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映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

永遠の0

2014年01月17日 | 邦画(14年)
 『永遠の0』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)戦争物の映画は正直あまり見たくはないのですが、評判がとてもいいものですから、映画館に出向いてみました。

 物語(注1)は、司法試験に4回落ちている健太郎三浦春馬)が、姉の慶子吹石一恵)と一緒に、自分の血の繋がった祖父のことを調査するところから始まります。



 というのも、祖母の松乃(若い時分を井上真央)の葬儀の時に、二人は、目の前にいる祖父・賢一郎夏八木薫;若い時分は染谷将太)の他に、血の繋がった祖父・宮部久蔵岡田准一)がいて、彼は特攻で亡くなったと言われたものですから。
 時代の設定は今から10年前の2004年とされていますが、その時にしても終戦時からは60年近く経過していて、関係者は余り生存していません。数少ない生き残りを二人が訪ね歩くと、皆が一様に「宮部は海軍一の臆病者だった」と言うのです。
 それで二人は意気消沈してしまいます。
 しかし、井崎橋爪功;若い時分は濱田岳)に会うと、彼は「宮部小隊長のお陰で、娘とこうしていられる。あの時代に家族への愛という生き方を選べたのは、小隊長が臆病だったからではなく、むしろ強かったからだ」と言うのです。
 その言葉に意を強くして、二人は一層熱心に宮部久蔵のことを調べていくのですが、果たしてどんなことが明らかになるのでしょうか、………?

 ストーリーの展開の上でややおかしなところが見受けられるものの(注2)、以前見た太平洋戦争関係の映画と比べると、CGの技法が格段に進んだためでしょう、零戦や空母等が実にリアルに描かれていて、映画の中にすんなり入り込むことが出来ます。
 それに、主人公の宮部久蔵が、ありがちな熱血溢れる軍人として、あるいは単なる悲劇の英雄として描かれていないことも、この作品を受け入れやすくさせているように思います。
 ただ、あの時代に、元々職業軍人である彼が、“空気”を読むことに長けている普通の日本人ならばそんなに強くは持ち得ないような家族愛を第一とする考え方にどうしてなったのか、が映画の中で描かれていないために、その人物造形の仕方に疑問が残り、イマイチの感じは残るのですが(注3)。

 としても、岡田准一以下の俳優陣の演技はなかなかのものがあります。
 特に、主演の岡田准一はさすがの演技で、ラストのシーンは鬼気迫るものが感じられました。
 また、ヒロインを演じた井上真央も、実にしっかりした演技を披露します。



 脇役陣では、現代の景浦役の田中泯とつながるものがそれほど感じられないとはいえ、若い時分の景浦を演じた新井浩文が出色のように思います(注4)。

(2)本作については、小川榮太郎氏による『『永遠の0』と日本人』(幻冬舎新書、2013.12)が刊行されています(注5)。
 同書において小川氏は、最初にこの作品を見た時は、本作が「戦争や、軍人や、当時の軍部を、平和の今日の立場から見すぎている」ために(注6)、「期待は大きく裏切られ」、「失望したというより、見終わっての感想は憤りに近かった」と述べています(同書P.24)。
 ですが、二度目にこの作品を見たら、「先に違和感と思われた諸点」は、実は、「戦争から遠く隔たった現代日本人に、最後に、心に残る強い印象として、軍人の本当の姿を伝えるため」に作られた「トリックだった」ということに気がつき(注7)、「今度はすっかり魅了された」と書いています(同書P.29)。
 具体的には、映画の冒頭の特攻機突撃は、「死を媒介にして、彼がたった一人愛した女、松乃に繋がると共に、ラストシーンに繋がり、映画全体を宮部の特攻突撃による死で覆い、構造化する」が、この「構造化そのものが映画『永遠の0』の感動の最大の源泉なのだ」ということのようです(同書P.31)。

 さらに小川氏は、百田尚樹氏の原作と映画との関係についても、次のように語ります。すなわち、山崎貴監督は、一方で、「戦後的ヒューマンドラマの科白を多用し、原作に多数見られる、主人公・宮部久蔵の軍人らしい科白(注8)や、作者本来の戦争観を示す言葉(注9)を、注意深く全て省」きながらも、他方で、原作の「思想を映画によって最大限甦らせようと狙」って、「映画の構造や俳優の沈黙の演技に、最大限、原作の思想を語らせるという手法」をとっているのだと(同書P.165)。

 要すれば、小川氏は、原作が表している戦争観・軍人観―それを小川氏は評価します―が本作に構造的に読み取れることから、本作に「魅了」されたように考えられます。

 ですが、クマネズミの方は、小川氏とはマッタク逆に感じました。すなわち、本作における宮部の描き方は家族愛を強調していて、これまでの戦争物における特攻隊員の描き方とはかなり違ったものがあるな、それは新機軸として評価してもいいのかもしれないとクマネズミは思いましたが、反対にその冒頭及びラストの描き方には、これでは従来の特攻隊物と大差ないのではないのかと、違和感を覚えました(注10)。

 加えて、クマネズミには、小川氏が触れようとしない箇所が原作にあるのではと思いました。
 すなわち、原作のラストに置かれている「エピローグ」では、空母「タイコンロデガ」に対する宮部の特攻の様子が描かれているのですが、なんと宮部機は空母に体当たりをしたものの、「爆弾は破裂しなかった。不発弾だったんだ」と書き込まれているのです(原作P.572)。
 出発直前に賢一郎と交換した零戦「五二型」のエンジンが不調になったことからすると、宮部が乗り込んだ「二一型」に取り付けられた爆弾が不発弾だったことには、大きな意味があるのではないかと考えられるところです。
 少なくとも結果的に、宮部は、小川氏が強調する「出来る限り多くの敵を殺す」という「軍人の常識」を実現したのではなく(注11)、無用の殺生は行わないという「戦後的なヒューマニズム」を達成しているのです(注12)。

 こうなると、原作には一定のかっちりとした思想―小川氏が評価する戦争観・軍人観―があり、それを映画は構造的に表現しているとする小川氏の見立てそのものが、実際のところは怪しい感じになってくるように思われます。
 むしろ、原作も映画も、先の戦争についてその初期から終期にわたる色々なエピソードを描き出すことによって、様々な把握の仕方がありうるのだということを表現しているというようにも思えてきます。
 そして、そうやって与えられたものに従って先の戦争についてどのように考えるのかについては、映画や原作自体が方向性を与えているというよりも、あくまでも鑑賞者自身に任されているということではないでしょうか?

 と言っても、ここから先については無知蒙昧なクマネズミにとって難物至極であり、これまでと同様これからも、ああでもないこうでもないとグチャグチャ考え続けていかなくてはならないものと思っています。

(3)渡まち子氏は、「特攻で亡くなった祖父の真実を描く「永遠の0」。生真面目な映画だが零戦を美化していないところがいい」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「歴史を語り継ぐ意義、その中から浮かび上がる「生きろ!」というメッセージが心に届く良品であった」と述べています(『風立ちぬ』から「あなた、生きて」というメッセージを汲み取った作家・高橋源一郎氏のことを思い出してしまいました!←このエントリの「注12」を参照)。
 福永聖二氏(読売新聞編集委員)は、「期待するなと言う方が無理というものだし、その期待を決して裏切らない感動作である」と述べています。
 渡辺祥子氏は、「太平洋戦争下の空気を伝える難しさは近年の戦争映画を見るたびに感じさせられる。だが、ここでは当時の日本兵を想わせる小柄で鍛えられた体躯に凛々しい表情を持つ俳優たちが祖父の時代を演じ、現代の若者らしい体型の俳優が孫の世代を演じたことで違和感が消え、自然にドラマの世界に溶けこむことが出来た」として★4つをつけています。
 ただ、渡辺祥子氏が「当時の日本兵を想わせる小柄で鍛えられた体躯に凛々しい表情を持つ俳優たちが祖父の時代を演じ」としている点については、若い時分の井崎を演じた身長160cmの濱田岳には当てはまるにしても、景浦役の新井浩文は181cmですし、武田に扮した三浦貴大にしても178cmですから、よく理解できない感じがします。



(注1)原作は百田尚樹氏による同タイトルの小説(講談社文庫)。

(注2)例えば、アチコチで既に指摘されている点ながら、当初、健太郎らが宮部のことを調べると言うと、祖父の賢一郎は「それはいい、ぜひ調べてみろ」と答えるだけで、自分と宮部との関係等につき何一つ語らず、彼らが調べあげた後になってから詳しく語り出しますが、常識的には、健太郎らの調査をスムースにはかどらせようと、自分の持っている情報を最初に彼らに与えるのではないでしょうか?
 勿論、原作も同じような書き方になっていることですし、物語の構成上からすれば、最後になって判明する方がサスペンス性があって見る者にインパクトを与えるのは確かですが。

(注3)原作(P.283)では、父親が相場に手を出して失敗し自殺した後に母親も亡くなってしまい、天涯孤独の身となったため、やむなく海軍に入ったと、宮部は整備員に語ります。他に、幼い時分に囲碁を本格的に勉強していたことも語られますが、宮部の過去についてはそうしたこと以外にほとんど何も書き込まれておりません。
 そういえば、それほど宮部が家族愛のことを言うのであれば、原作でもそのことについて具体的な書き込みが十分になされているかと思いきや、本文の(2)で取り上げる小川氏の著書によれば、「文庫版570ページ以上の大作の中で、たった2カ所、合計3ページほど登場するに過ぎない」のです(同書P.168)。
 そんなあれやこれやから、この物語は、宮部久蔵という生身の一個人を主人公とするリアルな小説と見るよりは、むしろ宮部久蔵という名前は持つものの酷く抽象的な人物を通して太平洋戦争全体を語ろうしていると見るべきなのかもしれません〔小川氏は、「大東亜戦争そのものを主人公とした小説」だと述べています(同書P.167)〕。

 まして本作では、そんな宮部の過去のことは、妻との再会のエピソードを除いて何も描かれていないのですから、彼の抽象度は一層増しているのではと思いました。  

(注4)最近では、岡田准一は『天地明察』、三浦春馬は『東京公園』、井上真央は『謝罪の王様』、濱田岳は『はじまりのみち』、新井浩文は『さよなら渓谷』で、染谷将太は『リアル~完全なる首長竜の日~』で、それぞれ見ています。

(注5)小川氏の同書は、本作の他に、『風立ちぬ』と『終戦のエンペラー』も取り上げています。
 すなわち、『風立ちぬ』については、「素材が」、つい80年ほど前の史実」であるにもかかわらず、「宮崎は、残念ながら、この映画で歴史から逃げてしまった」と批判しますし(同書P.88)、また『終戦のエンペラー』についても、「俳優のみならず、脚本スタッフたちが、非常に重要な点についてさえ、「事実を徹底的に調べず」に、この映画を作ったこと」を厳しく非難します(同書P.115)。
 ですが、両作とも、歴史研究成果の発表の場ではなく、単なる娯楽映画でフィクションなのですから、小川氏のようなことを声高に言い募っても余り意味がないように思えるところです〔『風立ちぬ』については、岡田斗司夫 FREEexによる『『風立ちぬ』を語る』(光文社新書)が言う「この映画には、宮崎駿監督の自身の作家性が強く出ています」という見方(同書P.175)の方がまだしもの感じがします。といっても、今度は「作家性」自体にも疑問があるのですが、ここはそれを議論する場ではありません〕。

(注6)あるいは小川氏は、本作について、「戦争を現代風なヒューマンドラマに置き換え過ぎている」とも述べています(同書P.164)。

(注7)小川氏が「GUQのプレスコードから、書物はかなり自由になったが、映像作品はまだ完全に拘束されている」と指摘しているところからすれば(同書P.165)、山崎監督がこうした「トリック」を作りだしたと小川氏が言うのは、あるいはレーニンが『帝国主義論』を書く際に「イソップ的な――呪わしいイソップ的な――ことばで、定式化」したことに、もしかしたら対応させようとするからでしょうか?

(注8)小川氏は、例えば、原作P.225の「俺は自分が人殺しだと思ってる!」との宮部の言葉を引用します(同書P.182)。

(注9)小川氏は、例えば、映画では「太平洋戦争」と呼ばれている先の戦争に対して、原作の中ではありませんが、百田氏が「大東亜戦争」と呼んでいることを挙げます(同書P.166)。

(注10)本作では、空母の上空から真っ逆さまに突入する宮部の乗った零戦が、最後の最後にどうなるのかは描かれてはおりませんが、ラストの宮部の表情からすると、あるいは体当たり攻撃が成功して敵空母に大きな打撃を与えたのかもしれないと想像されるところです。
 現に、小川氏は、その著書で「その瞬間に敵艦は粉砕された」と述べています(P.62)。

 なお、ラストの宮部の表情について、山崎貴監督は、劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」によれば、「いくつもの表情が同時に進行しているような表情をして欲しい」と演出したようですが、上記「注3」で申し上げたことからすれば、ここには、特定の一個人の表情というよりも、むしろ特攻で敵艦に体当たり攻撃をしたたくさんの隊員の表情が集約されているものとみなせるのではないかと思いました。

 さらにいえば、ラストのエピソードの前に、街を歩く健太郎の上空に零戦に搭乗した宮部が出現して敬礼をするシーンがありますが、これも、特攻で散ったたくさんの特攻隊員たちが現代の青年たちに送っている挨拶ともいえるのではないでしょうか?

(注11)「宮部は、敵戦闘機を撃墜した後、落下傘で飛行機から脱出したアメリカ兵を撃ったことがあ」り、「宮部は、自らは命を惜しみながら、敵に対しては、無防備な相手でも殺す」のであると小川氏は述べます(同書P.180)(これに対応するのは、原作のP.222~P.226)。

(注12)「この男の爆弾が不発でなかったら、我々の何人かは死んでいたかもしれない」と、米軍空母の乗組員の一人に作者は語らせているのです(原作P.573)。



★★★☆☆☆



象のロケット:永遠の0


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11 コメント

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驚きすぎ (KGR)
2014-01-17 11:28:36
(注2)に触れられておられますが、祖父が宮部や祖母との関係を最後まで触れなかったのは違和感があります。

もし私が健太郎で、祖父=大石の事を知り雨の中立ち尽くすほど驚愕したのなら、最初から教えてくれなかった賢一郎に対する見方は変わったと思います。
また、景浦がどこかのタイミングで「じいさんに聞いたのか」と言ってもよさそうだと思います。

またあれだけの手紙を読まずに会いに行ったのもおかしい。

原作は未読ですが、おそらくその点は問題ない展開だと思います。
映画の進行の都合上、その部分を変えてしまったのでしょうが、全体の出来に影響を与えたと思いました。
Unknown (クマネズミ)
2014-01-17 22:36:33
「KGR」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「祖父が宮部や祖母との関係を最後まで触れなかったのは違和感」があるとされる点については同感です。
ただ、「原作は未読ですが、おそらくその点は問題ない展開だと思います。映画の進行の都合上、その部分を変えてしまったのでしょう」とお書きになっていますが、拙エントリの「注2」で申し上げているように、「原作も同じような書き方になっている」のです。
すなわち、原作の文庫版の冒頭近くで(P.14~P.15)、健太郎の言として、祖母(松乃)の四十九日のあと「ぼくと姉は祖父に呼ばれ、そこで初めて実の祖父のことを聞かされたのだ」とあり、さらに「祖父(賢一郎)も祖母から前夫(宮部久蔵)のことはほとんど知らされていなかったらしい。ただ一つわかっている事実は、神風で戦死した海軍航空兵ということだけだ」と書かれています。そして、一人目の関係者(長谷川)とのインタビューの後、彼は宮部について調査していることを祖父に報告に行くのですが、祖父は「健太郎、お前は自分が思っているよりもずっと素晴らしい男だ。いつかそれに気がつく日が来るよ」と示唆的なことを言うだけで、何一つ詳しい情報を与えようとはしないのです(P.60)。
ところが、宮部と機を交換した相手が祖父だったことを健太郎が解明すると(P.530)、やっと祖父は、「お前が宮部さんのことを調べていると聞いた時、この日が来ることを覚悟した」と言って、祖母との関係について話し出すのですが、それはこの大作のラストの40ページ前のところからに過ぎません(P.531~P.564)!おまけに、どうしてこれまで話さなかったのかの理由は話すことなく、逆に話の冒頭で祖父は、「私はいつかは話すつもりでいた」と言うのです。だとしたら、なぜ健太郎が当初祖父に会いに行った時に話さなかったのかということに当然のことながらなってしまうでしょう!
この問題は、映画というよりも原作自体が抱え込んでいるものと言うべきではないかと思います。
いつか話すつもりだった、今でしょ (KGR)
2014-01-18 13:56:32
クマネズミさん。
コメントありがとうございます。

原作の祖父の言動読ませていただきました。
元々そうだったんですね。

健太郎らが宮部について調べると言った時、是非調べてくれではなく、「いつか話すつもりでいた」のいつかが、まさしく、今でしょって感じです。
教えてください (zames_maki)
2014-01-18 20:27:22
こんばんわ、相木悟のTRから来ました。この映画が大ヒットしていると聞き人々がどう受け取ったのか知りたくて検索した次第です。私の感想は弊1/8に書きましたが、映画評で最も妥当なのは弊1/16に転記した大高宏雄氏の「情緒で観客を騙す映画」でしょう。あなたも騙されているように感じるので、いくつかお聞きしたい。

>冒頭及びラストの描き方には、これでは従来の特攻隊物と大差ないのではないのかと、違和感を覚えました
まず貴殿は素晴しい指摘でまったく同感です。ラストの意味は結局「特攻で勇ましく家族を守った」という特攻礼賛でしょう。これは戦後最初の特攻映画「人間魚雷回天」(弊ブログ1/15参照)のラストと比較すればすぐ判る事です。


>原作も映画も、先の戦争についてその初期から終期にわたる色々なエピソードを描き出すことによって、様々な把握の仕方がありうるのだということを表現している
>映画や原作自体が方向性を与えているというよりも、あくまでも鑑賞者自身に任されている
 は決定的に間違いではありませんか?映画の真珠湾・ミッドウェー・ガダルカナル・特攻の羅列は東宝空戦ものの定番的エピソードで、むしろ観客の視点を「苦しいのをよく頑張った戦争」という「兵隊さんご苦労さん」という視点に固定するものだと思いますよ。その理由は

1ミッドウェーで日本は空母多数を失い、日本海軍はアメリカに勝利する可能性をほとんど失った。つまり1942年後半で既に海軍的には敗戦は決定的だった。この映画が一戦闘員の空戦にだけ視点を固定するのは、戦争全体の意味や流れを隠すものでありけして様々な意味を提示するもと言えない。例えば映画の描写からはなぜ無駄な戦争を1942年後半から3年もしなければならないのか?という視点を奪うものです。

2映画はなぜ「マリアナ沖海空戦」を描かないのか?これは陸軍の「大陸打通作戦」と同様、太平洋戦争中最大と言っていい海軍航空戦で、多数の日本軍戦闘機が参加し、ほとんど撃墜された。こんな重要な作戦をなぜ消すのか?理由は従来の戦争映画でまったく描かれていないという慣習であり、決定的敗北なので描きにくいからでしょう。視点を拡張するのではなく狭めているという事です。


さてその上で質問したい。
>宮部の描き方は家族愛を強調
>宮部は-無用の殺生は行わないという「戦後的なヒューマニズム」を達成
としているが、それではあなたはこの映画はどういう映画と受け取ったのですか?テーマは何で何を訴えているのか?あなたは何に感動(共感)したのですか?実はそれは映画の中では表現されておらず勝手にあなたが想像したものではありませんか?

また来ますのでよろしくお願いします。
Unknown (クマネズミ)
2014-01-19 14:22:32
「zames_maki」さん、わざわざ拙エントリに目を通されコメントしていただき、ありがとうございました。
ただ、冒頭に「あなたも騙されている」とあり、読み進むと「決定的に間違いではありませんか?」ともあり、普段そんな厳しい言葉を投げつけられたことのない小心者のクマネズミとしては、いたく驚きました。

ともあれ、れっきとしたフィクションである百田尚樹氏の原作に基づいて制作された本作もまた正真正銘のフィクションであることは言を俟たないでしょう。ですから、そんな作り物の映画に見入ってしまったクマネズミは、言うまでもなく本作に「騙され」たのは間違いないところです。
でも、劇映画って本来的に人を「騙す」ものであり、「騙され」るのが嫌なら映画館に行かなければいいのはないでしょうか?
ですから、そうした映画に対して、「zames_maki」さんのブログ記事(1/8)のように、「事実無視」「ありえない」「非現実的」「人工的」などという大仰な言葉を投げつけてみても仕方がないのではと思います。所詮、映画で描かれるものは単なるお伽話にすぎないのですから(拙エントリの「注5」でも書いたところですが、小川榮太郎氏のように、『風立ちぬ』や『終戦のエンペラー』のような映画を歴史的事実に反すると言って批判してみても、そんなに意味があることとは思えません)。
と言っても、映画を貶めるものではありません。むしろ、ファンタジーだからこそ大層興味深いものだなと常々考えているところです。

というようなこともあり、クマネズミとしては、本作に、「過去の特攻映画」(「zames_maki」さんの1/8ブログ記事)では見られないような新機軸・アイデアが見いだせるのかなという点に期待していました。そうしたところ、本作では、宮部の家族愛が強調されていて、これは良い線いっているのではと思ったのですが、ラストの場面でややはぐらかされてしまいました。その家族愛やヒューマニズムを最後まで貫くのであれば、ラストは、原作のエピローグのように、空母に体当りしたものの抱えていた爆弾は不発だったということにすべきではないかと思えたからです(仮にそうなれば、あるいは『人間魚雷回天』の朝倉少尉に類似するラストになったのかもしれませんが)。
だったらどうして、映画製作者は、本作のラストをあのような形にしたのでしょうか?クマネズミには、特攻については様々な見方があるということを描き出そうとしたがために、あえて宮部の体当たりの結果を明示しなかったのではないかと思えました。ラストで宮部が様々な表情をしますが、あれは特攻隊員たちがしたであろう様々の表情を集約したものではないか、最後の特攻の結果についても、不発弾だったということもあり得るでしょうし、あるいは空母に大爆発を引き起こしたということもあり得るということではないでしょうか?
更に言えば、ラストの前で、宮部が搭乗する零戦が健太郎の目の前を飛行し、宮部が健太郎に敬礼をしますが、あれも様々の特攻隊員たちの現代の若者に対する挨拶の集約なのかもしれません。そう考えて振り返ると、本作では、随分多様な特攻隊員の姿が様々の戦闘場面で描かれているな、と思い至ったわけです。
それにつき「決定的に間違いではありませんか?」と批判されても、クマネズミにはそのように思えたのですから仕方がありません。

なお、「映画の真珠湾・ミッドウェー・ガダルカナル・特攻の羅列は東宝空戦ものの定番的エピソード」とありますが、原作にそう書いてあるから本作でもそうなったのであり、あながち映画の製作会社が「東宝」だからということもないのではと思われます。
また、「この映画が一戦闘員の空戦にだけ視点を固定するのは、戦争全体の意味や流れを隠すものでありけして様々な意味を提示するとも言えない」とか、「なぜ「マリアナ沖海空戦」を描かないのか?」とありますが、本作は決して歴史研究論文ではなく単なる娯楽映画であり、その場合「一戦闘員の空戦にだけ視点を固定」するのはストーリーテリングの面から妥当でしょうし(実際の映画の「視点」は、宮部の視点ではなく“神の視点”に立っているのですが)、その視点が捉えた様々なエピソードを描き出すことで「様々な意味を提示する」こともできるものと思いますし、何も「マリアナ沖海空戦」が描かれていないからといって例示が足りないということでもないと思います。

さらに、「実はそれは映画の中では表現されておらず勝手にあなたが想像したものではありませんか?」と述べられていますが、「宮部の描き方は家族愛を強調」との点は、クマネズミが本作から読み取ったものであり、「zames_maki」さんが、そんなものは「映画の中では表現されていない」とおっしゃるのであれば、それは見解の相違で議論しても始まりません。
(「zames_maki」さんは、「ラストの意味は結局「特攻で勇ましく家族を守った」という特攻礼賛でしょう」とされていますが、逆に、「実はそれは映画の中では表現されておらず勝手にあなたが想像したものではありませんか?」とクマネズミの方から言ってみたくなりますが)
また、「宮部は-無用の殺生は行わないという「戦後的なヒューマニズム」を達成」との点は、原作のエピローグについてクマネズミが読み取ったものであり、本作とは何の関係もありませんから、「映画の中では表現されていない」のは勿論のことです。

最後に、「テーマは何で何を訴えているのか?」との点については、クマネズミは拙ブログにおいて、映画のテーマ探しは極力しないよう努めています。そんなレッテル貼りのようなことをして自分の見方を狭く縛るのは、無限に色々なものを抱え込んでいるせっかくの映画の見方として、実につまらないのではないでしょうか?
例えば、本作について、「zames_maki」さんの「事実無視の設定による意図的な特攻礼賛(戦争礼賛につながる)作品」(「zames_maki」さんの1/16ブログ記事)とか、大高宏雄氏の「情緒で観客を騙す映画」というような規定の仕方は、クマネズミとしては、様々なものを持っているこうした大作に対し味気なさすぎて、とても採用し難いところです。
望ましいのは、実際のところなかなか難しいのですが、見た映画から連想や関心がどんどんアチコチの方向に広がることではないかと密かに思っています。そのようなことにクマネズミを誘ってくれる程度に応じて★付けを行っているつもりです。
クマネズミさん へ (iina)
2014-01-19 21:53:08
>軍人の本当の姿を伝えるため」に作られた「トリックだった」
かくありなん。そうでありましょう。
現代人に訴えるには、このような巧みな仕掛けが必要となるのでしょうね。当方は、戦争を知らない世代ですが、違和感を覚えます。

>なんと宮部機は空母に体当たりをしたものの、「爆弾は破裂しなかった。不発弾だったんだ」
小説が無言を貫いたなら、読み手の解釈にゆだねられるのでしょうが、体当たりしていれば無用の殺生を嫌っていません。

すくなくとも事実を下敷きにした小説ではなく、虚構ですからこのような設定もありではあります。
ある意味において、小説はヒットし映画で泣く若者がいるのですから、変容しているとは申せ許せる範疇であろうと考えます。m(_ _)m
にゃんにゃん (ふじき78)
2014-01-19 23:22:08
あーもう、とっても難しいにゃん(難しいから「にゃん」を使うにゃん)。

この映画を観て感じたのは、これが正しいか、正しくないかは二の次で「あ、爺ちゃんや婆ちゃんに話を聞いてみたいな」だったにゃん。

そーにゃん、そーにゃん。聞けばもっと分かる事もある筈にゃん。

本来的にはそういう生理を喚起させる映画だったので、大ヒットして、多くの人に見てもらう事で、まだ、爺ちゃん婆ちゃんが存命する多くの人の話を聞く糸口になるのなら、それは素晴らしいと思ったにゃん。その為なら、映画を見て騙される部分がちょっとくらいあっても構わんと思うにゃん。

惜しむらくは、こういう映画が10年、20年、30年、もっと終戦よりより近い時代に出来なかった事にゃん(みんな死んじゃうにゃん)。

それと、これが呼び水になって、爺ちゃん婆ちゃんから聞き出した新しい話が、間違えてない話として別の映画になったりしたら素晴らしい事だと思うにゃん。

それは、実は戦争だけでなく、公害だったり、社会問題だったり、忘れたふりして亡き物にしてきた全てに対して言える事にゃん。

話、ずれたにゃん?
Unknown (クマネズミ)
2014-01-20 05:15:49
「iina」さん、コメントをありがとうございます。
ただ、「軍人の本当の姿を伝えるため」に作られた「トリックだった」」の部分は小川榮太郎氏の主張であり、クマネズミとしては、エントリ本文に書きましたように、その見立ては上手く成り立たないのではと考えているところです。
また、原作小説のエピローグですが、おっしゃるように、「虚構ですからこのような設定もあり」なことは間違いありません。問題は、その場面をどのように読者の方で解釈するかだと思いますが、小川榮太郎氏はなぜかその場面を取り上げてはいないのです。
Unknown (クマネズミ)
2014-01-20 05:16:20
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
広島・長崎の原爆の語り部たちも高齢化が進んでいると聞きます。
もしかしたら、それが無くなりそうだということに人が気がついて初めて、それが希少で貴重なものだったことがわかってくるのかもしれません。本作が「もっと終戦よりより近い時代に出来」たなら、「あ、爺ちゃんや婆ちゃんに話を聞いてみたいな」という現在のような切迫した感じになったのかどうか、いかがでしょう?
騙すと歴史の嘘は違います (zames_maki)
2014-01-23 18:46:48
お返事ありがとうございます。
一言でいえばあなたはあまりに経験と知識が不足で、映画観客としても人間としても、足りていないと感じました。もし疑問があればお答えしますが以下指摘させてもらいます。

●1
>映画「永遠の0」は単なる娯楽映画
>劇映画って本来的に人を「騙す」もの
戦争を題材に「娯楽」をしていいのでしょうか?多くの人が死んだ事実を勝手に捻じ曲げ適当に味付けして、金儲けの楽しみのための「娯楽」にしていいのでしょうか?私はキネマ旬報という映画批評誌の記事を戦争映画について全て読みましたが、あなたのような視点で戦争映画を見ている評者は誰もいません。少しでも事実と異なれば厳しく批判されてきました。

簡単に言って日本人製作者が映画を使って戦争について人を騙すのは許されません。そんな事をやると強い社会的批判が来るからです。歴史特に戦争ものの特殊な点です。3・11を題材にこれをやればどうなるか考えてください。

また「騙す」と男女恋愛などの演劇的な感動は別物です。この映画では特攻の「事実」について大枠では正しいが、いくつか小さな重要な点で「ウソ」をついておりそれによって、戦争の事実や意味について観客を騙しています。

●2
>『人間魚雷回天』の朝倉少尉に類似するラスト
はっきり書きます
「人間魚雷回天」のラストの意味は【特攻はとても残酷でしかも無意味な行為だ】
「永遠の0」のラストの意味は【特攻は米軍兵士をも恐れさせた勇猛(カッコイイを含意する)な行為で、大変意味がある】
・・・・・・・まるで別物です

●3
>映画のテーマ探しは極力しないよう努めています。そんなレッテル貼り
あなたが映画観客として経験不足なのはわかりますが、そういう見方では映画はわからないと思いますよ。映画製作者はテーマを強く意識して製作しています。なぜなら映画は時間芸術(時間経緯に従い一筆書きでしか受容できない物)なので小説に比べわかりやすい簡単な構造とならざるを得ず、多様な視点や多様な意味を含めにくいからです。逆にそのように判りやすいから映画は人気があり、製作者はむしろテーマを一つに絞るよう努力していると思いますよ。その方が判りやすいし、作りやすいからです。映画は巨額の製作費がかかる金儲けの装置でもあるので、効率性は無視できません。

●4
>「ラストの意味は結局「特攻で勇ましく家族を守った」という特攻礼賛
>「実はそれは映画の中では表現されておらず勝手にあなたが想像したもの
私の指摘にあなたが疑問を持つ理由は、映画が描いているものにあなたが、敢えて答えを出さず曖昧なまま放置している為でしょう。
 なぜ主人公久蔵は特攻するのか?特攻とはどういうものか?この映画のテーマは何か?という、いわば「国語の時間の読解問題」にあなたが答えを出せば明確にできるでしょう。
 私はこの映画のキモ(映画が語る上で大事な点)は「幻」であり、映画中に存在しない。そして観客がそれを自分勝手に自分に都合よいように想像するように映画製作者が仕掛けている。観客が勝手に想像するその結果は、自分の価値観に違わないと同時に戦争の事実としてはあり得ないもので、映画は観客に自発的に戦争に嘘をつくような作用を及ぼしていると自分のブログで書いたつもりです。残念ながらあなたは正にこれにはまっているように見えますね。

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