映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

共喰い

2013年09月19日 | 邦画(13年)
 『共喰い』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、田中慎弥氏の芥川賞受賞作の映画化であり、それも『東京公園』などの青山真治監督が手がけた作品だというので、映画館に行ってみました。

 舞台は、山口県下関市の川辺という地域。
 映画の冒頭で、下関行きのバスから高校生が降りてきて港を歩いていきますが、「俺が17歳の時、おやじが死んだ。昭和63年だった」というナレーションが流れます(注1)。
 これで、この高校生・遠馬菅田将暉)が主人公であることや時代設定がわかります。



 さて遠馬は、別に住む母親・仁子田中裕子)が営む魚屋に入っていきます。



 彼女は、空襲により右腕の先がなく、特別の器具をつけて魚を捌いています。
 さらに彼女は、空襲で両親をなくし、魚屋に住み込みで働いていた時に、元夫の光石研)と知り合い結婚します。



 ところが、結婚した後に、円がセックスの時に殴りつけることや他に女がいることを知ります。遠間がお腹にいる時は殴りませんでしたが、暫くするとまた殴り始めたため、仁子は夫と別れ、一人で魚屋を営むことにしたとのこと。
 物語は、遠馬と仁子、それに遠間の父親の円とその現在の女・琴子篠原友希子)、さらには遠馬が付き合っている女高生・千種木下美咲)の間で展開していきます(注2)。
 中心となるのはどうやら横暴な父親・円のようですが、さて一体どうなることでしょう………?

 本作はなかなかの出来栄えだと思います。父親から息子への性的嗜好の継承といった特異な観点から男女の性的関係が濃密、かつ巧みに描かれているだけでなく、舞台となる地域の淀んだような雰囲気、特に真ん中を流れる川の汚れきった様とか、そこで採れるうなぎの映像などによって、原作の雰囲気が一層強く醸しだされている感じがしますし、また、光石研や田中裕子などの俳優陣も大層頑張っていると思います(注3)。
 さらには、ラストで流れるギターによる「帰れソレントへ」は、その力強い響きで観客に強く訴えかけます(注4)。

(2)とはいえ、クマネズミは、脚本家・荒井晴彦氏が書いたシナリオに問題があるのではと思いました(注5)。
 2点あると思います(注6)。
イ)同タイトルの原作(集英社文庫)には書き込まれていない昭和天皇の戦争責任という問題を、無理やり付け加えているように思います(注7)。
 勿論、原作の年代設定が昭和63年とされており、また仁子の右腕の先が空襲によって失われたことは原作に書かれています。
 でも、映画のラストの方で、昭和天皇の容態が悪化したのを知った仁子(注8)に、「せめて判決が降りるまで生きていてほしい。そうすれば恩赦があるだろうから。あの人が始めた戦争でこうなったのだから、せめてそのくらいしてほしい」などと言わせたり、翌年1月に昭和天皇が崩御されたことを最後に字幕で出したりまでする必要性があるのかと思いました。

 これは同じく荒井氏がシナリオを書いた『戦争と一人の女』でも言えることです(注9)。その作品においては、坂口安吾の小説に、当時起きた「小平事件」を挟み込む形(それも、日中戦争で日本兵が犯したとされる暴虐と重ねあわせる形)でシナリオが書き上げられていますが、酷くとって付けられた感じがするところです(注10)。
 こういうことで映画にリアリティーを持ち込むことができると脚本家が考えているとしたら、それは違うのではないかな、それは余計なことではないかなと思いました(注11)。

ロ)これも原作では書かれていませんが、映画では、仁子や琴子、それに千種のその後まで描き出されます。
 小説では、養護施設に入った遠馬(「家庭環境不良」の17歳ということで入所できるようです)が拘置所に入った母親・仁子のことを思いやるところで終わっていますが、映画では、3人の女のその後のことが描き出されます(注12)。でも、そんなことは、観客がそれぞれ勝手に思いやればいいのであって、わざわざ映画で描いて貰う必要のないものではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「監督はこの映画を70年代のプログラム・ピクチャーのロマンポルノを意識して作ったというが、21世紀の今はその意図がわかり難いのが惜しい。主人公は少年だが、物語は女性の底知れぬ闇と力強さを感じさせる作品だ」として60点をつけています。
 また、早稲田大学の藤井仁子・准教授は、「ここで青山は、「日本映画」の伝統をたんなる反復ではないかたちで転生させることに成功していると思う。その典型的なあらわれがクライマックスで降る凄まじい雨だ」云々と述べています。
 さらに、相木悟氏は、「特筆すべきは、映画独自のシーンを追加したラスト・シークエンス。女性映画にせんとする青山監督の意図と合致した、ひとつの時代の終りと、やがて訪れる女性が担う新時代の到来はことさら衝撃であった」云々と述べています。




(注1)ナレーション自体は、遠馬役の菅田将暉ではなく、父親・円役の光石研が行っています。

(注2)もう一人、遠馬の父・円が時々通う、アパートに住む女(宍倉暁子)がいます。

(注3)主役の遠馬を演じる菅田将暉や、ヒロインの千種役の木下美咲もなかなか頑張っているところ、まだまだ若く(菅田は20歳)、出演本数が増えればこれから大いに伸びるものと思います。



 光石研は最近も、人のいい旅館の主人の役(『はじまりのみち』)から、寂れたサロンのオーナー役(『東京プレイボーイクラブ』)まで、相変わらず幅広い役柄をこなしているところ、本作でも、また目を見晴らせる演技で円の役を巧みにこなしています。
 田中裕子は、『はじまりのみち』で主人公の母親役を演じ、実に存在感のある優れた演技を披露していましたが、本作の仁子も彼女以外には考えられないところです。

(注4)なお、映画の表現で問題があるのではと思うのは、遠馬が高校生だとして、そのことが画面からはほとんど感じ取れない点でしょうか。勉強している画面がないのはかまわないにせよ、彼を囃し立てる子供たちは登場するものの、級友などが一人も顔を出さないのはどうしたことでしょうか(尤も、小説でも書き込まれておりませんが)?

(注5)本作のシナリオは、月刊誌『シナリオ』10月号に掲載されています。
 なお、実際に公開される映画とシナリオとの間には、日本の場合相違することがが多く、本作に関しても、例えばアパートの女の部屋で遠馬が性行為をするシーンが随分と簡略になっていたりします。
 ですが、以下で問題にする場面に関しては、シナリオの段階から書き込まれているものです。
 さらに、同誌に掲載されている荒井晴彦氏と山根貞男氏との対談において、山根氏の「荒井さんはシナリオを書くとき、監督である青山さんと、どういう方向でシナリオを書こうかという話はしたんですか」との質問に対し、荒井氏は「全然しませんでしたね」と答えていますから(P.9)、それらの場面は荒井氏の考えに従って書かれているものと考えます。

(注6)いずれも、原作と相違する事柄ですが、クマネズミは、原作を映画化する場合に、原作に忠実でなければならないと考えているわけではありません。問題は、どのように原作を改変するかという点だと思います。

(注7)季刊誌『映画芸術』本年夏号に掲載の原作者・田中慎弥氏と脚本家・荒井晴彦氏との対談において、荒井氏は、「田中さんは、自分が考えていたことの延長というか、木に竹を接ぐようなことはしていないと理解してくれたんで、助かったけど」と述べていますが(P.8)、クマネズミはまさに“木に竹を接ぐ”ような格好になってしまっていると思いました。

(注8)仁子は、最後に円を殺してしまい拘置所にいるのです(小説も同様です)。

(注9)『戦争と一人の女』についての拙エントリの「注1」に書きましたように、同作のシナリオ制作には荒井氏だけでなく中野太氏も加わっておりますが、そして「注8」で述べたように、監督の井上淳一氏の類似の意向もあったようですが、さらには荒井氏は井上監督の撮り方にかなりの不満を持っているようですが(季刊誌『映画芸術』本年春号掲載の座談会「戦争の時代の本当の声を映画はいかに聞いたのか」)、「注9」等からすれば、同作のプロットの大部分は荒井晴彦氏によるものだと考えられるところです(なお、シナリオは、同作の劇場用パンフレットに掲載されています)。

(注10)他にも、『戦争と一人の女』と本作には共通点があるように思います。
 まず、同作では「空襲」が大きく取り上げられていましたが、本作においては、ラストで仁子が言及しなければそれほど注目されなかったと思われます。
 また、異常な性行為が映し出されている点が共通しています。本作では、性行為の際に円が相手の女を殴りつけたりしますが(遠馬も一度、千種の首を絞めてしまいます)、同作でも傷病兵・大平が、米を求める女たちを騙して山林に連れ込み、強姦して絞殺してしまうのです。
 さらに、荒井晴彦氏は、劇場用パンフレットに掲載された青山真治監督との対談において、「ただ、脚本にしようとすると、原作を全部映しても尺的に短い。じゃあ、これはサイズ的にも内容的にもロマンポルノだと。ロマンポルノ乗りで行こうと思ったんです」と述べているところ(本作は「R15+」の指定)、『戦争と一人の女』はピンク映画(R-18指定)なのです。
 荒井晴彦氏は、どんな原作を見ても、自分の趣向に従って同じように料理してしまう傾向があるのではないでしょうか?

(注11)本文の(3)で触れた相木悟氏は、「仁子さんの“大きな父さん”と“小さな父さん”に対するけじめの怨嗟は、日本戦後史への批評としても多くの人の胸を打とう」と述べ、また、映画評論家の村山匡一郎氏も、「原作にない仁子の怨嗟の言葉は、原作を超えて映画を一気に現代史に広げていく」云々と述べて、★5つ(「今年有数の傑作」)を与えているところ、そんな目印になるようなものを事々しく画面に描きこまなくては現代と繋がらないような映画は、逆に不出来の作品とも言えるのではないでしょうか?

(注12)仁子は、拘置所で面会に来た遠馬と会って、右腕のことを話します。また千種は、仁子が営んでいた魚屋で働いています。さらに琴子は、殺される前に父親・円と別れ、再び飲み屋で働いていたところで遠馬と会います。
 あるいは、粗暴な円の軛を逃れて、3人の女が自立の道を歩み始めたことを示したかったのかも知れません。でも、それは、余計なことではないでしょうか?
 仁子は、千種が円に暴行されたと聞いて円を殺してしまいますが、そしてそれは復讐しようとする遠馬に成り代わって殺したとされていますが、あるいはむしろ円を自分の腕の中に取り戻したくてそうしたとも解釈できるのではないか、少なくともそう解釈出来る余地を残しておく必要があるのではないか、と思いました(結局のところ、小説が描く3人の女は、「円-遠馬」が作る円環の外に出ていったように見えても、実際には出ていけないように思われるところです)。




★★★☆☆





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