前の由来が、マルキ・ド・サドにあることまで明かしています。としたら、ジャスティンは、マルキ・ド・サドの『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』(または『新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』)によるのでしょう。
 河出文庫の『美徳の不幸』(澁澤龍彦訳)の「初版あとがき」において、訳者の澁澤氏は、「サドが生涯を賭けて追求した美徳と悪徳の哲学的イメージがジュリエットおよびジュスティーヌという対照的な二人の姉妹の人格のうちに結実せしめられている」云々と述べています。
 そうだとすると、少なくとも「対照的な二人の姉妹の人格」というレベルでは、本作のジャスティンとクレアという姉妹は、サドのジュスティーヌとジュリエッタという姉妹と共通点を持っていると考えられます。
 例えば、次のような第2部における2人の間の会話はどうでしょう。
「ジャスティン:地球は邪悪、燃えても問題ない。
 クレア:レオはどこで成長するの?
 ジャスティン:地球の生命も邪悪。
 クレア:他にも生命はいるかも?
 ジャスティン:他にはいない。
 クレア:そんなことは分からない。
 ジャスティン:私には分かる。地球にしか生命はいない。」

(注14)Wikipedeiaの「トリスタンとイゾルデ」のによれば、前奏曲のテーマとしてワーグナー自身が、「愛の憧憬や欲求がとどまるところを知らず、死によってしか解決しないこと」と述べているとのこと。
 そうであれば、第1部の結婚披露宴が「愛の憧憬や欲求がとどまるところを知ら」ない様子を描いていて、第2部が「死によってしか解決しない」点を描いていると言えないこともないのではと思われます。




★★★★☆





象のロケット:メランコリア


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7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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オジャマシマス (サテヒデオ)
2012-03-15 09:12:34
 拙ブログの「メランコリア」の記事にトラックバックしてくださいましてありがとうございました。
 どうもgooブログとは相性がよろしくないようでして、特に「メランコリア」の記事においてこちらからトラックバックを送ることが叶いません。
 申し訳ないですが、このコメントにてトラックバックのかわりとさせてください。
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Unknown (リバー)
2012-03-15 09:51:26
TB ありがとうございます。

なるほど、解釈がいろいろありますよね
賛否ありそうですが 見てこその映画でした
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Unknown (佐藤秀)
2012-03-15 11:03:26
>惑星メランコリアは、突然大接近したかと思うと、また遠ざかったり、そしてまた遠ざかる(近ずく?)などと、自然界では有り得ないような動きをすることから

有り得ますよ。いったん遠ざかったメランコリアが地球と太陽の間を通過すると、メランコリアと太陽の引力が合成されて、地球がメランコリアを追いかけるように接近する可能性があります。映画では「死のダンス」と説明されてました。
またメランコリアは銀河系の中心を公転している浮遊惑星です。
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お礼 (クマネズミ)
2012-03-16 05:55:18
「サテビデオ」さん、わざわざお知らせいただき、誠にありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。
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お礼 (クマネズミ)
2012-03-16 05:59:18
「佐藤秀」さん、TB&コメントを感謝申し上げます。
いつも貴ブログの記事を読んで、その類い稀な視点からの鋭すぎる分析に舌を巻いております。
こんな機会でもないとコメントをいただけないのかもしれませんが、長々しいだけのエントリを読んでいただいた上に、インプットミスを含むご指摘までいただき誠にありがとうございます。いつも生半可な知識で冷や汗びくびくもののところ、こうやって明確にご指摘いただくと、クマネズミの不勉強さが露呈してしまい、反省すること頻りです。
PC画面に「Death」と出てきたり、また「科学者だって計算違いがありうるんだ」などとジョンが言ってたことなどは覚えているところ、さらにそれが「死のダンス」のことであるとか、また「(自由)浮遊惑星」についても分かりませんでした。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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リンゴ (佐藤秀)
2012-03-17 23:55:06
なんかお手数おかけして申し訳なかったです。

ついでにリンゴの話に言及されてましたが、これも考え方によってはニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見した逸話と関係しているのかなあ、と思っちゃいました。ジャスティンも「引っ張られる」と言ってましたし。
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お気遣い無用です (クマネズミ)
2012-03-19 09:48:20
「佐藤秀」さん、お気遣いなさらなくとも結構です!
 それに、単なるリンゴ園の写真からニュートンの引力の話にまで連想が及ぶとは、実に驚きました!
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