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冷たい雨に撃て、約束の銃弾を

2010年06月06日 | 洋画(10年)
 『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』を、新宿武蔵野館で見てきました。

 長すぎる邦題が思わせぶりであり〔原題は「vengeance (復讐)」〕、上映館が都内でわずか1館だけなのが何となく気になったものの、予告編で見た時にマズマズだなと思い、また映画評論家の評価もかなり高いので、映画館に足を運びました。

(1)ですが、何となくの予感が当たりました。
 予告編で見ると銃弾が飛び交うアクション映画のようだからうるさいことは言わず楽しめばいいのだと、見る前に自分に言い聞かせましたし、それどころか、『サガン―悲しみよこんにちは』で主役のサガンを演じたシルヴィー・テステューとか、『Plastic City』でオダギリジョーと共演したアンソニー・ウォンとかが出演しているので、それだけでもいい映画のはずだと思ったりもしました。
 とはいえ、私にはこの映画は駄目でした。

 冒頭、マカオで幸せそうに暮らしている一家が、突然殺し屋の集団に襲撃され、夫と二人の息子が殺され、フランス人の妻(シルヴィー・テステュー)が半身不随ながら辛うじて助かります。
 この事件を知ったフランスでレストラン経営をしている彼女の兄・コステロ(ジョニー・アリディ)が、マカオの病院にやってきて、復讐を妹に誓います。
 コステロは、宿泊していたホテルで、ある殺し屋グループと偶然に遭遇したことから、彼らを復讐のために雇い入れます(そのリーダー格の男クワイがアンソニー・ウォン)。彼らのようにマカオの裏社会を知る者からすれば、コステロの妹の家族を襲った殺し屋たちを見つけるのはいとも簡単です。そこで早速、殺し屋同士の対決と相成ります〔中国人としては3対3ですが、一方のグループにはコステロが加わります〕。
 冒頭のシーンからここまでは、かなり手際よく話が進行します。特に、冒頭のシーンは、いかにも幸福な家族の食事風景が、突然の銃撃で地獄に様変わりするのですから、かなりショッキングでした。コステロたちは、悲劇が引き起こされた妹の家に行きますが、現在とその時の殺戮の場面が入れ替わり描き出されるところは、さすがに凄いなと思いました(注)。

 ですが、この殺し屋グループ同士の銃撃戦はいただけません。相手のグループは家族を連れてピクニックにきていたところから、その家族が先に全員引き揚げるまで、コステロのグループはじっと見守るだけです。これはまあ、その後の銃撃戦との対比ということで許せるでしょう〔やや間延びした感じはあるものの、動の前の静でしょうか〕。
 ところが、さあ銃撃戦だと思ったら、夜になったせいもあって、双方の銃弾は激しく飛び交うものの全く当たらないのです!お互い闇雲にブッ放すだけで、時折月明かりによって位置関係がわかり、それによって撃たれる者はいるものの致命傷にはならず、ピストルの音が空しく響き渡るばかりです。
 これでは見ている方は酷く退屈してしまいます。

 それに、主人公のコステロに問題があります。現在はパリでレストラン経営を行っていますが、以前はやはり闇の世界の人間、その時に頭部に銃撃を受け、まだ銃弾が入ったままで、その影響で次第に記憶がなくなってしまうだろうと医者に言われているというのです。
 それで、コステロは、自分が雇い入れた殺し屋グループを見間違えないように、普段から持ち歩いているとおぼしきポラロイドカメラで写真を撮って、一人一人の名前を、出てきた写真に書きつけます。
 ですが、そうなると、肝心の復讐のことはどうなるのでしょうか?そうなのです、そのことも殺し屋グループの顔と同じように次第に忘れてしまうのです。その点は、雇われた殺し屋グループも気がついて、どうしようかとなるものの、一度約束したものはどんな事情があろうともやり遂げるのが俺たちなのだ、ということで復讐は継続されます。
 とはいえ、自分がやっていることが何なのかしっかり把握できない中心人物による復讐とは一体何なのでしょうか?元々、復讐とは敵についての「記憶」が要でしょう。その記憶がなくなってしまったら復讐など無意味ではないでしょうか?単に社会的制裁が行われるだけのことではないでしょうか?

 加えて、最後に事件の張本人(妹たちの殺害を指令したマフィアのボス)を倒しに行く時に、コステロは神に祈りを捧げます。海岸で「神様、私をお助けください」と祈ると、今回の事件で犠牲になった者たちのシルエットが海面に浮かびあがってくるのです。こうなると、もうマッタクこの映画についていけなくなってしまいます。

 というような具合で、アンソニー・ウォンは相変わらず格好がよく、またジョニー・アリディが単身、敵のボスがいるところに乗り込んでいく様子は、あるいは日本のヤクザ映画と見紛うばかりの感じさえします。
 そうです、高倉健とか鶴田浩二が刀とか短刀を振りかざして敵の親分のところに乗り込んでいくのと同じことだと思えばいいのでしょう。ですが、ある種の美学に裏打ちされた日本のヤクザ映画とは全然違う印象を受けてしまいます。

 とはいえ、以上のようにこの映画がダメに思えてしまうのは、ジョニー・アリディの若い時分の活躍を知らず、またこれまでこうした種類の映画をあまり見たことがないせいだからでしょう。もっと同種の映画をいろいろ見て勉強した上で見るか、あるいはそんなに嫌なら自分の世界とは違うと割り切って見に行かなければよかったのですが!


(注)この映画に対して星4つをつけている粉川哲夫氏も、「契約が成立したクワイたちとコステロとが、惨劇のあった家に「現場検証」に行くシーンが実にいい」。「妹が夫と子供のために料理をしていた台所を片付け、冷蔵庫に残された食材を使って、コステロがもくもくとパスタ料理を作り、クワイたちに食べさせるシーンは、ほかでは見たことがない。いっしょに食べながら、コステロの過去、3人の殺し屋たちの性格もあらわになる。実にいい。ここにこの映画のすべてがある」と絶賛しています。


(2)この映画で、コステロが、自分の記憶がなくなっていくのに対処しようとポラロイドカメラを使っているところを見れば、誰しも『メメント』(クリストファー・ノーラン監督、2000年)を思い浮かべることでしょう。
 同作品では、主人公は、妻を強盗犯によって殺害されたショックから記憶障害(事件の前までの記憶はありますが、それ以降は10分間しか記憶が続きません)に陥ってしまいます。そこで彼は、ポラロイドカメラで撮った写真にメモを書き、さらには体中に刺青を彫って、忘れても何とかなるようにしながら、妻殺しの犯人を追っていきます。

 同じようなシチュエーションは、『博士の愛した数式』(小泉堯史監督、2006年)でも見られます。ただ、こちらでは、記憶が続くのは80分間と、幾分長くなっており、またポラロイドカメラは使われず、メモ書きを着ている洋服のあちこちにくっつけるというやり方がとられています。

 この両作品とも、ある時点までの記憶は鮮明だという点では、今回の作品とは異なっているといえましょう。なにしろ、コステロの記憶は、何から何まで次第に薄れていくののですから。
 そうなると、『明日の記憶』(堤幸彦監督、2006年)における渡辺謙のような、介護してくれる妻のことも分からなくなってしまう「認知症」に近い事態になっているといえるかもしれません。

(3)冒頭に書きましたように、映画評論家の評価はかなり高いので驚いてしまいます。
 まず、小梶勝男氏は、「ストーリーはよく出来ているとは言えない」が、「なにせ、「間合い」の映画なのである。男同士が敵になるのか、味方になるのか。撃ちあうのか、撃ちあわないのか。どのタイミングで銃撃戦が始まるのか。全ては相手と向き合い、「間合い」を計ることで決まる。映画はその「間合い」をじっくりと見せる。男たちが黙って顔を見つめ合う緊張感。それが一気に凄まじい銃撃戦へと転じる瞬間のエクスタシー。脚本では絶対に分からないトー作品の醍醐味だ」などとして83点もの高得点をつけます。
 また、渡まち子氏も、「フィルム・ノワールの本家フランスの香りと、香港ノワールの雄ジョニー・トーの独自の美学の出会いは、芸術的なハードボイルド映画を生んだ」のであり、「ジョニー・アリディが漂わす乾いたムードと哀愁、トー作品常連の俳優たちの不敵な面構えこそが、この映画最大の魅力と言えよう」として75点も付けています。

 そこまで、皆さんがおっしゃるのであればそうかもしれませんが!



★★☆☆☆


象のロケット:冷たい雨に撃て、約束の銃弾を


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは。 (えい)
2010-06-06 11:48:20
こんにちは。

クマネズミさんのレビューは、
いつも視点がユニークで、なおかつ深く、
思わずコメントしたくなってしまいます。

ぼくは、この映画、
けっこうノレたのですが、
大方の人たちが絶賛されている月夜の撃ちあいはダメでした。
いわゆる緊張感がそがれたのですが、
その理由がこちらで分かりました。
なかなか、指摘がしづらい部分を、
はっきりと書いていただきとても嬉しいです。

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遅コメ失礼します (ふじき78)
2010-10-31 01:21:52
こんちは。
私の中ではかなりのヒットです。

つまり、これは「ど」が付く「浪花節」。だから好きです。
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