
『ペコロスの母に会いに行く』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。
(1)本作は、ペコロス(小さなタマネギ)という愛称の主人公・雄一(岩松了)が、10年前に認知症を発症した母親・みつえ(赤木春恵)を介護する様子を描き出した作品です。
舞台は長崎。主人公の雄一は、広告代理店に勤めながらも、勤務は適当に流して、漫画を書いたり音楽活動をしたりするダメサラリーマン。
その上に、母親が認知症ですから大変です。
雄一が仕事で出かけ1人でいる時にオレオレ詐欺の電話がかかってくるのですが、みつえは、他のことに気を取られて受話器を置いて別室に行くと、電話のことを忘れてしまいます。
これは実害がなくていいのものの、ダメだといくら雄一が言っても、駐車場で雄一が帰ってくるのを待ち構えていたり、既に亡くなっている夫のためといって酒屋に酒を買いに出たりしてしまいます。

そこで、雄一と息子のまさき(大和田健介)は、ついにみつえを介護施設に入れることにします。
さあ、うまくいくでしょうか、………?
本作は、進行する認知症の母親を息子が介護するという大層厳しい状況を描きつつ、さらには母親の幼い頃や戦後の苦しい時代のエピソードがしばしば挿入されるものの、全編にわたり実に優しい眼差しに溢れ、見終わるとほのぼのした感じなります(注1)。
主人公の雄一を演じる岩松了は、持ち味のひょうひょうとした雰囲気を出しながら味わいのある演技を披露しますし、また母親役の赤木春恵も、89歳とはとても思えないしっかりとした演技で観客を驚かせます。
(2)介護施設を描いたものとしては、最近では『ばしゃ馬さんとビッグマウス』があります(注2)。その中で、主人公のみち代(麻生久美子)が、シナリオを書くための取材ということで、ボランティアとしてごく短期間ながら働いたりします。
ただ、その映画で描かれる介護施設では、入所している老人たちが簡単にはみち代を受け入れてくれず、おまけに早々に退散せざるを得ない事件が起こったりします(注3)。
これに対して、本作で描き出される介護施設は、実に和やかな雰囲気が漂い、大きな問題は何も起こらなそうな印象を受けます(注4)。
とはいえ、認知症の場合、実のところ病気は次第に進行し、記憶についても、初めのうちは最近起きたことを忘れてしまいますが、次第に過去のことも忘れてしまうとのこと(注5)。
みつえの場合、上で触れたように、オレオレ詐欺の電話がかかってきてもそのこと自体を忘れてしまったりしますが、どうやら病気の初期症状のように思われます。
その代わりに、過去のことはかなり鮮明に覚えています。本作では、みつえの幼い時分のエピソードや、夫・さとる(加瀬亮)との結婚にまつわる出来事などが思い出として度々挿入されます(注6)。
挙句は、みつえの目には、過去の人々(注7)が実在するかのように見えているようなのです(注8)。
こうした有り様を見て、雄一は、映画のラストの方で、「ボケても、悪いことばかりじゃないかもしれない」とつぶやきます。
確かに、認知症の場合そうした側面はあるのでしょうし、本作がその点を強調するのは斬新な視点とも言えるでしょう。
でも、実際には病気はどんどん進行して、大層厳しい局面に至るのも事実のようです。
「ハートウォーミングコメディ」として本作はまずまずの出来栄えとは思いますが、それはそれとして、他方で現実の有り様も忘れるべきではないのではと思います。
(3)読売新聞編集委員の福永聖二氏は、「森崎監督は、介護という深刻になりがちな題材を、少しも湿っぽくなく描き出した。優しさに満ちた秀作だ」と述べています。
また、映画評論家の秦早穂子氏は、「同じ長崎生まれ、85歳の森崎東監督の確かな目が光り、赤木春恵89歳、初の映画主演という。日本人が本来持つ明るさ。溢れる生命力。断ちがたき親子の情。そこに、なんの理屈があろう」と述べています。
(注1)ただ、雄一の妻でまきおの母親である女性のことが、映画の中では触れられていないようなのはどうしてでしょうか?
(注2)この点については、「ふじき78」さんが既に指摘しているところです。
(注3)入所者の老人が吐瀉物まみれになってしまいますが、みち代はそれに対して何も対応できませんでした。
(注4)本作の介護施設では、入所者らが歌を合唱するくらいなのです。それに、本田(竹中直人)の母親は女学生時代の恋人に恋心を抱いているようで、また人形を背中におぶって歩きまわっている老女(白川和子)もいたりして、多士済々の老人が楽しげに徘徊しています。
こうなるのは、一つには、ロケの場所がデイサービス施設(北九州市の「さくら館」)であることも与っているのではないでしょうか?
(どちらかといえば、『きいろいゾウ』でムコ(向井理)が介護士として働く特養ホーム「しらかば園」の描き方に近いのかもしれません)
(注5)例えば、このサイトの記事には、「認知症のごく初期では、まず近時記憶(数分前のことを覚えている)があやふやになり、やがて短期記憶(数日内のことを覚えている)が働かなくなりますが、遠隔記憶(それ以前のことを覚えている)には問題がないことが少なくありません」などと述べられています。
(注6)思い出のシーンから描き出されるみつえは、大家族の長女として生まれたために、畑仕事を手伝わされたり大勢の兄弟の面倒を見させられたりするなど、大層苦労し、さらには長崎に投下された原爆のキノコ雲も目撃しています。また戦後になると、結婚した夫・さとるがアル中で、みつえはDVを受けたりし、決して平坦な道ではありませんでした。

さらに、音信不通になっていた親友・ちえこ(原田知世)と遊郭でばったり出会ったりもします。
本作の初めの方で、幼いみつえとちえこが、学校の窓から、音楽の先生(宇崎竜童)が合唱で「早春賦」を指導しているのを覗いたりするシーンがありますが(昭和18年の天草)、ちえこは被曝して10年後に亡くなっています(なお、みつえの若いころを演じるのが原田貴和子ですから、本作では姉妹共演ということになります)。

(注7)夫・さとる、幼馴染みのちえこ、それに8歳で亡くなった妹・たかよが、幻覚としてみつよに現れます。
(注8)上記の「注5」で触れたサイトの記事からすると、みつえは「アルツ八イマー型認知症」(「症状は記憶障害に始まり、初期には抑うつがみられたり、進行すると徘徊や妄想、幻覚がみられたりすることもあります。最終的には脳全体が萎縮するので身体機能そのものが低下しますが、表情はおっとりとして幸せそうなケースもみられます」)なのかもしれません。
★★★☆☆
象のロケット:ペコロスの母に会いに行く
(1)本作は、ペコロス(小さなタマネギ)という愛称の主人公・雄一(岩松了)が、10年前に認知症を発症した母親・みつえ(赤木春恵)を介護する様子を描き出した作品です。
舞台は長崎。主人公の雄一は、広告代理店に勤めながらも、勤務は適当に流して、漫画を書いたり音楽活動をしたりするダメサラリーマン。
その上に、母親が認知症ですから大変です。
雄一が仕事で出かけ1人でいる時にオレオレ詐欺の電話がかかってくるのですが、みつえは、他のことに気を取られて受話器を置いて別室に行くと、電話のことを忘れてしまいます。
これは実害がなくていいのものの、ダメだといくら雄一が言っても、駐車場で雄一が帰ってくるのを待ち構えていたり、既に亡くなっている夫のためといって酒屋に酒を買いに出たりしてしまいます。

そこで、雄一と息子のまさき(大和田健介)は、ついにみつえを介護施設に入れることにします。
さあ、うまくいくでしょうか、………?
本作は、進行する認知症の母親を息子が介護するという大層厳しい状況を描きつつ、さらには母親の幼い頃や戦後の苦しい時代のエピソードがしばしば挿入されるものの、全編にわたり実に優しい眼差しに溢れ、見終わるとほのぼのした感じなります(注1)。
主人公の雄一を演じる岩松了は、持ち味のひょうひょうとした雰囲気を出しながら味わいのある演技を披露しますし、また母親役の赤木春恵も、89歳とはとても思えないしっかりとした演技で観客を驚かせます。
(2)介護施設を描いたものとしては、最近では『ばしゃ馬さんとビッグマウス』があります(注2)。その中で、主人公のみち代(麻生久美子)が、シナリオを書くための取材ということで、ボランティアとしてごく短期間ながら働いたりします。
ただ、その映画で描かれる介護施設では、入所している老人たちが簡単にはみち代を受け入れてくれず、おまけに早々に退散せざるを得ない事件が起こったりします(注3)。
これに対して、本作で描き出される介護施設は、実に和やかな雰囲気が漂い、大きな問題は何も起こらなそうな印象を受けます(注4)。
とはいえ、認知症の場合、実のところ病気は次第に進行し、記憶についても、初めのうちは最近起きたことを忘れてしまいますが、次第に過去のことも忘れてしまうとのこと(注5)。
みつえの場合、上で触れたように、オレオレ詐欺の電話がかかってきてもそのこと自体を忘れてしまったりしますが、どうやら病気の初期症状のように思われます。
その代わりに、過去のことはかなり鮮明に覚えています。本作では、みつえの幼い時分のエピソードや、夫・さとる(加瀬亮)との結婚にまつわる出来事などが思い出として度々挿入されます(注6)。
挙句は、みつえの目には、過去の人々(注7)が実在するかのように見えているようなのです(注8)。
こうした有り様を見て、雄一は、映画のラストの方で、「ボケても、悪いことばかりじゃないかもしれない」とつぶやきます。
確かに、認知症の場合そうした側面はあるのでしょうし、本作がその点を強調するのは斬新な視点とも言えるでしょう。
でも、実際には病気はどんどん進行して、大層厳しい局面に至るのも事実のようです。
「ハートウォーミングコメディ」として本作はまずまずの出来栄えとは思いますが、それはそれとして、他方で現実の有り様も忘れるべきではないのではと思います。
(3)読売新聞編集委員の福永聖二氏は、「森崎監督は、介護という深刻になりがちな題材を、少しも湿っぽくなく描き出した。優しさに満ちた秀作だ」と述べています。
また、映画評論家の秦早穂子氏は、「同じ長崎生まれ、85歳の森崎東監督の確かな目が光り、赤木春恵89歳、初の映画主演という。日本人が本来持つ明るさ。溢れる生命力。断ちがたき親子の情。そこに、なんの理屈があろう」と述べています。
(注1)ただ、雄一の妻でまきおの母親である女性のことが、映画の中では触れられていないようなのはどうしてでしょうか?
(注2)この点については、「ふじき78」さんが既に指摘しているところです。
(注3)入所者の老人が吐瀉物まみれになってしまいますが、みち代はそれに対して何も対応できませんでした。
(注4)本作の介護施設では、入所者らが歌を合唱するくらいなのです。それに、本田(竹中直人)の母親は女学生時代の恋人に恋心を抱いているようで、また人形を背中におぶって歩きまわっている老女(白川和子)もいたりして、多士済々の老人が楽しげに徘徊しています。
こうなるのは、一つには、ロケの場所がデイサービス施設(北九州市の「さくら館」)であることも与っているのではないでしょうか?
(どちらかといえば、『きいろいゾウ』でムコ(向井理)が介護士として働く特養ホーム「しらかば園」の描き方に近いのかもしれません)
(注5)例えば、このサイトの記事には、「認知症のごく初期では、まず近時記憶(数分前のことを覚えている)があやふやになり、やがて短期記憶(数日内のことを覚えている)が働かなくなりますが、遠隔記憶(それ以前のことを覚えている)には問題がないことが少なくありません」などと述べられています。
(注6)思い出のシーンから描き出されるみつえは、大家族の長女として生まれたために、畑仕事を手伝わされたり大勢の兄弟の面倒を見させられたりするなど、大層苦労し、さらには長崎に投下された原爆のキノコ雲も目撃しています。また戦後になると、結婚した夫・さとるがアル中で、みつえはDVを受けたりし、決して平坦な道ではありませんでした。

さらに、音信不通になっていた親友・ちえこ(原田知世)と遊郭でばったり出会ったりもします。
本作の初めの方で、幼いみつえとちえこが、学校の窓から、音楽の先生(宇崎竜童)が合唱で「早春賦」を指導しているのを覗いたりするシーンがありますが(昭和18年の天草)、ちえこは被曝して10年後に亡くなっています(なお、みつえの若いころを演じるのが原田貴和子ですから、本作では姉妹共演ということになります)。

(注7)夫・さとる、幼馴染みのちえこ、それに8歳で亡くなった妹・たかよが、幻覚としてみつよに現れます。
(注8)上記の「注5」で触れたサイトの記事からすると、みつえは「アルツ八イマー型認知症」(「症状は記憶障害に始まり、初期には抑うつがみられたり、進行すると徘徊や妄想、幻覚がみられたりすることもあります。最終的には脳全体が萎縮するので身体機能そのものが低下しますが、表情はおっとりとして幸せそうなケースもみられます」)なのかもしれません。
★★★☆☆
象のロケット:ペコロスの母に会いに行く
ドラマを絞ってると言えば聞こえはいいのだけど、しっかりした説明がないので、最初、同居してる3人(祖母、父、子)の関係性が分かりづらいですよね。でも、その関係性が分かりづらいという事以外に不都合を感じないので、ドラマとしてはとりたて必要ではないという事かもしれない。
確かに、母親と息子との関係がメインの映画ですから、息子の妻がいると、嫁-姑の関係が入りこんでしまい、テーマがぼやけてしまうのかもしれません。でも、別れたにしても亡くなったとしても、一度も話に登らないというのはどうかなという気がします。