映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

リスボンに誘われて

2014年10月08日 | 洋画(14年)
 『リスボンに誘われて』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)ブラジルの宗主国だったポルトガルの首都リスボンの風景が描き出されるというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公ライムントジェレミー・アイアンズ)は、スイスのベルンに住む高校の古典文献学の教師で57歳。
 妻とは5年前に離婚し、夜は、独りでチェスを楽しみ、朝になると、紅茶を飲みながら講義ノートの手直しをして家を出るという決まりきった生活を送っています。
 ところが、ある雨の降る日、彼が、学校への出勤途中に、橋から飛び込もうとした若い女を助けたことから、一冊のポルトガル語の本『言葉の金細工師』を手にすることに(注2)。
 そして、同時にその女が残していった列車の切符を使って(注3)、学校の授業を放り出してリスボンに旅します。



 ライムントは、列車の中で、ポルトガル語で書かれたその本を読み耽り、著者のアマデウジャック・ヒューストン)に大層興味を持つに至り、リスボン市内でアマデウを訪ね歩きますが、果たしてうまくいくでしょうか、………?

 本作の主人公は、ひょんなことから手にした本の著者の消息をリスボン市内で聞き回りますが、出会う相手が皆謎めいた行動をとったりするのでサスペンス的な雰囲気が醸しだされ、思わず映画の中に引き込まれてしまいます。現在と過去のいくつかの男女関係が描かれるだけでなく、リスボン市内の風景も色々と映し出され(注4)、なかなか興味深いとはいえ、ただ、会話が全部英語になってしまっているのは残念なことでした(注5)。

(2)本作の原作は、スイス生まれの作家・哲学者のパスカル・メルシエが著した『リスボンへの夜行列車』(浅井晶子訳、早川書房)。ただ、訳書で上下2段組の500ページ近い本ですから、映画化するにあたっては、当然のことながら、かなりの刈り込みが行われています。

 中でもクマネズミが気になったのは言葉の点です。
 本作では、ライムントが泊まることにしたホテルの受付が、最初に簡単なポルトガル語を話すくらいで、大部分の会話は始めから英語になってしまっています。
 ただ、リスボンで活躍する登場人物が皆英語で話していても、映画を見ている方で、そうなるのも吹替版だからだとみなしてしまえば、そのこと自体そんなに問題ないのかもしれません。
 でも、少々ポルトガル語が聞けるのかなと期待していた者には残念な気がしました。

 それに、言葉の問題をこうやってクリアしてしまうことにより、主人公がドイツ語の話される場所(ベルン)におり、なおかつ「彼の頭には、ラテン語とギリシア語のあらゆるテキストのみならず、ヘブライ語のテキストまでが詰まっており、その知識で、これまで旧約聖書を専門とする多くの大学教授たちまでをも驚嘆させてきた」(P.14)というライムントの人物像が大層曖昧なものになってしまっているのではと思いました。

 そんな沢山の言語に通じたライムントだからこそ、「あなたの母国語はなんですか?」との彼の問に対し、橋から飛び込もうとした若い女が「ポルトガル語(ポルトゥゲーシュ)」と答えたことに鋭く反応してしまい(注6)、果てはその女が残した『言葉の金細工師』に没頭することになったのではないか、と思えます。

 ちなみに、本作では、その本は女が残したレインコートのポケットに入っていたことになっていますが、原作では、その女は何も残さず、ライムントは、女が書き残した電話番号からベルン市内の書店を探し出し、そこでその本に遭遇します。
 また、本作のライムントは、ポルトガル語で書かれたその本をいきなり読み出しますが、原作のライムントは、沢山の言語を身に付けているにもかかわらずポルトガル語は不案内で、レコード付きの「ポルトガル語の語学講座」(P.29)を購入し、まる1日その勉強に没頭するのです(尤も、彼はスイス人であって、ポルトガル語と同系統のフランス語やイタリア語には元々通じているでしょうから、日本人の場合とはかなり事情が異なるでしょうが)。

 そんなこんなを経た挙句のリスボン行きですから、原作におけるライムントのアマデウ探しに対する執着は並大抵のものではありません。
 これに対して、本作のライムントのそれはちょっとした気まぐれのように見えます(注7)。とは言え、上演時間111分の映画にそこまでの細かさを求めるのは行き過ぎであり、いたしかたがないところでしょう(注8)。

(3)本作は、ライムントが探偵となってアマデウを探し求めるというサスペンス仕立てになっているため、彼がリスボンで見つけ出したものを明かしてしまうと興味が半減するかもしれません。
 そこでごく簡単に触れるにとどめますが、リスボンに着いてスグに眼鏡が壊れたために、ライムントは眼科医マリアナマルティナ・ゲデック)に診てもらいます。そして、彼女を通じて、介護施設にいるジョアントム・コートネイ)と面談することができ、彼の話から、40年ほど昔の話を聞くことができます。
 その話によれば、若き医者のアマデウは、親友のジョルジェアウグスト・ディール)の愛人のエステファニアメラニー・ロラン)を愛するようになったとのこと。他方で、兄アマデウに命を助けてもらったことから兄に憧れていた妹のアドリアーナシャーロット・ランプリング)は、エステファニアに激しく嫉妬します。
 通常であれば、探偵ライムントの役割は、こんな関係(及び、その行く末)を明らかにすることで終わってしまうでしょうが、本作においては、その過程で、ライムントと眼科医マリアナとが何度も会っているうちに、その関係に変化が生じてしまうのです(注9)。



 要すれば、自分とは相当異なる生き方をするアマデウの生き様を探索するにつれて、ライムント自身も自分の過去を振り返り、将来に向けて違う一歩を踏み出してみようとするのでしょう。
 とことん対象に惚れ込むということはあるいはそういうことなのかもしれないな、と思ったところです(注10)。

(4)村山匡一郎氏は、「ふとしたきっかけから人生が大きく変わることはある。本作は、1冊の書物との出会いから影響を受けた1人の中年男の旅を通して人生を見つめ直すことの意義を、ポルトガルの暗い時代を闘った人々の生きざまに重ねて繊細かつ透徹した映像で描いている」として★4つを付けています。
 産経ニュースの「シネマプレビュー」は、「ミステリー仕立てだが、ビレ・アウグスト監督は謎解きよりも主人公の魂の解放に力点を置く。ジェレミー・アイアンズをはじめ、名優の競演も見もの」として★3つ(楽しめる)を付けています。



(注1)監督はビレ・アウグスト。

(注2)ライムントは、その女が「一緒に行ってもいいですか?」と尋ねるものですから、彼女を連れて学校に行き、受け持ちの教室で聴講してもらおうとします。でも、しばらくすると彼女は、着ていたレインコートを残したまま学校を立ち去ってしまいます。
 ポルトガル語の本は、そのレインコートのポケットに入っていたもの。

(注3)女が残していった本が、ベルン市内の古書店で購入されたものであることがわかり、その店に行って主人に尋ねると、「昨日、その本を売りました」との返事。
 その際、その本の中を調べていたら、列車の切符が滑り落ちます。
 ライムントは、その切符を持って駅に行き、該当する列車でその女を探しだそうとしますが、おそらく、女にその切符を返そうとしたのでしょう。
 でも、女は見当たらず、また発車時間が迫っていたこともあり、ライムントは衝動的に列車に飛び乗ってしまいます。
 無論、原作ではこんな経緯にはなってはおりません。
 切符をなくした当人が予め列車に乗車しているはずもありませんから!

(注4)劇場用パンフレットに掲載の岡田カーヤ氏のエッセイ「ただたださまよい続けたくなる、白い街、リスボン」が大変参考になります。

(注5)俳優陣に関しては、最近では、主演のジェレミー・アイアンズは見たことがありませんが、メラニー・ロランは『複製された男』、ジャック・ヒューストンは『アメリカン・ハッスル』、マルティナ・ゲデックは『バーダー・マインホフ  理想の果てに』、トム・コートネイは『カルテット! 人生のオペラハウス』、アウグスト・ディールは『ソルト』、シャーロット・ランプリングは『ブリューゲルの動く絵』で、それぞれ見ました。

(注6)「ポルトガル語(português)」の発音は、このサイトで聞いても分かるように、ポルトガルとブラジルとでは違って、一般にブラジルでは語尾が「ス」となるのに対し、ポルトガルでは「シュ」となります。

(注7)上記「注6」を参照。

(注8)といって、原作では何も言われていない当初の橋から身を投げようとした女の素性について、映画では意外な事実が明かされるのですが。
 原作通りの謎の女のままではなぜいけないのでしょうか?

(注9)ライムントとマリアナがレストランで食事をした時に、ライムントが「妻と別れたのは、私が退屈だから」と言うと、マリアナは「あなたは退屈なんかじゃない」と言います。
 そして、ベルンに戻る列車に乗り込もうとする時、ライムントがマリアナに「アマデウやエステファニアは精一杯に生きた。私の人生を、ここ数日を除いて、それに比べてしまう」と言うと、マリアナは「ここに残ればいいのよ」と応じます。さあ、ライムントはどうするのでしょうか、………?

(注10)でも、ライムントとマリアナとの関係は映画における出来事であり、原作ではそのようなことは起こらず、ライムントはベルンに戻ってきます。上記「注9」のエピソードは、映画の物語を終わらせるために用意されたものでしょう。



★★★★☆☆



象のロケット:リスボンに誘われて

バルフィ!

2014年09月12日 | 洋画(14年)
 『バルフィ! 人生に唄えば』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)このところインド映画を見ていないなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公は、生まれつきの聾唖者のバルフィランビール・カプール)。



 そのバルフィが、3ヶ月後に結婚式を控えているシュルティイリヤーナー・デクルーズ)に恋をし、シュルティもバルフィを好きになるのですが、やはり親が決めた完璧な婚約者との結婚の方を選んでしまいます。



 その後、バルフィは、資産家の孫娘で自閉症のジルミルプリヤンカー・チョープラー)とひょんなことで一緒にインド中を旅することになり、6年後にシュルティが住む街に舞い戻ってきます。



 ですが、その街でバルフィは、突然警察に逮捕されてしまうのです。それを見たシュルティは、昔の思いにとらわれて夫が止めるのも聞かずに警察署に向かいます。
 果たしてバルフィの身はどうなるのでしょうか、シュルティは、そしてジルミルは、………?

 本作はインド映画で、いつものようにまずまずの長尺(151分)で、登場人物が歌うシーンもそこそこ挿入されているとはいえ(注2)、ボリウッド映画特有のダンスシーンは殆ど見られず、主人公と二人の女性との恋愛物語が実に美しく巧みに描かれていて、長さを感じさせない優れた作品ではないかと思いました。

(2)本作では対になって描かれるものが多いように感じました。

 まずは何と言っても、バルフィイが恋するシュルティとジルミルの二人の女性。
 この場合、バルフィが能動的に恋に陷いるのはシュルティであり、ジルミルの方はいわば受動的に恋するようになった感じです。
 というのも、シュルティは婚約中であり、バルフィを愛しながらもどうしても引き気味になり、そこをバルフィの方で能動的に前に踏み込もうとするからですし(注3)、ジルミルについては、追い返してもどこまでもバルフィの後を追いかけてきてしまい、そのうちにバルフィもジルミルのことをなくてはならない人と思うようになるわけです。
 外見的にも、一方のシュルティを演じる26歳のイリヤーナー・デクルーズは、そのままで際立った美しさに目を引かれますが、他方のプリヤンカー・チョープラーについては、20歳位(注4)で発達障害者でもあるジルミルに巧みに扮しているために、映画を見た時は、まさか既に32歳で、2000年のミス・ワールドに選出されたことがある女優だなどとは思いもよりませんでした!

 次に男性陣では、バルフィには地元警察のダッタ警部(サウラブ・シュクラー)が対峙します。
 いろいろな理由からバルフィはジルミル誘拐の犯人とされ、地元警察署のダッタ警部から厳しい取り調べを受けたり、バルフィが警察署を逃亡すると執拗に追跡して来たりするのです(注5)。

 さらに言えば、本作には2つの都市が出てきます。
 すなわち、インドの西ベンガル州の州都コルカタ(昔はカルカッタと言われてました)と、ダージリン地方の中心都市のダージリン。
 この2つの都市はいずれもインド西部にあるとはいえ、随分と性格が違うようです。
 一方のコルカタは、ガンジス川の支流の東岸の平野にあるインド第3の巨大商業都市ですし、他方のダージリンは、コルカタのずっと北方の平均標高が2000mを越えるヒマラヤの高地に位置し、人口が10万人ほどの中都市で、以前は避暑地として栄えた消費都市です。
 本作では、バルフィとシュルティとはダージリンで出会い、またバルフィはジルミルのことを知ってもいました(注6)。
 そして、シュルティは結婚するとコルカタに移りますが、バルフィとジルミルも6年後にコルカタに舞い戻ってきてシュルティと出会うのです(注7)。

(3)本作は、全体として優れた出来栄えの作品と思いますが、問題点がないわけでもないと思います。

 まず挙げられるのは、本作には過去の名作の引用と思われるシーンがかなりたくさん盛り込まれている点です。
 本作の公式サイトの「Introduction」では、「本作は、『雨に唄えば』などの古き良き時代のハリウッドミュージカルや、『きみに読む物語』、『アメリ』、『Mrビーン』、『黒猫白猫』、『プロジェクトA』、『菊次郎の夏』などの世界各国の名作映画へのオマージュに溢れた、大きな映画愛に満ちた作品」だとされています。
 IMDbで「Barfi!」を調べてみても、「Connections」のコーナーで「Charlie Chaplin's City Lights」など5つが取り上げられています。
 こうした引用は、確かに「オマージュ」と言えば聞こえはいいものの、例えば北野武監督の『菊次郎の夏』を真似たシーン(注8)やバルフィが靴を投げ上げるシーン(注9)などは、オマージュというよりパクリといった方がいいような気もします〔と言って、オマージュとパクリの違いがどこにあるのかは難しいところです(注10)〕。

 また、後半になるとバルフィとジルミルの話が俄然増えてしまい、シュルティが画面に暫くの間全く登場しないのです。
 バルフィが主人公ですから、彼がかかわらないコルカタにおけるシュルティの暮らしぶりなどを描き出さないのも当然とはいえ、そうは言ってもシュルティがバルフィを忘れられないことがモノローグだけで済まされるのでは(注11)、いかにも弱い感じがします。

 さらに言えば、手話のことがあるかもしれません。
 バルフィくらいの若者でしたら、手話の取得はそう難しいことではないものと思われます。にもかかわらず、本作では、バルフィが手話を使ってコミュニケーションを取っているシーンは殆ど見当たらないように思います(注12)。
 ただ逆に、本作においてバルフィがかなり手話を使えることとすると、他人とのコミュニケーションがかなりの程度可能となりますから、あえて喋れないという設定をとることの意味が薄れてしまうでしょうが。

(4)渡まち子氏は、「ハンディを持ちながら明るく生きる青年が主人公の人生讃歌「バルフィ! 人生に唄えば」。名作映画へのオマージュがいっぱいで映画好きなら胸が熱くなる」として65点をつけています。
 暉峻創三氏は、「昨年ヒットした「きっと、うまくいく」を伝統的インド娯楽映画の極北とするなら、本作は新時代インド娯楽映画の可能性を極致まで切り開いた傑作だ」と述べています。



(注1)本作の監督はアヌラーグ・バス

(注2)何しろ、映画の冒頭では、一方でクレジットが流れますが、他方で映画鑑賞の際の注意事項が唄で歌われるのですから!

(注3)バルフィは、シュルティの両親に会って彼女との結婚を申し込みますが、うまく伝えられず、また彼女の方も、親の決めた結婚を受け入れてしまい、結局バルフィは諦めざるを得ません。

(注4)ジルミルは、父親が博打好きで母親が大酒飲みのため、6歳から施設〔「ムスカーン(ほほえみの家)」にいる女性がそう語ります〕に15年間預けられていました(ほほえみの家のダジューが、ジルミルの両親に向かって「私は15年間ジルミルを見たが、お前たちは15日間でこの有り様か!」と怒鳴ります)。

(注5)尤も、ダッタ警部は、アリバイのあるバルフィをジルミル誘拐事件の真犯人に仕立てあげようとする上司に反対したために、出世コースからはずれてしまいます。

(注6)というのも、バルフィの父親は、ダージリン一の資産家であるチャタルジー家の運転手であり、ジルミルはその家の孫娘でしたから。おそらくシュルティも、ダージリンの家柄の良い家の娘でしょう。

(注7)コルカタからダージリンに行くには、Wikipediaによれば、コルカタから夜行列車でシリグリに向かい、同市のニュー・ジャルパグリ駅で下車し「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」に乗り換える方法があるようです。
 ちなみに、この鉄道は「ダージリン・トイ・トレイン」とも呼ばれ、世界遺産に登録され、また本作の中でも大活躍します。

(注8)このサイトの記事には、元の作品の動画(部分)が掲載されています。

(注9)このサイトの記事で知ったのですが、北野武監督の『あの夏、一番静かな海』に随分と類似するシーンがあります(この動画の13分のところ)。
 本作において非常に重要なシーン(それも複数回映し出されます)が他の監督の作品からの引用というのでは、やや引けてしまうところです。

(注10)古典の中の古典として定着しているチャップリンの映画などからの引用であれば、観客の方も「オマージュ」だと感じるのかもしれませんが、例えば2004年の『きみに読む物語』(原題「The Notebook」)ともなると気がつく観客の数は相当減ってしまうのではないでしょうか(少なくとも、クマネズミは見ておりません)。
〔補注 その後DVDで『きみに読む物語』を見ましたが、本作との類似点は2,3にとどまらないように思いました。それも、重要なラストの死の場面などそっくりそのままであり、到底オマージュと言えるシーンではないように思いました〕

(注11)シュルティは、「夫と一緒にいても、心は沈黙していた」とか「完璧な夫婦は、愛が不足していた」、「私は、心に従う勇気がありませんでした」などと語りはするのですが。

(注12)ちなみに、シュルティは、夫と別れた後、「手話の教室で教えるソーシャルワーカー」となっていたようです(このサイトの記事によります)。



★★★★☆☆



象のロケット:バルフィ! 人生に唄えば

LUCY ルーシー

2014年09月09日 | 洋画(14年)
 『LUCY ルーシー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)スカーレット・ヨハンソンモーガン・フリーマンが共演するというので、映画館に行ってきました(注1)。

 本作(注2)は、類人猿が水辺で水を飲んでいるシーンから始まります(注3)。
 そして、10億年前に生命が誕生(注4)したとのナレーションが入ったあと、場面は現代の台北に移り、あるホテルの前でルーシー(台湾への25歳の留学生:スカーレット・ヨハンソン)と男が言い争っています。
 彼は、「アタッシュケースをホテルにいるチャン氏に届けてくれれば、1000ドル手に入る」と言って、嫌がるルーシーの腕に手錠で鞄をつなげて無理やりホテルの中に送り込みます。
 ホテルの中では人相の悪い男たちが現れ、鞄を持ったルーシーを強引にチャンチェ・ミンシク)の待つ部屋に拉致します(注5)。



 その鞄の中身は「CPH4」という新種の覚醒剤であり、密輸するためにチャンの一味のギャング団は、ルーシーや3人の男の腹部にその覚醒剤の袋を埋め込みます。

 他方、脳科学者のノーマン博士(モーガン・フリーマン)は、パリのソルボンヌ大学で講義をしていて、「人間は、脳の機能のごく一部しか使っていない」、「ヒトよりも脳を使っている動物はイルカで(20%も機能)、そのエコーロケーションはいかなるソナーよりも優秀だ」などと話しています。



 さらに、ノーマン博士は、「人間の脳の覚醒率(cerebral capacity)が20%にアクセスできたらどうなるだろう?」(注6)、「40%にアクセスできたら、他者をコントロールできるだろう」などと語り、学生から「100%に到達できたら?」と質問されると、「考えもつかない」と答えます。

 さて、監禁されているルーシーは、チャンの一味のチンピラに腹部を足蹴にされますが、そのことで腹部に埋め込まれた覚醒剤の袋が裂けて、中身が体内に飛び散ってしまいます(注7)。
 ルーシーは部屋中を転げまわり、気がついた時、脳が覚醒して何か特別な能力が身についていることを自覚します。何しろ、彼女を取り押さえようとしたギャング団をいとも簡単にやっつけてしまうのですから!



 ルーシーは、友人の家に行ってパソコンを借りて色々調べた挙句、ノーマン博士と連絡を取ることとします。
 さあ、この先、どのような展開になるのでしょうか、………?

 本作は、『her 世界でひとつの彼女』では声だけの出演だったスカーレット・ヨハンソンが同じような役柄で生身の人間として画面に登場したらどうなるのかを、お馴染みの超能力者対ギャング団の争いという至極単純なストーリーの中で描き出したものながら、脳の覚醒率アップという観点を取り入れて全体をまとめていて、まずまずの仕上がりなのではと思いました。

(2)本作は、やはりヨハンソンつながりで、『her 世界でひとつの彼女』と比べてみたくなってしまいます。
 まず類似していると思われるのは、どちらも取り扱われている範囲が比較的小さいように思われる点です。
 一方の『her 世界でひとつの彼女』は、主人公のセオドアホアキン・フェニックス)とAIのサマンサ(その声がヨハンソン)との関係が中心であり、他方の本作の場合も、舞台が台北からパリへと動いたり、ギャング団が出現しパリ市内で物凄いカーチェイスなども行われたりするとはいえ、人類存亡の危機といったSF特有の大掛かりなシチュエーションにはなりません。
 また、『her 世界でひとつの彼女』で大きな役割を与えられているのはサマンサというAIであり、本作の主役のルーシーも、最後はUSBメモリを残して、サマンサ同様に消滅してしまいます。
 反対に両者が異なっている点もあり、特に『her 世界でひとつの彼女』が優れたラブストーリーであるのに対して、本作ではその要素は殆ど見られません(注8)。せっかく生身のヨハンソンが出演しているのに、この点は至極残念なところです。

(3)本作の問題点と思える点についてもう少し触れておきましょう。
 無論、本作は娯楽SFファンタジーであり、オカシナな点はいくらでも見つかるでしょうが、細かなことを論っても仕方がないでしょう。

 でも、例えば、本作ではCPH4によってルーシーの脳の機能が現状より著しくアップするところ、その外観はいかにも覚醒剤であり(注9)、そうだとすれば、もしかしたら本作は覚醒剤の肯定に寄与しかねないのではと思ってしまいます(注10)。

 それに、本作は、人間の脳は現状その能力のごく一部しか機能していないということが前提になって制作されているものの、そのようなことを簡単に言えるのでしょうか(注11)?
 素人目にも、人間の器官に機能していない部分がかなりあるとしたら、人類誕生以来の長い年月の間にとっくに退化してしまっているのではと思ってしまいます(注12)。

 さらに、人間の脳が100%覚醒したらどのような状態になるのかが本作でははっきりしておらず(コントロール不能とされています)、現在は10%しか機能していないと言われても、なんの1割なのか明確にされていないのではないでしょうか?
 あるいは、100%覚醒状態というのは「神」と同一になることなのかもしれません。でも、全能の神というものがどういうものであるのか誰もしっかりとしたことが言えないのではないでしょうか?
 脳の機能のアップにより何ができるのかという点につき本作で描き出されているのは、時間をどんどん過去に遡及できるようなことです。でも、それもせいぜい宇宙の始まりの時点(それも、人間が現時点で解明しているもの)までであって、その始まりとされる前はどうなるのかということになると、もうどうしようもなくなってしまう感じです。
 また、ルーシーは、最後にコンピュータに蓄積されているすべての知識をUSBメモリにしてノーマン博士に手渡します。ただ、100%覚醒状態というのは、過去の人間の知識の蓄積にすぎないのでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「脳が100パーセント機能してしまったヒロインの戦いを描くアクション「LUCY/ルーシー」。人間離れしたス・ヨハを楽しむ映画」として50点をつけています。
 青木学氏は、「荒唐無稽なのにテンポの良い展開と簡潔なストーリーで妙な説得力がある」と述べて82点をつけています(注13)。



(注1)最近では、スカーレット・ヨハンソンは『ヒッチコック』で、モーガン・フリーマンは『トランセンデンス』で、それぞれ見ました。

(注2)本作の原題も『LUCY』で、監督・脚本は、『アデル ファラオと復活の秘薬』を見たことがあるリュック・ベッソン
 ちなみに、本作は、オープニングでの米国興収(本年7月28日発表)が首位となり(この記事)、次週も2位で「グロス(最終興収)は1億2000万ドル前後になりそうだ」とされています(この記事)。 尤も、1か月後にはトップ10から脱落しました。

(注3)この類人猿は後の方でもう一度登場するところ、初期人類とされる「ルーシー」なのでしょう。

(注4)例えばこのサイトの記事によれば、「現在の学説では地球が誕生してから6億年ほど経った頃(40億年前)、海で生命が誕生したといわれてい」るとのこと。

(注5)ここでチータがガゼルを追い詰めて食らいつく画面が挿入されますが、なんだかあまりにも安易な連想ですし、さらには『悪の法則』において、マルキナキャメロン・ディアス)がウサギを追いかけるチータを双眼鏡で見ているシーンを思い出してしまいます。

(注6)その後本作で描かれていることからすると、20%の覚醒率では、1時間で外国語をマスターできたりするようです。そうだとすれば、『万能鑑定士Q』においてフランス語を身につけるのに一晩かかる凜田綾瀬はるか)では、まだその域に達していないようです。

(注7)そのあとでルーシーは、病院に行って体内から覚醒剤の袋を取り除いてもらいますが、医師から、CPH4は妊婦が胎児にごく少量作り出して与えるものであり、体内に大量に入れたら長時間生きて入られないということを知らされます。

(注8)ルーシーは、フランス人のピエール・デル・リオ警部(アムール・ワケド)にキスをするものの、脳の覚醒率のアップによって人間性を失って、その事自体を忘れてしまいます。

(注9)引き出された男にチャンがCPH4を与えると、その男は覚醒剤を使ったのと同じような状態になりますし、なによりチャンの一味はCPH4の密輸によって荒稼ぎしようと企んでいるのですから、単なる薬品でないことは明らかでしょう。

(注10)例えば、外国語の短期習得のために覚醒剤を使おう、といったようなことにもなりかねないかもしれません。

(注11)劇場用パンフレットのコラム欄に、中野信子氏の「なぜ人間の脳は100%覚醒することがないのか?」という文章が掲載されていて、そのなかでは、「普段から脳を100%で機能させてしまうと、本来、力を出し切らなければならない局面で発揮できないため、制限をかけていると考えられます」と述べられています。
 でも、いざという場合リミット以上の力を出せるというのであれば、それは(潜在的には)覚醒しているということになるのではないでしょうか(「機能する」とか「覚醒する」といった言葉の意味合いの違いなのかもしれませんが)?

(注12)Wikipediaの「」のところには、「「人間は脳の1割ほどしか有効に使っていない」という俗説があるが、これはグリア細胞の機能がよくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけという思い込みから広まったものと言われる。最近では脳の大部分は有効的に活用されており、脳の一部分が破損など何らかの機能的障害となる要因が発生し た場合にあまり使われていない部分は代替的または補助的に活用されている可能性があると考えられている」と述べられています。

(注13)それにしてもこの青木氏の論評は、「~けれど、~」とか「~のだが、~」という逆接の構文が酷く目立つ文章だなと驚きました。



★★★☆☆☆



象のロケット:LUCY/ルーシー

プロミスト・ランド

2014年09月07日 | 洋画(14年)
 『プロミスト・ランド』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)本作(注1)は、マット・デイモン(注2)が主演の作品だというので映画館に行ってみました。

 本作の舞台は、アメリカの小さな田舎町のマッキンリー(注3)。
 その町で、マット・デイモンが、大手エネルギー会社「グローバル社」のエリート社員のスティーヴに扮して、同僚のスーフランシス・マクドーマンド)と一緒に、シェールガスが埋蔵されている農地を所有する農場主と掘削権にかかるリース契約を次々に取り結んでいきます。



 ですが、環境活動家ダスティンジョン・クラシンスキー:注4)とか博識の高校教師フランクハル・ホルブルック)とかが現れ〔美人の小学校教師アリスローズマリー・デウィット:注5)まで出現します〕、仕事がはかばかしく進まなくなってしまいます。果たしてどうなることでしょうか、………?

 本作は社会派の作品であり、いかにも誠実そうなマット・デイモンが登場すると、話がどのように展開するのか先が読める感じになるところ、実際にもこちらが思ったとおりに映画が進行するので、世の中はそんな単純なものとはとても思えず、見終わると拍子抜けしてしまいます。とはいえ、映画『ネブラスカ』と同様、あまり紹介されることのない米国内陸の農村地帯の広々とした様子を垣間見ることができたのは収穫でした。

(2)(以下は、結末のネタばらしをしているので、未見の方はご注意ください)
 ラストの方で主人公のスティーヴは、環境活動家ダスティンの本当の身分を知り、会社が自分を全く信頼していないことがわかって、それまでとっていた態度を一変させることになります。



 ですが、スティーヴが勤務先のグローバル社をそんなに信じていたというのもなんだか理解し難い感じがします。
 彼は、自分が育ったアイオワ州での体験(注6)から、土地にしがみついた農民の厳しい状況をよく知っていると語ります。それで、貧しい土地を捨てる代わりに一定の金を得て都会に出た方が豊かな生活を送ることができるとして、マッキンリーでも契約獲得に努めていたものと考えられます。
 スティーヴとしては、農場などがどうなってしまうのかといったことよりも、むしろ貧しい農民の自立をサポートすることの方が重要だと考えていたのではないでしょうか(注7)?
 農民に必要な現金をつかませるという点において、スティーヴはグローバル社とつながりを持っていたのではないかと思えます。

 ただ映画で描かれるスティーヴは、埋蔵されているシュールガスの評価額を実際よりもかなり低く提示することで(注8)、農民に支払われる金額をかなり抑え込んでいます。そしてその結果として、会社に相当の利益をもたらしているのです(注9)。
 とはいえ、スティーヴはいったい何のために契約額を低く抑え込もうとしているのでしょうか?
 会社での昇進のため?
 だとしたら、ダスティンの身分が明らかになって、自分が会社にそれほど信用されていないと分かったとしても(注10)、そんなことはこの冷酷な競争社会ではよくあることと割り切れるのではないでしょうか?

(3)また、本作では、シュールガスの採掘の方法として「フラッキング」という言葉がよく出てくるところ、フラッキングについては、このサイトの記事で次のように述べられています。

 本作の「中でも頻繁に登場する言葉がフラッキングだ。「水圧破砕(ハイドロリック・フラクチャリング)」と呼ばれる掘削技術の略称で、砂や化学物質を混ぜた大量の水を高圧で地中に送り込み、ガスや石油が閉じ込められた頁岩(けつがん=シェール)層に亀裂を入れて回収する。世界のエネルギー地図を塗り替えつつあるシェール革命の中核技術だ。
 フラッキングそのものは1940年代からある古い技術だが、2000年代半ば以降に本格化したシェールガス・オイル開発で多用され、一般に知られるようになった。
 それに伴い、井戸の施工不良や廃水のずさんな処理などによって周辺の地下水や河川などが汚染されるケースが相次いで報告されている。
 ブルームバーグ通信の昨年末の調査では、米国民の66%がフラッキング規制の強化を支持している。米環境団体ナチュラル・リソース・ディフェンス・カウンシルによると、フラッキングが行われている30州のうち、使用する化学物質の情報開示を義務付けているのは14州にとどまる。情報開示基準は州によってバラバラで、連邦政府レベルでの規制を求める声が高まっている。
 米国外ではフランスやブルガリアはフラッキングを禁止。禁止はしていないがドイツは許可に慎重な姿勢だ」。

 本作の中でも、牛の死体が農地に転がっている写真(注11)をダスティンが農家に配ったり、小学校教師アリスにアプローチしたダスティンが、アリスの受け持ちのクラスで、フラッキングの問題点について模型を使ってわかりやすく小学生に教えたりするシーンが描かれています。

 確かに、「井戸の施工不良や廃水のずさんな処理などによって周辺の地下水や河川などが汚染されるケース」が見られるのでしょう。
 ですがそうだからといって、自分の勤務先に信用されていないとわかったスティーヴ(注12)が、それまでの態度を豹変させて、こんどはマッキンリーの農民たちに向かってその生活を守ることの大切さを訴えるというのはどうしたことでしょうか(注13)?これでは、単なる憂さ晴らし、あるいは会社に対する復讐にすぎないように見えてしまうのではないでしょうか?
 スティーヴは、会社から送られてきた資料によって、ダスティンが配布した写真の問題点がわかり、これで契約の獲得がスムースに運べると小躍りしたくらいであり、にもかかわらず会社の自分に対するやり方を知った途端に簡単に環境保護派の方へ鞍替えしてしまうものなのか、どうもよくわかりません。
 まあ、その前から高校教師フランクとか契約を結ぼうとしない農民の話を聞いたりしていくうちに、次第にスティーヴは、会社のシェールガス採掘の方法に懐疑的になっていったというのかもしれません(注14)。
 ただそうだとしても、単なる素人考えに過ぎませんが、スティーヴとしては、この場合いきなり0か100かの選択をするのではなく(また、農民にそうした選択を求めるのではなく)、会社にとどまりつつ、一方で契約の獲得を推進するとともに、他方で、フラッキングの問題点の解消に務めること(注15)を会社の幹部に対して訴えていく道もありうるのではないかと思うのですが。

(4)渡まち子氏は、「シェールガス採掘の悪しき側面の描き方が中途半端に終わっているのがちょっと気になるが、緑豊かな農業地帯と、農民の生活を淡々と描写し、そこに米国の良心を映し出したかのような静かな映像には心惹かれる」として65点をつけています。
 山根貞男氏は、「近年は珍しくなったアメリカの伝統的なサラリーマン映画で、深い味わいがある」と述べています。
 相木悟氏は、「丁寧につくられた、高品質な社会派ヒューマンドラマではあるのだが…」と述べています。



(注1)本作は2012年に制作されています。
 監督は、『永遠の僕たち』や『ミルク』などを制作したガス・ヴァン・サント

(注2)マット・デイモンは好きな俳優だとはいえ、本作をも含め最近の『エリジウム』や『幸せへのキセキ』、『コンテイジョン』など、演技は優れているとしてもストーリーからはいつもイマイチの感じを受けてしまいます。
 なお、マット・デイモンは、本作の主演のみならず、製作・脚本にも加わっています。
 ちなみに、マット・デイモンが脚本に加わった作品としては、『グッド・ウィル・ハンティング』や『GERRY ジェリー』があります。

(注3)架空の町とされています。
 劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、ロケは全般に、西ペンシルバニアの農園地帯(ペンシルベニア州ワシントン郡のストレイト・リック・ロード)で行われ、町としてはペンシルベニア州ウェストモアランド郡エイボンモアが使われたとのこと。

(注4)ジョン・クラシンスキーは、本作の脚本をマット・デイモンと共に担当しています。
 最近では、『恋するベーカリー』で見ました。

(注5)ローズマリー・デウィットは、『私だけのハッピー・エンディング』で見ました。

(注6)スティーヴには、幼いころ暮らしていた町が、そこに置かれていたキャタピラーの工場が閉鎖されると廃墟になってしまった、という体験があります(「自分が大人だったら、金をもらって町を出ただろう」とフランクに語ります)。

(注7)農民に対してスティーヴは、「この町は死にかけている。金が入れば、家のローンも返済できるし教育資金も用意できる。プライドが何だ、今だって政府から補助を受けているではないか」などと話します(話した相手の農民には殴られてしまいますが)。

(注8)スティーヴは、マッキンリーの実力者リチャードと会った際に、「この町のシェールガスの評価額は3000万ドル」と言います(その後に、「あなたに提示できるのはその千分の一の3万ドルであり、それ以上望むのであれば僕たちは撤退する。ただし、再び戻ってきて、その際にはタダで全部もらうことになる」と付け加えるのですが)。
 ところが、その後の町の集会で、高校教師フランクは「この地の評価額は1億5千万ドルだ」とはっきり言い切ります(リチャードの苦虫を噛み潰したような顔が見ものです)。

(注9)契約締結数が他の社員よりも桁違いに多いこともあって、会社幹部のお覚えが大層めでたく、本作のはじめの方では部長昇進を告げられることになります。

(注10)スティーヴは、ダスティンから「お前は俺が動かしていた駒にすぎないのだ」と言われてしまいます。

(注11)その写真に写っているサイロのようなものが、写真が撮られた農場から見ることのできない別の地域の灯台であることがわかりますが(納屋のペンキが剥げているのも、フラッキングによってではなく、潮風によるもののようです)、スティーヴがそのことを明かす前に、ダスティンがその地名(ルイジアナ)を口走ったがために、スティーヴはダスティンの身分を知ることになります。

(注12)ただし、マッキンリーで自社のやり方に反対する高校教師フランクにはMITを出てボーイング社で研究員をしていた経歴があることを知ったグローバル社の幹部が、スティーヴに対し「君は交代させよう」と言うのですから(この時は、スティーヴが「フランクは趣味でやっているにすぎない」と言って強く反対したために立ち消えになりましたが)、スティーヴはある程度、会社が自分をどう見ているのかわかっていたものと思われます。

(注13)集会でスティーヴは、「祖父の納屋を思い出した。そこのペンキを塗った際に、「なんでこんな無駄なことをするのか」と訊いたら、祖父は物を大切にすることの大切さを教えてくれた」、「「足下に大金が眠っており、それを取り出そう」と言ってきたが、それは明らかに嘘だ」、「僕らはこれからどこに進むのか、今すべてが試されている、失うべきではない。僕らの納屋なんだ」などと喋ります。

(注14)でも、最後の集会までスティーヴは、そんな素振りは少しも見せていなかったように思います(マッキンリーの牧場にいる馬が小型なことは随分と気になっていたものの)。
 元々、スティーヴは、グローバル社に対して訴訟が提起されていることは知っていましたから(集会で訴訟のことを聞かれて「負けたことはない」と反論していますし、「採掘方法が不完全で汚い」と言うフランクに対し「ほぼ完全だ」とも答えています)、ダスティンとかフランクの話を聞いてはじめて環境問題に目覚めたわけではないはずです。

(注15)周辺の地下水に対する汚染を100%抑えこむというのではなく、一定の許容範囲内に留めるというのであれば、会社としても対応が可能なのではないかと想像されるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:プロミスト・ランド

クィーン・オブ・ベルサイユ

2014年08月29日 | 洋画(14年)
 『クィーン・オブ・ベルサイユ 大富豪の華麗なる転落』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)これは、アメリカで大評判を取ったドキュメンタリー作品ということで見に行きました。前回は休日に見に行ったところ満席だったので今回は平日にしたら、それでもほぼ満席状態でした。

 本作(注1)は、タイムシェア(共同所有)リゾートビジネスであてて一躍大富豪(注2)となったデヴィッド・シーゲルが、元ミセス・フロリダのジャッキーと結婚して(注3)、豪奢な生活を送っていたところでリーマン・ショック(2008年9月)に遭遇し、一転してシーガルの会社は巨額の負債(1200億円)を抱えるはめになり(注4)、二人の生活が激変するという次第を描いたものです。

 なかでも見ものは、「ベルサイユ」と名付けられた大邸宅。



 ジャッキーが、「昔はトイレが1つ寝室が3つという狭い家に住んでいたが、それに比べて今住んでいる家は2415㎡あり、トイレも17あるほど広い(注5)。にもかかわらず、物が入りきらないために、近くに新しい家を建築中だ」として、まだ完成していない家の中を案内するのですが、その規模たるや途轍もないものです。
 外観は、フランスのベルサイユ宮殿とラスベガスにあるパリス・ラスベガスを重ね合わせたもので、10のキッチン、15のベッドルーム、500人収容できる大舞踏場などが内部にあり、また外には観覧席のあるテニスコートとかフルサイズの野球場まで設けられるのです。
 全体で8361㎡、総工費100億円とされ、アメリカ最大の一戸建て住宅となるところでした(2006年に建設着手)。
 ですが、6割ほど完成したところで資金が途絶えて、建設が中断してしまいます。

 本作は、あるアメリカの大富豪とその妻が絶頂を迎えた途端に奈落に落ちる様を描いたドキュメンタリー作品で、その副題に「大富豪の華麗なる転落」とあるので、どんな転落ぶりが描き出されるのかなとミーハーとして興味津々だったところ、実際には、急降下したとはいえ主人公に収入がなかったわけではなく、むろん以前の豪勢な暮らしは無理としても、あいかわらず庶民とはかけ離れた生活ぶりを見せつけられるので、拍子抜けしてしまいました。

(2)確かに、シーゲルの会社では数千人の従業員を解雇し、所有する資産のかなりのものを売却し、19人いた家政婦を3人に減らしたりしているものの(注6)、あいかわらずこれまでどおりの豪邸暮らしを続けています。
 そればかりか、ジャッキーは、「節約」と称してリムジンをマクドナルドに横付けして、これからはナゲットも食べなくてはなどと言ったりします。
 さらには、シワ取りのためのボトックス注射を欠かしませんし、ウォルマートで買い物するといっても、同じようなものを無駄にいくつも買ってくる有り様。
 家が差し押さえられている高校時代の友人のティナに(低所得のため、車が買えず、クレジットカードも持てない)に5000ドル贈ったりもします(注7)。
 あるいは、ジャッキーは、「30万ドルの家に住むことになって寝室が4つになってしまっても、2段ベッドで寝ればいい」と言い放ちます。

 本作と比べるとしたら、ドキュメンタリー作品ではありませんが、最近では何と言っても『ブルージャスミン』でしょう(注8)。
 なにしろ同作は、主人公のジャスミンが、ニューヨークで豪勢な暮らしを送っていたところ、夫の事業の失敗によって無一文になってサンフランシスコで暮らす妹を頼るというものなのですから。そして本作と同様、無一文になってもなかなかそれまでの生活が忘れられずにいろいろな失敗を犯してしまうという点でも、類似するところがあります。
 でも、大きく異なる点は、同作においてジャスミンの夫は、詐欺容疑でFBIに逮捕されて自殺してしまうのですが、本作のジャッキーは、8人の子どもとともにしっかりと夫を捕まえて放さないでいるところでしょう(注9)!

(3)渡まち子氏は、「成金夫婦の転落を描いているのに、終わってみれば、なかなかいい家族ドラマを見たような気がしてしまった」として60点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「どこかがズレた感覚をふりまく合間に覗くジャッキーの金銭への執着とその反対の無頓着。これはアメリカンドリームの付属品?いずれにしても大きすぎるスケールがゴージャスで笑える」として★4つ(見逃せない)をつけています。
 島田映子氏は、「決して立ち止まらない飽くなき消費欲をご堪能下さい。ぜってー真似できないし、したいとも思わないけどさw」と述べています。



(注1)本作の監督は、ローレン・グリーンフィールド。彼女は監督インタビューにおいて、「この映画は、ベルサイユ建設計画についてのコメディとして始まりますが、デヴィッドとジャッキーが金融危機の圧力に対処していくにつれて、悲劇へと変化していきます。それは、家や夢を失うという現実に直面した、あらゆる社会経済レベルの家族たちと同じなのです」などと述べています。

 なお、本作の概要については、このサイトの記事が大層参考になると思います。

(注2)その純資産額は1800億円とされています。

 ところで、本作の劇場用パンフレット掲載の竹田圭吾氏のエッセイ『クィーンの悲喜劇、ニューリッチ王国の虚栄』によれば、アメリカにおける「格差の現実は凄まじ」く、「所得が最も多い上位1%の国民(スーパーリッチ)が占有する全体所得の割合」は「リーマン・ショック直前の07年には23・5%に達していた」とのこと。
 こうしたことが背景になって、アメリカでは、本作について「全米最大のレビューサイト・Rotten Tomatoesで94%という驚異の満足度を記録した」そうですし(この記事)、またフランスの経済学者トマ・ピケティが書いた『Capital in the Twenty-First Century』〔資本収益率(r)が経済成長率(g)よりも基本的に大きいことなどを主張:なお、このサイトの記事を参照してください〕がベストセラーになったのでしょう!
 ちなみに、メリカほど格差が開いていないとされる日本では、本書の翻訳本は本年末に刊行されるようですが(この記事)、果たしてその売れ行きはどうなるでしょうか?

(注3)2000年に31歳の年の差ながらも結婚(65歳と34歳で再婚者同士)。
 映画の撮影開始時(2007年)は、72歳と42歳ということでしょう。

(注4)上記「注1」で触れたサイトの記事によれば、タイムシェアの対象となるリゾートマンションの購入費用(年に1週間利用できる権利の購入)は2万5000ドル。購入者は申込時に約10%の手付金を支払い、残金は10年間の分割払いとなります。他方で、シーゲルの会社「ウェストゲート」は、約5%の利率で金融機関から融資を受け、それを購入者に18%の利率で貸し付けています〔このような高い金利にもかかわらず「ウォルマートのお客さん」(劇場用パンフレット掲載の町山智浩氏のエッセイ「アメリカン・ドリームの首領シーゲル」より)が借りたのは、利用権を転売したら価格の上昇によって返済できると見込まれたからでしょう〕。
 ただ、金融機関がウェストゲートに融資をしている間は、同社はその金利差だけの利益を獲得できますが、リーマン・ショックにより金融機関から同社が融資を受けられなくなると、収益があげられなくなるどころか資金自体がショートしてしまうでしょう。

(注5)フロリダ州オーランド近郊の湖に面する「シーガル・アイランド」という邸宅。
 上記「注1」で触れたサイトの記事によれば、新しい邸宅「ベルサイユ」は、「シーガル・アイランド」から8㎞離れたところに位置するとのこと。
 ちなみに、オーランドに新邸宅があるために、「その窓からデズニー・ワールドの花火が見える」とジャッキーは説明したのでしょう。

(注6)シーゲル夫妻には7人の子どもがいて、さらに一人養子としてもらっていますから、その面倒を見るだけでも何人かの家政婦は必要かもしれませんが。



(注7)後から、家は取り戻せなかったとの電話がティナからかかってきます。

(注8)本作の前半で描かれるシーゲル夫妻の豪奢な生活ぶりは、ニューリッチのド派手な暮らしぶりという点で、『華麗なるギャッツビー』とか『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で描かれているものと類似していますが(大邸宅、プライベートジェット、大型クルーザー!←上記「注2」で触れた竹田氏のエッセイに依ります)。

(注9)余りに金銭感覚が麻痺してしまっているジャッキーに対して、どうもデヴィッドは嫌気がさしているようです。
 仕事から帰って家に入ると、どこもかしこも電気が煌々と点いているのに怒り、「不要の電気を消せ」と言って自分の書斎に入ってしまい、食事もそこで取るようになってしまいます。ですが、ジャッキーは夫の言っていることが理解できずに、夫が怒っているのは家族の愛情の示し方が足りないせいだと考えて、自分が言うばかりか、子どもにまで夫に対して「愛している」と言うように求めます。これに対して、デヴィッドの方はうるさがり、「不要な電気は消せ」と繰り返すばかりです。



★★★☆☆☆



象のロケット:クィーン・オブ・ベルサイユ

友よ、さらばと言おう

2014年08月27日 | 洋画(14年)
 『友よ、さらばと言おう』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)これは、『クイーン・オブ・ベルサイユ』を見ようとして映画館に行ったものの、公開直後の休日のためか上映1時間前ですでに立ち見席のために諦めて、代わりの映画として見たものです。

 本作(注1)の舞台は、南フランスの港町トゥーロン
 以前は同僚刑事として親しくしていたシモンヴァンサン・ランドン)とフランクジル・ルルーシュ)ですが、シモンは大きな交通事故(注2)を引き起こして警察を懲戒免職になってしまいます。
 でも、フランクは、今では警備会社に勤務するシモンの面倒をいろいろ見ようとしているところ(注3)、離婚した妻アリスナディーン・ラバキー)のもとにいるシモンの息子のテオが、マフィアが人を殺している現場を目撃したために(注4)、マフィアにしつこく付け狙われることになります(注5)。
 そのことを知ったシモンはテオをマフィアの手から守ろうとし、フランクもそれに協力するのですが、果たしてうまく守りきれるのでしょうか、………?

 本命の代わりに見た作品ながら、そして随分と単純なストーリーのアクション映画とはいえ、アクションシーンにかなりのスピード感があって、まずまずの出来栄えの作品だなと思いました。加えて、主演のヴァンサン・ランドン(注6)の渋さが光る演技がよく、またジル・ルルーシュがヴァンサン・ランドンの親友役に扮するところ、これまた随分の活躍です。

(2)前半の山場は、テオがマフィアによる追跡を辛くも逃れ切るところでしょう。
 逃げる方は9歳の子どもですし、追う方は大の大人ですから、スグに捕まってもおかしくないとはいえ、そこは街をよく知るテオ。何とか逃げ切って警察に保護されます。
 ですが、事情を聴取しただけで、警察はそのままテオらを帰宅させてしまいます。
 すると、警察署の前で待ち構えていたマフィアの一味がテオを殺そうとするものの、様子を見ていたシモンがマフィアを倒し、その隙にテオは走って逃げます。



 その後を別のマフィアがオートバイで追跡し、さらにその後をシモンが追いかけます(注7)。
 最後にはフランクが駆けつけテオとシモンは助けだされるとはいえ、そこに至るアクションシーンはなかなか優れていると思いました。

 ここから、シモンとフランクは、守る一方よりも攻めるべきだとして、付け狙うマフィアを叩き潰そうとし(注8)、挙句はTGV内での必死の戦いとなって大いに盛り上がるのですが、それは見てのお楽しみ。

 シモンを演ずるヴァンサン・ランドンは、自分の犯した罪(交通事故で3人も死なせてしまった)の重さから逃れ切れずに毎日鬱々として過ごしていながらも、警備会社では本来の正義感が頭をもたげて新入りを虐める古参の警備員を懲らしめたり、息子テオを救い出すために超人的な活躍をしたりという、なかなか難しい役を説得力ある演技でこなしています。



 また、ジル・ルルーシュが、前作の『この愛のために撃て』における逃げまわる役と正反対の追っかける役(注9)においても本領を発揮していることを付け加えておきましょう。



(3)渡まち子氏は、「強い絆で結ばれた男たちが、愛するものを守るために命がけで戦うフレンチ・ノワール「友よ、さらばと言おう」。いぶし銀の魅力とはこういう映画のことだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「これから作っていたらこの監督もここまでの高評価は得なかったであろう。あくまでこれまでの成功があるからこその、新たな引き出しの披露。フレッド・カヴァイエ監督、ハリウッド進出への期待が高まる一作といえる」として60点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「かつての仏製暗黒映画にあったハートに原題の高速アクションを加えて見る者の心をつかんで離さない」として★3つ(見ごたえあり)をつけています。


(注1)原題は「Mea Culpa」(この記事によれば、ラテン語で「わが罪」の意味)。監督・脚本は、『すべて彼女のために』や『この愛のために撃て』のフレッド・カヴァイエ

(注2)シモンが運転しフランクが同乗する車が、交差点で乗用車の側面に衝突、その車に乗っていた家族が死んでしまいます。被害者の中には3歳の幼児が含まれていたことや、シモンがアルコールをかなり飲んでいたことなどから、その責任が大きく問われ、彼は懲戒免職になるだけでなく6年間刑務所に入っていました。
 ただ、この事故にはなにか裏があるようです〔補注〕。

(注3)フランクは自分に娘マノンがいるにもかかわらず、シモンの元妻のアリスのところで暮らすテオの面倒を見ています(マノンはパリの姉に世話してもらっています←フランクも一人暮らしのようです)。
 テオが、算数の勉強をしている最中に、「パパは刑務所にいたの?」とか「死んだ親子のことを知っている?」などと尋ねるので、フランクは「パパは悪くない。自分が悪くなくとも刑務所に行くことはある」などと答えます。

(注4)テオは、アリスが今付き合っている男ジャン・マルクと一緒に闘牛場に行きますが(「フランスで闘牛?」と思ったところ、例えばこのサイトの記事を見るとフランスでも盛んなようです)、一人でトイレに行ったところでマフィアの殺人現場を目撃するはめになります。

 なお、アリスは、ジャン・マルクが闘牛に興奮するのを冷ややかに見ていて、「子供向けじゃない」などと言ったりします。この二人はあまりうまくいっていないようです(テオたちがマフィアの追跡を逃れてフランクの家に集まった時に、アリスはそばにいたジャン・マルクに、「もう帰って、電話もしないで」と言い放ちます)。
 とはいえ、前の夫のシモンとも、子どもの柔道の試合だから早目に見に来てと言っていたにもかかわらず仕事で遅れてしまい試合後に会場に現れるたりするので、うまく行きません(毎週シモンはテオと会うことになっているのですが)。

(注5)トゥーロでは麻薬がらみで殺人事件が何件か起きていて(当然、マフィアが絡んでいるのでしょう)、フランクはその捜査に従事しています。

(注6)ヴァンサン・ランドンは『すべて彼女のために』で見ました。

(注7)シモンがマフィアと戦うさまを見て、あとでテオがシモンに、「柔道やったことがあるの?」と尋ねると、シモンは「昔だけどな」と答えます。
 柔道を習っているテオは、父親シモンを誇らしく思うようになるでしょう。

(注8)シモンは、マフィアの一味が集結する場所(ホワイト・ノッドというクラブ)に独りで乗り込もうとしますが(勤務する警備会社から沢山の拳銃を盗みだして←フランスでは、警備会社が銃を沢山所有しているようです!)、フランクが「一人では行かせない、俺も行く。昔みたいに組もう」と言うと、シモンは「なぜそこまで親身になってくれるのか?今回は独りで行く」と答えます。これに対してフランクは、シモンに拳銃を向けて「逮捕する、一人じゃ無理だ」と言い放ち、とうとう二人でクラブに乗り込むことになります。

(注9)パリにいるフランクの姉のところでテオを匿おうと、シモンとアリスとテオはTGVに乗って南仏からパリに向かいますが(でも、パリに逃げたくらいでおそろしいマフィアの手から逃げ切れるものだろうか、と思いますが)、なんとそのことを察知したマフィアの一味もまた同じTGVに乗り込んだことがわかり、安心していたフランクもまた必死になってTGVの後を追いかけるのです。


〔補注〕(重大なネタバレですのでご注意を)
 劇場用パンフレットに掲載の「監督インタビュー」では、フレッド・カヴァイエ監督が、「交通事故を起こした時、フランクはシモンが死んだと思う。だからシモンを替え玉にすることを考えつくわけです。もし自分が捕まってしまったら娘がひとりきりになってしまう。それはどうしても耐えがたくて、娘のためにシモンを裏切ってしまった」とあからさまに述べています。
 ただ、フランクが娘へのプレゼントを取りに警察署に戻った時、助手席にいたシモンは反応しているのですから、そこまでの記憶はあるのではないでしょうか(そんな自分が、わざわざ助手席から運転席に移動して運転をしたというのはおかしいとシモンは思うのではないでしょうか)?
 また、フランクは単なる素人ではなくベテランの刑事なのですから、いくら事故直後の混乱のさなかにあるとはいえ、シモンが意識不明状態にあるのか既に死んでいるのかにつき冷静に判断できるのではないでしょうか?
 ちなみに、このインタビュー記事によれば、原題「Mea Culpa」(わが罪)は、シモンが抱える罪の意識とともにフランクが抱えるそれをも表しているとのこと。



★★★☆☆☆




ジゴロ・イン・ニューヨーク

2014年08月13日 | 洋画(14年)
 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』を新宿武蔵野館で見てきました。

(1)監督として大活躍するウディ・アレンが映画出演するというので、遅まきながらも行ってきました。

 本作(注1)の舞台はニューヨークのブルックリン。
 本作の主人公は、花屋でアルバイトをしているフィオラヴァンテジョン・タトゥーロ)と本屋のマレーウディ・アレン)の二人組。

 ですがマレーは、閑古鳥が鳴いている本屋を閉店することに。
 鞄に本を詰めながら、マレーは、「この書店は、祖父が始め、父が引き継ぎながら、俺がたたむことに」とか、「本当に世も末。希少な本を求める人が減ってしまった」などと、フィオラヴァンテに愚痴ったりしています。

 その際、マレーはフィオラヴァンテに対し、「女医のパーカーシャロン・ストーン)から、「二人のレズの間に男を入れたいが誰かいないか」と訊かれたから、「一人いるが1,000ドルかかる」と答えた」と話し、「その一人というのは君だよ」と付け加えます。
 フィオラヴァンテが「なぜ俺が女医を愉しませることに?」と訊くと、マレーは「君は定職に就いていないから」と答えますが、フィオラヴァンテは「長年の友人だろ」と応じます。

 パーカー女医からは、「金は支払うけど、まずはお試しということで。ただし、エイズは嫌よ。淋病も」と催促の電話がマレーの元に。



 これに対して、マレーは「バッチリだ。彼はプロだ」と答えますが、フィオラヴァンテは、「ジョージ・クルーニーの方が条件に合う」とか、「俺はもう若くはない」、「親友を男娼にするのか」と言って尻込みします。
 でも、マレーは「君はモテたよね。君のとりえはセックス・アピールだ。取り分は60対40で、君が60だ」と強引に話を進めてしまいます。

 実際にはこれが図に当たり、二人は「ヴァージル&ボンゴ」というコンビ名を名乗って商売に精を出します。
 特に、フィオラヴァンテは、花屋でのアルバイトの経験を活かして花束を持って行くなど、処世に対する繊細な心遣いにあふれています。



 とはいえ、この先どうなることでしょう、………?

 話としては、ウディ・アレン扮するポン引きが、友人(ジョン・タトゥーロ)をジゴロとして売り出すという実に他愛ないもので、物静かなジョン・タトゥーロとお喋りのウディ・アレンとの対比が面白く最後まで惹きつけられるものの、ユダヤ人特有の話が随分と入り込んできて、そうした事情に疎いこともあり、余り乗りきれませんでした(注2)。

(2)マレーとフィオラヴァンテのジゴロ稼業は、フィオラヴァンテが未亡人のアヴィガルヴァネッサ・バラディ)に恋心を抱くあたりから変調をきたしてきます。
 アヴィガルは、ユダヤ教の正統派のハシディック派(注3)に属していて、酷く禁欲的な生活を送っています(注4)。そこにマレーが入り込んで、フィオラヴァンテのセラピーを受けさせることになるものの、フィオラヴァンテはアヴィガルの優しさに心を惹かれてしまうのです。



 でも、彼らの行動を地域パトロールのドヴィリーヴ・シュレイバー)が見張っていて(注5)、ついにマレーはラビ審議会に連れて行かれ、被告として裁かれることに(注6)。

 まあこうしたものは単なるエピソードと受け取れば構わないのでしょうが、その経緯や実情をよく知らない者にとっては、カルト教団内部でのリンチ(杓子定規に言えば国家内国家でしょうか)のような感じがしてしまい、どうも映画の中にうまく入り込めませんでした(注7)。

(3)森直人氏は、「本作は一風変わったバディームービーと呼べるかもしれない。一見冴えない中年男と愉快な老人がコンビを組んで、男娼ビジネスを始めるという設定がまずユニークだ。そして主人公よりも相棒の存在感が派手なところに、作品としての面白さと微妙さが入り交じっている」と述べています。
 宿輪純一氏は、「監督・主演のジョン・タトゥーロが、かすむ、ウディ・アレン色の強い、得意のロマンティックコメディとなっている」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本は主演のジョン・タトゥーロ。原題は「Fading Gigolo」。

(注2)最近では、ジョン・タトゥーロは『トラブル・イン・ハリウッド』(ブルースのエージェントのディック役)で、ウディ・アレンは『ローマでアモーレ』で、それぞれ見ています。

(注3)例えば、このサイトの記事とかこのサイトの記事を参照。

(注4)亡くなったアヴィガルの夫がラビだったこともあり、その死後ずっと喪に服してきたわけです。なにしろ、住んでいる街の外へ出るのは夫の墓参りに行く時ぐらいというのですから!

(注5)ドヴィは、アヴィガルの幼馴染でもあり、彼女にズッと恋心を抱いてもいるようです。

(注6)マレーは、「ユダヤ人としての誇りは?」と尋ねられたり、ポン引きの罪で有罪になると石打の刑だなどと言われたりするのですが、アヴィガルがその審議会に現れ、「私の罪は、慎みを忘れたこと、男性と二人きりになって髪を見せ(かつらを脱いで地毛を見せたこと)、体を触らせたこと」などと証言したことで、マレーは放免されたようです(アヴィガルが「その後で泣きました」と付け加えたことに対し、裁判官のラビが「恥じて?」と問うと、彼女は「いいえ、寂しくて」と答えます)。

(注7)さらに言えばは、ラストのシーンでマレーは、カフェで見つけたフランス人女性を加えた新しい3人組について「This could definitely be the beginning of a very beautiful relationship between the three of us.」(imdb)と言いますが(加えて、フィオラヴァンテに対し「ところで、君はいつ街を出るんだっけ?」との嫌味も)、この台詞の元ネタは、このサイトの記事によれば、映画『カサブランカ』のラストの台詞“This is a beginning of beautiful relationship!”」とのこと。こんな深い映画知識があれば、本作に対する興味がズッと増すことでしょう!
 
 ちなみに、Wikipediaの「カサブランカ」の項によれば、リック(ハンフリー・ボガード)がルノー署長(クロード・レインズ)に言うこの台詞は、アメリカ映画協会 (AFI)選定の 「アメリカ映画の名セリフベスト100」(2005年)の第20位にランクされているとのこと。
 また、ウディ・アレン脚本・主演の『ボギー!俺も男だ』(1972年)は、『カサブランカ』のパロディとなっているそうです(未見ですが、『ボギー!俺も男だ』でもリックの台詞は出てきて、このサイトの記事によれば、「くされ縁の始まりだな」と訳されているそうです)。
 ただ、あまりこんな脱線をしていると、本作がまるでウディ・アレンの監督・脚本によるものと誤解されてしまうかもしれません!



★★★☆☆☆



象のロケット:ジゴロ・イン・ニューヨーク

複製された男

2014年08月11日 | 洋画(14年)
 『複製された男』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)『プリズナーズ』に出演したジェイク・ギレンホールの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はカナダのトロント。
 主人公・アダムジェイク・ギレンホール)は、大学で古代ローマ帝国の歴史を教えている講師。



 「独裁のやり方としては、教育の制限という方法もある」などと述べた講義が終り、高層マンションにある自宅に戻ると、恋人のメアリーメラニー・ロラン)が待っていて、二人は愛し合います。



 こうした生活が判で押したように毎日繰り返され、アダムは疲れていて欝気味の感じ。

 そんな時に同僚が、『道は開かれる』というカナダの映画がなかなか良いと勧めます。
 レンタル店から同作のDVDを借りてきたアダムは、テストの採点の合間に見てみます。
 見終わった彼は、既にベッドで横になっているメアリーとセックスをしようとしますが、拒絶されてしまい、彼女は「明日電話する」と言って出ていってしまいます。
 仕方なく一人でベッドに潜り込んで寝ていたアダムは、突然目覚めて起きだし、さっきのDVDをもう一度見直してみます。
 すると、その映画でホテルのフロントが映し出されているところ、なんと自分と瓜二つの男がホテルのボーイ役で出演しているではありませんか!

 アダムは、大学で「ヘーゲルは、世界史的に重要なことは2度現れると言い、マルクスは、1回目は悲劇で2回目は喜劇だと言った」(注2)などと述べた後、自宅に戻っていろいろ調べます。
 すぐに、映画でボーイ役をしたのがダニエル・セレンクレアという俳優だとわかり、彼が出演している作品のDVDも借りてきて見てみます。
 ついには男の住所を突き止め、本名がアンソニー(ジェイク・ギレンホールの二役)で、その妻がヘレンサラ・ガドン)で妊娠していることも判明します。
 でも、一体どうしてこんなことが、その真相は、………?

 本作は、自分とマッタク同じ人間(顔形のみならず、声とか胸部の傷跡まで!)が同じ都市にもう一人いることがわかった男を描いた作品で、もう一人の男の正体を暴くプロセスにサスペンス性があり、主演のギレンホールの演技もなかなか見事で、まずまずの仕上がりではないかと思いました(注3)。

(2)とはいえ、こうした話はあちこちに散らばってはいるようです。
 例えば、芥川龍之介が『二つの手紙』で取り扱った「ドッペルゲンゲル」。
 ただ、この場合には、本人が自分と妻の姿を3度にわたって距離をおいて見たということだけであり、本作のようにもう一人の人間と直に対決するまでに至っていません(注4)。

 また、アダムとアンソニーが一卵性双生児だという可能性も考えられるでしょう。
 ただ、本作の場合には、母親のキャロラインイザベラ・ロッセリーニ)が「あなたは一人っ子だからそんなことはありえない」と即座に否定します(注5)。

 さらには、『ルームメイト』で描かれた多重人格(解離性同一性障害)の一種と見ることができるかもしれません。

 でも、こうした詮索は、本作の公式サイトの「一度で見抜けるか―袋とじネタバレ投稿レビュー」の冒頭で、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督やジェイク・ギレンホールが既にかなり種明かしをしてしまっていますから、あまり意味があるとは思えません(注6)。

 むろん、そうした制作者側の見解に観客側が縛られる必要もなく、逆に開き直って、あまりにも沢山の人が暮らす大都市にあっては、瓜二つの人間が存在することもありうるのだ、そんなことが一つくらいあってもおかしくない、とそのまま受け止めてみたら返って面白いかもしれません(注7)。

 なお、本作では、最初の方と最後の方に、クマネズミが興味を持っている「鍵」が登場しますが(注8)、今回の鍵はそんなに謎めいた小物ではありませんでした(注9)。

(3)渡まち子氏は、「自分にそっくりな男と出会った男性が体験する悪夢のような出来事を描く異色のミステリー「複製された男」。現実と妄想世界が混濁するストーリーの答は、一つではなさそうだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、全体的に不穏な色彩の映像によってなにが起きるかわからない、先読み困難なサスペンスを作り上げた」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「観ている間は、「?」の蓄積に脳はフル回転。観終わった直後に、ついもう一回観直したくなることうけあいの魅惑の一本であった」と述べています。



(注1)本作の原作はポルトガルのジョゼ・サラマーゴが2002年に発表した『複製された男』(原題O Homem Duplicado、英題The Double:未読)、また本作の原題は「ENEMY」、監督はカナダ出身のトゥニ・ヴィルヌーヴ(『灼熱の魂』や『プリズナーズ』)。

(注2)カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメール18日』の第1章の冒頭に基づいています。

(注3)最近では、ジェイク・ギレンホールは『プリズナーズ』、メラニー・ロランは『グランド・イリュージョン』でそれぞれ見ています。

(注4)尤も、黒沢清監督の『ドッペルゲンガー』(2002年)では、自分自身のドッペルゲンガーを助手と一緒に撲殺するシーンが描かれますが。

(注5)また、アダムとアンソニーの胸に同一の傷があるのですが、一卵性双生児だとしても、ありえないことでしょう(クーロン人間であることも否定されるでしょう)。

(注6)鑑賞者の投稿を掲載するのは構わないとしても、監督や主役の見解を公式サイトにわざわざ掲載する必要があるのでしょうか(袋とじとはいえ)?
 なお、劇場用パンフレットに掲載の小林真理氏のエッセイ「『複製された男』を読み解くための手引書」の「2.Enemy」においても、「アダムとアンソニーは同一人物だと考えることもできる」云々とかなりの種明かしがされてしまっています。
 といっても、明かされる謎は常識的であり、そんなに大したものではないのかもしれませんが。

(注7)劇場用パンフレットの「Introduction」で「ただし解答はひとつとは限らない」と言うのであれば、一つの解釈では収まらないような矛盾するシーンをいくつか用意する必要があるのではないでしょうか?
 例えば、意味ありげな「ブルーベリー」について、本作のように、アンソニーが妻のヘレンに「買っておいてくれ」と言うのではなく、アダムがメアリーに頼むこととし、アンソニーの家の冷蔵庫でそれを見つけるというようにしたらどうでしょう?尤も、本作においては、アダムは母親に「ブルーベリーは嫌い」と言いますし、メアリーは単なる愛人ですからそれを冷蔵庫に買い置くというのもおかしいのですが。

(注8)拙ブログでは、これまで、『愛、アムール』についての拙エントリの(3)とか、『鍵泥棒のメソッド』についての拙エントリの(2)、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』についての拙エントリの(2)、『ヒューゴの不思議な発明』についての拙エントリの(4)、そして『サラの鍵』についての拙エントリの(2)などでいろいろ触れてきました。

(注9)単に、マンションのドアの入口の鍵に過ぎませんから。とはいえ、その鍵がないと入れないセックス・クラブで実際に何が行われているのか、冒頭のシーンではごく簡単に映し出されるにすぎませんから、興味深い点ではあるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:複製された男

GODZILLA

2014年08月04日 | 洋画(14年)
 『GODZILLA ゴジラ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました(3D日本語吹替版)。

(1)怪獣映画ファンでもないのでパスしようと思っていたものの、余りにPRが凄いものですから(注1)、それならと映画館に出かけてみた次第です。

 本作のはじめの方では、1999年、研究機関モナーク(注2)に所属するヘリコプターが、フィリピンにあるユニヴァーサル・ウェスタン鉱山に到着し、中から芹沢猪四郎博士(渡辺謙)と助手のヴィヴィアン博士(サリー・ホーキンス)が出てきます。
 現地の所長は、「ひどい有様で、谷底がその下の洞窟まで抜け落ちた」などと説明します。
 芹沢博士らが現場の穴に降り立つと、巨大生物の骨があり、天井からは繭のようなものがぶら下がっています。



 そして、そこから何ものかが海の方へ向かったような跡も。

 場面は変わって同じ時期の日本。
 原子力発電所に勤務するジョーブライアン・クランストン)は、その日が誕生日で息子のフォードが何か準備をしているようなのですが、異常な振動をキャッチしたので、妻のサンドラジュリエット・ビノシュ)らを、原子炉の確認に向かわせます。
 そのとき突然激しい揺れがきて、原子炉が大層危険な状態に陥ります。
 サンドラがまだ調査から戻っていないにもかかわらず、そのままでは近辺の町全体が危なくなるとして、早く防護扉を閉めろとの指令が飛びます。
 中にいるサンドラからは、「扉を閉めて!フォードを頼んだわよ、父親として守って!」とジョーに連絡が。
 ジョーは、防護壁の窓越しにサンドラの顔を見るものの、断腸の思いで防護壁を閉めざるを得ませんでした。
 幼いフォードも、通っていた学校の窓から原子炉が崩壊する様を見ています。

 そして、15年後のサンフランシスコ。
 海軍将校のフォードアーロン・テイラー=ジョンソン)が、14ヶ月の勤務(注3)から家に戻ってくると、領事館から、フォードの父親のジョーが日本で逮捕されたとの連絡が。
 フォードは、「いつもの陰謀説を信じて、退避区域に入り込んでしまったのかも。ほんの2,3日のことだから待っていてくれ」と妻のエルエリザベス・オルセン)に言い残して東京に向かいます。



 ジョーは、妻が亡くなった原子力発電所には何か秘密が隠されていると長年探っています。
 今回も、息子のフォードが米国からやってきて釈放されると、あの時と同じ振動が再び起こっているとして、今度はフォードを連れて立入禁止区域に入り込みます。
 彼らはまた捕まってしまいますが、連れて行かれたのはモナークの研究施設。
 そして、そこで彼らが見たものは、………?

 予告編とかその役名(芹沢)からして、渡辺謙がかなり活躍するのかなと期待していましたが、実際には事態の推移を驚きの目を持って見守るにすぎず、主役の米国海軍将校が大した働きをするわけではないにもかかわらず出ずっぱりであり、またタイトルからゴジラだけが登場すると思い込んでいたところ、他の二体の怪獣が出てきてそちらの暴れ方がすごく、総じてなんとなく肩透かしを食らった感じです(注4)。

(2)渡辺謙が扮する芹沢猪四郎の名は、本作のオリジナル版である『ゴジラ』(1954年)に登場する芹沢大助と、同作を制作した本多猪四郎監督から来ているようですが、同作において芹沢大助は、自分が作ったオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを倒すという活躍をしているのですから、本作でも渡辺謙による何がしかの活躍が見られるものと思っていました。
 ですが、本作における芹沢博士の役割は、ゴジラやムートー(注5)の行動を見守ることだけ。



 これだと、むしろ『ゴジラ』(1954年)における古生物学者・山根恭平博士(志村喬)に該当するように思われます(注6)。

 元々本作には、『ゴジラ』(1954年)における芹沢大助のような英雄は誰も登場しません(注7)。
 芹沢博士のみならず、人間は結局、3体の怪獣に対してなすすべがないのです。

 それどころか、芹沢博士は、共同作戦司令部の指揮官であるウィリアム提督(デヴィッド・ストラザーン)らが、核爆弾を使って3体の怪獣を一挙に爆破しようとする作戦をたてると、「やめていただけないか。ゴジラが答えではないか。自然は調和を保とうとするのだ」としてその作戦に反対します。
 要するに、宇田川幸洋氏が言うように、本作でゴジラは、「悪の破壊獣ムートーに対し、生態系のバランスをまもろうとする、地球の守護神という位置づけ」にあるようです(注8)。
 それで、提督が、「あなたの信じるゴジラは、2体のムートーに勝てるんですか?」と尋ねると、芹沢博士は「信じるほかない」と答えます(まるで人類とゴジラとは運命共同体を形成しているかのようです)。

 でも、「第二次世界大戦を皮切りに世界各地で核開発・実験が相次ぐようになったために地表の放射能濃度が上昇」(注9)というアンバランスな事態を地球にもたらした張本人はまずもって人類であり、そのことによって3体の怪獣が地表面に現れたのではないでしょうか?
 「悪の破壊獣」とされるムートーは、人類からすれば「悪」にしても、1954年のゴジラと同様に、もしかしたら「生態系のバランス」を保つために地表に出現した怪獣であり、人類の持つ核施設や核兵器を破壊しようとしているとは考えられないでしょうか(注10)?
 なにしろ、ムートーは、「放射能をエネルギー源」とし「放射能を求める」怪獣なのですから!
 それに、宇田川氏が「地球の守護神」と言うゴジラ(注11)は、「体内に放射能を充満」させているために、確かにムートーと「戦いが宿命づけられていた」のかもしれません(注12)。とはいえ、本来的には、ムートーがゴジラを襲うにしても、ゴジラの方からムートーに対して戦いを挑むというようなものではないのではないでしょうか(注13)?

 いずれにしても、人類が無制約的に核開発を続けていけば、再度ムートー(それにゴジラも)が地表に出現することは十分に考えられるところです!

 と言っても、そんなくだくだしいことはどうでもいいのであって、ゴジラと2体のムートーとの戦いぶりや、サンフランシスコの壊滅的な状況などを映像で見て愉しめばいいのではないかと思います。

(3)渡まち子氏は、「オリジナルへの敬意も十分に感じられる作りの本作では、ギャレス・エドワーズ監督がこれほどきちんとした「21世紀版ゴジラ」を作ってくれたのが、最大の嬉しい驚きだった」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「現実が54年版ゴジラの危惧そのものとなってしまった現在、過去と同レベルの主張しかできないところに本作最大のがっかり感がある」などとして55点をつけています。
 相木悟氏は、「まさに夏休みの娯楽!色々と口を挟みたいこともあるが、ひとまず最強に面白い怪獣映画であった」と述べています。



(注1)公共放送のNHKまでも一映画作品のPRに参加している感じです!
 とはいえ、その企画の中で『ゴジラ』(1954年)を見たのですが。

(注2)この情報によれば、モナーク(Monarch)は、まずはゴジラを研究するために1946年に設立された機関であり、その後、1999年に発見されたムートー(下記「注5」)の研究も行っています。

(注3)海軍では爆弾処理の仕事に就いています。

(注4)最近では、アーロン・テイラー=ジョンソンは『キック・アス』、渡辺謙は『許されざる者』、ジュリエット・ビノシュは『陰謀の代償』、サリー・ホーキンスは『ブルージャスミン』で、それぞれ見ています。

(注5)Massive Unidentified Terrestrial Organism(未確認巨大陸生生命体)。
 といって、UFOのようにその実態がなんだかわからないわけではないように思えるのですが。

(注6)何しろ、本作における芹沢博士と同じように、「東京へ戻った山根はその巨大生物を大戸島の伝説に従って「ゴジラ」と呼称」し、さらには、「政府は特別災害対策本部を設置し、山根にゴジラ抹殺の方法を尋ねるが、博士は古生物学者の立場から、水爆の洗礼を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理とし、その生命力の研究こそ急務と主張」するのですから(Wikipediaのこの項によります)。

(注7)『ゴジラ』(1954年)の主役は南海サルベージの尾形(宝田明)ですが、そして彼は芹沢大助を説得したり、一緒に海に潜ったりするものの、あくまで仲介役にすぎません。
 ですが芹沢大助は、オキシジェン・デストロイヤーを発明しただけでなく、海にそれを持って入り作動させてゴジラを倒し、さらにはオキシジェン・デストロイヤーの悪用を阻むべく自らの命を絶つのです。
 これに対して、本作の主役のフォードは様々の現場に立ち会っていますが、3体の怪獣の排除にあたっては、他の人間と同様に、積極的な役割を果たしていません(最後に、核爆弾がサンフランシスコの中心部で爆発するのを回避するには一定の役割を果たしたとはいえ)。

 なお、本作のラストで、“King of Monsters Saved the City!”とマスコミに持ち上げられるゴジラが英雄なのかもしれませんが、ゴジラとしては、単に「宿命」の相手を打ち破っただけのことではないでしょうか?

(注8)本エントリの(3)で触れる渡まち子氏も、「聖獣ゴジラが、原爆・水爆から原発事故まで、延々と罪深い過ちを繰り返す人類を、それでもなお救おうとする姿」と述べています。

(注9)劇場用パンフレットに掲載の「ストーリー」より。
 ただ、この場合の「放射能濃度」とは何を意味するのでしょうか(放射線量が高いことなのでしょうか)?

(注10)こういうことが、本エントリの(3)で触れる前田有一氏が「日本版一作目「ゴジラ」(54年)の「そのうち行き過ぎた科学技術によりしっぺ返しを食らうぞ」とのメッセージはまぎれもなく先見性があるものであったが、それをハリウッドが二度目の実写化でようやく言及」と述べていたり、読売新聞編集委員・福永聖二氏が「自然をコントロールできると錯覚していた人間の傲慢さに警鐘を鳴らすメッセージが底流に織り込まれ、第1作が持っていた社会派的側面も引き継いでいる」と言ったりしていることの背景をなすのではないでしょうか?

 なお、「8時15分」で止まった父の遺品の時計を見せる芹沢博士は、「ゴジラを信じる」と言うのであれば、あるいは同時にムートーも信じるべきなのかもしれません。なにしろ、ムートーは核弾頭を食べてしまうのですから。

(注11)本エントリの(3)で触れる相木悟氏は、「ゴジラを、バランスをもたらす神=救世主として勝手に解釈して敬う、新しいシチュエーション」と述べています。

(注12)ここらあたりの引用は、劇場用パンフレットに掲載の「ストーリー」より。
 ただ、そこで使われている「放射能」とは何を意味しているのでしょうか(「放射性物質」のことなのでしょうか)?

(注13)ムートーの方はゴジラの体内にある放射能を欲するにしても、ゴジラはそういう欲求を持っていないでしょうから。
 なお、ゴジラはムートーを倒す際に大量の青い炎を浴びせかけましたから、体内に蓄えていた放射能をかなり消費してしまったはずです。でも、次に出現するであろうムートーと対決するには、一体どのように準備したらいいのでしょうか(再び水爆実験を繰り返さなくてはならないのでしょうか)?



★★★☆☆☆



象のロケット:GODZILLA

ノア 約束の舟

2014年07月28日 | 洋画(14年)
 『ノア 約束の舟』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て興味を持ったので映画館に行ってみました。

 本作(注1)のはじめの方では、アダムからノアまでの系譜が辿られた後(注2)、成人したノアに対して父のレメクが「アダムの子孫のお前が仕事を引き継ぐのだ」と言って蛇の皮を手渡そうとしているところに、トバル・カインレイ・ウィンストン)率いるカインの末裔の集団が襲いかかります(注3)。
 ノアは岩陰に隠れて助かりますが、父のレメクは殺されてしまいます(蛇の皮はトバル・カインに奪われます)。

 場面は変わって、ノアラッセル・クロウ)は家族と暮らしています。
 天幕の家に妻のナーマジェニファー・コネリー)と三男のヤフェトレオ・キャロル)がいて、ノアは長男のセムダグラス・ブース)と次男のハムローガン・ラーマン)を外に連れ出して様々なことを教えます。
 そんな時に、ノアは、夢を見ます。
 先ずはエデンの園の様子。
 次いで、ノアが家の外に出てみると、地面が血でぬかるんでいて、雫が垂れると花が咲いたりしますが、突然、大洪水に襲われて水中に。ノアの周りじゅうは死体だらけ。
 驚いてノアは飛び起き星空を眺めます。
 妻が「神のお告げ?」と尋ねると、ノアは「そう思う」と答え、さらにナーマが「お救いくださるの?」と訊くと、ノアは「神は世を滅ぼす」と応じます。



 神のお告げの真意を聞き出すために、ノアの一家は、赤い山に住む祖父のメトシェラアンソニー・ホプキンス)に会いに出かけます。
 途中で、廃墟となった村のガレキの中に、女の子・イラエマ・ワトソン)が瀕死の重傷で倒れているのを見かけます(注4)。
 その時、その村を襲ったカインの末裔たちが戻ってきたので、ノアたちはイラも連れて逃げます。

 そこに番人(ウォッチャー)と呼ばれる堕天使が現れ(注5)、彼らをメトシェラに案内してくれます。
 さあ、ノアとメトシェラとはどんな話をするのでしょうか(注6)、いったい「ノアの箱舟」とはどんなものなのでしょうか(注7)、そして………?

 本作は、旧約聖書の創世記にあるノアの箱舟の話を実写化したもので、巨大な箱舟とか、それに乗り込む沢山のつがいの動物たち、さらには大洪水の光景といったものが大層うまく映像化されて、中々の迫力です。とはいえ、よりリアルな人間的な話にしようとノアの家族の構成を創世記とかなり異なるものにした点などは、逆にそれほど説得力を持たないようにも思いました(注8)。

(2)皆さんが指摘していることながら、念の為に述べておきます。
 旧約聖書の創世記では、ノアは500歳になって、3人の息子を生み(5章32節)、また神の啓示を受け(6章13節)、洪水が起きた時は600歳だったとされています(7章6節)。
 こうしたノアの年齢にどこだわる必要性は乏しいとはいえ(注9)、少なくともその家族構成については、創世記と本作とでは随分と違っています。
 すなわち、創世記においては、「ノアと、ノアの子セム、ハム、ヤフェトと、ノアの妻と、その子らの三人の妻とは共に箱舟にはいった」(7章13節)とされているのに対し(全部で8人になります)、本作では、ノア、ノアの妻ナーマ、セム、セムの妻イラ、ハム、ヤフェトの6人に過ぎません。
 さらに、創世記では、「神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(9章1節)と述べられているところ、本作では、ノアは「人類は終わるのだ。セムとイラはナームと私を埋葬し、ハムがセムとイラを、ヤフェトがハムを埋葬する。ヤフェトが最後の人間となる。そして、ヤフェトも塵となるだろう。こうしてパラダイスがやってくるが、そこには人間はいない」と言うのです(注10)。
 これでは、創世記が述べていることとは随分と違ってきてしまいます。
 本作のノアは、この世の穢れの原因はすべて人間にあり、彼らがいなくなりさえすれば、この世は元のパラダイスに戻るだろうという究極のエコロジー哲学を展開しているようです(注11)。
 これに対して、創世記では、8人のノアの一族からその後の人間たちが生まれ出たとされていて〔「この三人(セム、ハム、ヤフェト)はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである」9章18節〕、神はそれを祝福しているのです。

 もちろん、本作においても、実際には、ノアは自分の言ったことを実行せずに、結局は創世記と同じような事態がもたらされます(注12)。
 だとしたら、どうして創世記の設定をわざわざ変えてしまったのでしょうか?

 とはいえ、創世記のとおりに映画化したのでは、随分と盛り上がりに欠けた平板な作品になってしまったかもしれません。ハムの設定を変えることによって、この話が随分と人間的でドラマティックなものとなりましたが、それと同時に、創世記に描かれた神話という性格がかなり失われてしまったのでは、と思っています。

(3)渡まち子氏は、「聖書的解釈はさておき、一滴の水からみるみる花が芽生え、森ができ、川が大地を潤す奇跡の映像美と、大洪水のスペクタクルの迫力には間違いなく圧倒される」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「「ノア 約束の舟」はどんな映画かというと、この監督らしい突き放したクールな視点による、ノアの大洪水伝説の新解釈、である。パニックやアクションなど娯楽要素もかなり強い。いや、厳密には新解釈というよりも、どこか非現実的な寓話にすぎないあの話を現実に持ってくると、じつはこんな風になるんですよと、そういうことをやっている」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「額面通りの教義的な側面はあるものの、一大スペクタクル、アクション、ヒューマンドラマと見どころの詰まった娯楽作であった」と述べています。



(注1)原題は「NOAH」。監督は、『レスラー』や『ブラック・スワン』などのダーレン・アロノフスキー

(注2)アダムとイヴ→カインとアベルとセト→カインはアベルを殺し、その子孫が文明を築きますが、同時に悪をまき散らしました。また、セトの子孫がノア。

(注3)トバル・カインらは、レメクらがいる原野の地中からZoha(Zoharに関係するのでしょうか)を掘り出して、我らの土地だと叫びます。

(注4)ナームは、イラがもう子供が作れない体だとノアに告げます。

(注5)番人は、「我らを助けたのは、お前の祖父だけだ」、「お前の中に、アダムの面影を見る。アダムは、我々が助けようとした人間だ」、「我々は人間を助けようとしたために、神に罰せられた」などと語ります。

(注6)メトシェラは、「父のエノクから、人間がこのままの所業を続けるのなら、神はこの世を絶滅させる」「逃れるすべはない」「神は火によってこの世を破壊する」などとノアに語ります。
 それに対して、ノアは、「自分が見たのは水であり、火はすべてを壊滅してしまうが、水は浄化する。穢れたものとそうでないものとを分ける。神はすべてを破壊するものの、再生のきっかけは残してくれる」と言います。
 するとメトシェラは、「エデンの園で得たこの種が必要になろう」と言って、種をノアに手渡します。

(注7)創世記に「箱舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビト」とあるのを踏まえて(6章15節)、本作では「長方形の箱」型にしたようです(劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」にある監督談話より)。



(注8)最近では、ラッセル・クロウは『スリーデイズ』、レイ・ウィンストンは『ヒューゴの不思議な発明』、アンソニー・ホプキンスは『ヒッチコック』で、それぞれ見ています。

(注9)映画に映しだされるノアを500歳だとみなせばいいのですから。

(注)ノアがイラをセムの妻として受け入れたのも、イラが子供を産めない体だと思い込んでいたからでしょうし、ハムの相手のナエルをノアが見捨てたのも、子供を作ってほしくなかったからでしょう。
 でもそんなことなら、箱舟に乗るのはノアだけにすれば、ノアが理解した神のお告げはたちどころに達成できるでしょう(ノア自身も乗船しなければ、達成できるでしょうが。やはり、箱舟に乗り込んでいる動物を世話したりする者が必要なのかもしれません)。

(注11)本作において、ノアがセムとイラの間に出来た双子の女の子を殺してくれれば(あるいは、ノアの祖父メトシェラがイラの傷を治してしまわなければ)、イスラエルとハマスとの戦争も、ウクライナでの戦闘やシリア、イラクでの戦争もなかったのになと思ったことでした。でも、その場合には、こうした伝承自体が残らなかったでしょうが。

(注12)ハムは旅に出てしまい、ヤフェットは幼いままですが、子供を産めない傷を負ったとされたイラも、メトシェラが手を当てることによりその傷が癒えて双子の子供を産むのですから。
 それに、ノアにしたって子供が出来ないこともないかもしれません〔創世記によれば、メトシェラは「レメクを生んだ後、782年生きて、男子と女子を生んだ」(5章26節)のですから〕。



★★★☆☆☆



象のロケット:ノア 約束の舟