映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

天地明察

2012年10月03日 | 邦画(12年)
 『天地明察』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)原作〔冲方丁著『天地明察』(角川書店、2009年)〕を本屋大賞受賞の際に読み、大層面白かったので、映画の方はどうかなと映画館に足を運びました。

 映画の冒頭は、屋根に上って夜空の星を見上げている主人公の安井算哲岡田准一)。
 そこへ会津藩士の安藤有益渡辺大)がやってきて、下から「金王八幡神社で面白い算術の設問が掲げられている」と算哲に告げます。算哲が「それを見せてください」と言うと、安藤は「明日のお勤め(上覧碁)が済んでからお見せします」と答えます。
 こんな短い場面ながら、主人公が、天文、算術、そして囲碁に関係していることがすぐさまわかるように作り込まれています。

 次いで、翌日、上覧碁のために江戸城に登城する途中、算哲は、渋谷の金王八幡神社に立ち寄って算術の設問が記載されている絵馬を見ますが、その際に「えん」(宮崎あおい)と初めて出会います(注1)。

 そして、上覧碁(注2)ののち算哲は、会津藩主・保科正之松本幸四郎)から北極出地のため全国を歩いて北極星を見てこいと命じられます(注3)。
 算哲は、将軍家の右筆で観測隊の隊長・建部伝内笹野高史)や御典医で観測隊の副長・伊藤重孝岸部一徳)らとともに江戸を出立します。



 ですが、「えん」に淡い恋心を抱いた算哲は、公務を無事に果たして江戸に戻ってくることができるでしょうか、その間に「えん」はどうなっているでしょうか、そして、算哲の前に待ち構えているものは、……?

 滝田洋二郎監督は、囲碁算術、それに改暦(注4)といった至極地味で辛気臭い題材を、岡田准一と宮崎あおいの当代の人気俳優によるラブ・ストーリーの中で描き出していくという大層困難なことに挑んで、まずまずの娯楽時代劇に仕上げているのでは、と思いました。

 主演の岡田准一は、昨年の『SP 革命篇』で見ましたが、本作と同じように物事に真っ直ぐに突き進んでいく役柄で、本作もまた彼にうってつけと言えそうです。

 ヒロインの宮崎あおいは(注5)、今年は『わが母の記』を見ましたが、暗くなりそうな場面を彼女が存在するだけで明るくしてしまう作用は、本作でも如何なく発揮されています。




(2)しかしながら、最後に断り書きが付けられてもいるように、本作には、史実(それに原作)と違っているところが随分と仕込まれています。
 といっても、算哲の観測所の作りが今の天文台とそっくりなところとか、特別製の眼鏡で日食を見上げる人々の様子(本年5月21日の金環食騒動を彷彿とさせます)や万歩計(江戸時代でもメタボはタブーだった?)とかは、娯楽映画ですからまずまずの御愛嬌でしょう。
 また例えば、佐藤隆太扮する村瀬義益とえんとが兄妹という設定(キャストには「村瀬えん」とあります)も、話の単純化はやむを得ないところでしょう(注6)。

 とはいえ、算哲が、師匠の山崎闇斎白井晃)と一緒に観測所に上がっているところを黒装束の武装集団に襲われ、果ては火矢に当たった闇斎が死亡するというのは、いくら何でもやり過ぎではないかと思いました(注7)。

 むろん、娯楽映画ですから原作とか史実通りに描き出す必要は全然なく、映画なりに色々創意工夫を加えてしかるべきとは思うものの(むしろ、そうせずに作られた映画は、『桜田門外ノ変』ではありませんが、つまらなくて目も当てられません!)、大学者の山崎闇斎をあのように取り扱う必要性が感じられません。
 算哲は闇斎門下であり、さらに闇斎は会津藩主・保科正之に迎えられてもいますから、算哲の改暦作業との直接的な関係を想定しても面白いとは思うものの、それ以上の出来事は呆気にとられるばかりです。

 さらに違和感を持ったのは、ラストの方で、算哲と土御門泰福笠原秀幸:注8)が、仲良く一緒になって京の庶民たちに向かって高いところから演説をする場面です。
 これも、こうした方が場面を短縮できて都合がいいのでしょう。ですが、武家や公家といった支配階級の者が一般の人々に向かって直接演説をして自らの正当性を訴え、挙句に国の方針を変更させようとするなどは、最近に至るもなかなか見かけない光景ではないでしょうか(注9)?

 ただそうだとしても、算哲と「えん」とのラブ・ストーリーが特色あるものとして描き出されていれば、それはそれでかまわないところ(注10)、何の変哲もないママゴトのようなものにしか思えませんから(注11)、クマネズミの本作に対する評価は自ずと低くなってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「何より、太平の世に、武士でも公家でもない、一介の碁打ちが、大好きな星を研究することで、ついに歴史を変えてみせたというのが痛快ではないか。「おくりびと」の滝田洋二郎監督の、けれん味のない演出に品格があり、夜空に輝く星の輝きにも似て、壮大で美しい物語に仕上がっている」として70点をつけています。



(注1)原作(以下のページ数はハードカバー版)において算哲が金王八幡で「えん」と初めて会ったのは、22歳の時で(P.33)、えんは18歳でした(P.23)。

(注2)原作では「御城碁」とされて淡々と記載されているところ(P.40)、映画では「囲碁」場面での盛り上がりをはかるべく、算哲は「初手天元」を打ち、さらに途中で日食となって上覧碁は中止となってしまいます。こうでもしないと、観客の興味をつなぎ止めておくことが難しいのかもしれませんが。

(注3)原作では、幕府の老中・酒井忠清から北極出地(その地の緯度を測定するために北極星の高度を測ること)の命を受けます(P.125)。会津藩主から日本全土に渡る命令を受けることは余り考えられないところ(それも、算哲は、囲碁の関係から会津藩邸で暮らしているにすぎないのですから)、時間の関係もあって映画でははしょってしまっているのでしょう。

(注4)算哲の作った暦(大和暦)は、「貞享暦」として、それまで800年以上使われていた宣明暦に代えて採用されました(1685年)。

(注5)このサイトの記事は、「本屋大賞受賞作の映画ヒロインは、どうして宮崎あおいなのか?」という問題提起をし、その上でさらに、「「宮崎あおいが演じそうなキャラが登場すれば、本屋大賞を獲れる」という法則もあり得るのではないか」という観点から、次の本屋大賞を占っています!

(注6)原作では、一方の村瀬義益は、佐渡の出で、算術の好きな小普請役の荒木孫十朗の屋敷の一角に開設されている塾(算術家の礒村吉徳の私塾)を取り仕切っているとされ(P.101)、他方で「えん」は、荒木の娘とされています(P.102)。
 なお、「えん」によれば、父親の荒木は、村瀬が養子に来てくれることを望んでいるとのことですが(P.102)、どうやら村瀬は固辞しているようです。
(しかしながら、村瀬と「えん」との間には何もなかったのでしょうか?)

(注7)原作では、闇斎は天和2年(1682年)に死んでいます(P.439)。

(注8)映画の算哲は、水戸光圀中井貴一)に対して、土御門泰福について、「幼少の頃より、京で山崎闇斎先生にともに教えを受けた」と述べています。
 ですが、算哲と土御門泰福とは闇斎門下であるにせよ、原作では、大老の堀田が「答えよ、算哲。土御門家の者と、いつ親交を持った」と尋ねたのに対し、算哲は「先方と面識はございませぬ」と答えています(P.452)。
 また映画では、土御門泰福について、水戸光圀が「土御門泰福は公家の中で一人改暦に乗り気だと聞く」と算哲に言いますが、Wikipediaの記事を見ると実際はそうでもなかったようです(さらに、こちらの記事でも)。
 まあ、ここらあたりにことは、映画では時間の制約もあり、短縮してしまったのでしょう。

(注9)原作においても、算哲と土御門泰福が、京の梅小路で連日天測を行い、「言うなれば春海は、天体観測にかこつけて、民衆をひっくるめた公開討論の場を作り上げたのだった」とされていますが(P.462)?

(注10)算哲がのめり込んでいる算術と改暦との関係が、映画である程度明確なものとされているならば、それでもいいかなと思いましたが、原作でも曖昧になっているものを映画に求めてもそれは所詮無理というものでしょう(なお、劇場用パンフレットに掲載されている和算研究所理事長・佐藤賢一氏によるエッセイでは、「招差法」や「勾配法」についての解説が見られますが)。

(注11)原作における算哲と「えん」との関係は、映画よりほんの少し複雑です(だからと言って、原作のようにすべきだというわけでもありません)。
 すなわち、原作においては、えんは、算哲が北極出地から戻る直前の20歳頃結婚しています(P.233)。
 他方、算哲は、北極出地から戻ったあと、28歳の時に「こと」(19歳)と結婚しています(P.255)。ですが、「こと」は「もともと蒲柳の質であった」がためでしょう(P.332)、4年ほどで「胃の腑の病」で亡くなっています(P.358)。
 1年半後、算哲は、これまた夫を亡くした「えん」と出会い(「えん」が28歳)、それから6年ほどして、38歳の時に「えん」と結婚します(P.412)。
 原作でも映画同様、「私より前に死なないで」と祝儀の際に算哲が「えん」に言いますが(P.418)、映画のようにこうした経緯が省略されてしまうと、大層浮ついた言葉になってしまうのではないでしょうか?
 加えて、前の夫に離縁されたとされている「えん」が、その後何度か算哲に同じ言葉を言うとなると、映画の簡略な設定に大いに疑問を感じてしまいます。



★★★☆☆



象のロケット:天地明察


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6 コメント

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不満だらけ (milou)
2012-10-04 11:44:28
これもまったく面白くなかったですね。不満点をいくつか列挙すると

A) 前にも書いたが月代の問題。
相変わらず怠慢で詳細に調べる気はないが以下のブログによれば“御城碁は坊主のはず”
http://blog.ergose.com/?p=12871

ウィキにも先代の方だが“慶長13年(1608年)剃髪して算哲と名乗る”とある。

少なくとも帯刀を許され上級(?)“武士”として眼をかけられているのに…
(最後の登城だけ月代で正装だったが)

B)黒装束の武装集団に襲われ、…闇斎が死亡するというのは、いくら何でもやり過ぎではないか

まったく同感。(この時点では)藩の公的な機関として設置された観測所を明らかにプロの集団
が破壊だけでなく殺す目的で襲撃しているが、誰の指示だったのか、それに対する藩の対応は?
ちなみに闇斎の関西弁が目立ち不要ではと思ったが塾は京都という“史実”かららしいが。

C)3つの暦の“対決”が一応見せ場の一つだが算哲の支持する授時暦は最後の1回間違っただけで
ほかの2つより遙かに正確であったのになぜ却下されるのか。もちろんこれも“史実であり
複雑な力関係なのだろうがドラマとしてその後の“落ち込み”が納得できない。

D)中国と日本の時差に気づくのも見せ場の1つだろうが、すでに日本各地で北極星を
観測し緯度を決定することを仕事としているのだから経度の誤差についても気づいているはず。
このことはラストの見せ場にも関係するが正午(?)に蝕が始まると予測し始まらなかったから
切腹しようとするが江戸と京都では始まる時間に誤差のあることは重々承知のはず。
さらに予測では皆既日食なのだから仮に欠け始めたとしても完全に隠れるまでは“正解”ではなく
公家がしっぽを巻く必要はない。

ついでながら、とってつけたように、えんが登場するが京都に一緒に来たのなら、あの時点で現れるのは
ご都合主義だし別に来たならさらなるご都合主義。

全体的に暦(時間)が題材なのに長い時間の経過がまったく感じられない(特に宮崎あおい)。
ほかにも気に入らないことは色々あるが、
気に入った点は(なぜか映画で使わなかったが)えんの“昼間に星を見る”と言う希望が叶えられたこと。
時代考証も程度問題 (クマネズミ)
2012-10-05 20:24:55
Milouさん、コメントをありがとうございます。

時代劇映画については、毎回その時代考証の正確さが問題となるところ、「言葉」の問題から始まって、milouさんが問題視される「月代」(milouさんは、映画『一命』のコメントでも触れています)や、また「お歯黒・引眉」などについても、おそらく製作者側は、よくわかっていながらも、現代人に受け入れられやすいかどうかという観点から採否を判断していると思われます。
本作についても、岡田准一・宮崎あおいなどを如何に美男・美女として映し出すか、また彼らを取り巻く中井貴一らの俳優たちについても、現代の一般的観客に如何に分かるように見せるか、それに、2時間程度の時間的な制約の中で物語を如何に観客に分かりやすく語るか、などという観点で作られているのではないでしょうか?
もっと言えば、時代劇映画とは、江戸時代を舞台にしたファンタジーなのではないでしょうか?
ですから、時代的にあり得ない点をいくら論ってみても、それほど意味があるとは思えないところです。
ただ、それにも限度があって、本作の山崎闇斎の扱い方はその限度を超えてしまっているのではと思われました(いくら時代劇映画にはチャンバラがつきものと言っても、こうした作品にはそんな要素を誰も期待しないのではないでしょうか)。

なお、算哲の「剃髪」については、原作においては十分に意識され、「碁打ちの身なりは僧に倣うのが一般的」だが、「春海には、あえて曖昧さの中に己をとどめようとする思いがあった」がために、「剃髪もしていない」などと述べられています(P.43~P.45)。
本作の監督や脚色者は、必ずや原作小説を読み込んでいることでしょうから、主人公の髪の毛は検討済みの事と推測されます。
なるほど (milou)
2012-10-05 22:58:13
原作には春海の剃髪に関しての説明があるなら納得できるが
映画では何の説明もなかったはず。まあそんなことはTVや
映画の時代劇では当たり前の話だし“了解”済(?)。
だが、もちろん僕がそのことを気にするのは、もう少しあと
で、それだけで最初からダメ出しはしません。
まだどのようなタイプの映画か分からないから。

何度か書いたが作品のアラが許せるか許せないかは
見る人(僕)がその作品を楽しめたかどうかで許容範囲が
変わります。カートゥーンで車に轢かれ紙切のようになり
すぐ元に戻っても誰も“あり得ない”などと文句は言わない。
作り手と観客の“了解”レベルが一致するからです。

例えばこの作品の場合、トップシーンで屋根の上で
観測(?)していて、約束事のように滑って落ちそうになる。
それだけで僕には、もうこの作品はダメなのです。
なぜなら、現代ならいざ知らず、屋根の上でも庭からでも
視界などにほとんど差はなく夜でもほんの少し高いから
といってよく見えるわけでもない。
つまりこのシーンは何も考えず“安易”に作ったと判断
してしまうわけです。案の定(?)それこそカートゥーンの
ように(??)アタフタと慌てふためくコミカルなシーンが
続きあり得ない大事なものを置き忘れたり…
(あらゆる面で算哲の馬鹿さばかりが目立つ)

要するに観客を楽しませるため(?)の多くのシーンが、
僕には浮いてしまい、その程度の映画だなと思うと
見ていてもアラばかりが目に付くわけです。
確かに「その程度の映画」でしょう! (クマネズミ)
2012-10-07 06:50:19
Milouさん、再度のコメントを誠にありがとうございます。
なるほど、よく分かりました。映画の入口で躓いてしまわれたのであれば、それ以降「見ていてもアラばかりが目に付く」のも当然でしょう。
そして、「観客を楽しませるため(?)の多くのシーンが、僕には浮いてしまい」とmilouさんがおっしゃるのも、随分と目が肥えていらっしゃるが故だと思います。
逆に、普通の観客に過ぎないクマネズミは、エントリにも書きましたが、トップシーンは、算哲が係わっている事柄が凝縮して示されていて、なかなかよくできているのでは、と思いました。
〔関係ありませんが、このシーンは、『アントキノイノチ』のまさに冒頭で、主演の岡田将生が全裸で屋根の上にいるシーンを思い出してしまいました〕
また、「あり得ない大事なものを置き忘れ」るのも、算哲が因習を嫌っている天才肌の人物だということを描き出そうとしているのでは、と思いました〔ちなみに原作では、算哲が剃髪せずに無腰なのは「見栄が悪い」というところから、「ある日、いきなり寺社奉行から刀が下賜された」ものの、「春海はちっとも嬉しくない」などといった背景が書かれています(P.44)〕。
全体として本作は、娯楽時代劇映画の題材としてはまるで不適なものを取り扱うがため、一般の観客の関心を引きつけようとしていろいろ工夫しているな、それらはご愛敬として受け入れるにしても、ただその中にはいくつかやり過ぎのところがあるな、という印象でした。
考察のとおり (sakurai)
2012-10-08 12:07:33
やはり山崎闇斎のあれはどうかと思いました。
一瞬、頭の上に???マークが飛び交いましたよ。
エンタメとして見せようとする気持ちと、そこまで演出しちゃまずいでしょってバランスと、カタルシスへの持って行き方がうまーく融合されてなかったと感じました。
この監督の特色にも思えますけど。
私も、本をとっても興味深く読んで、なかなかの傑作だなぁと期待したいたんですが、監督の名前でハードル下げました。
この監督らしいと言ってしまえば、そうなんですけどねえ。
?闇斎? (クマネズミ)
2012-10-08 21:10:35
Sakuraiさん、TB&コメントをありがとうございます。
クマネズミも、sakuraiさん同様、「本をとっても興味深く読んで、なかなかの傑作」と思ったのですが、本作に岡田・宮崎コンビが出演すると聞いて、あんな地味な本をそんな人気者で撮れるのかな、と些か危惧したところです。
案の定、とびきりの闇斎の登場となってしまい、やっぱなーという感じです。
とはいえ、日本の娯楽時代劇映画と言ったらこんなものなのかもしれませんが、どんなもんでしょうか?

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