映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

十三人の刺客

2010年10月30日 | 邦画(10年)
 ヴェネチュア国際映画祭では評判が高かったと聞こえてきたこともあり、『十三人の刺客』を有楽町のTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)工藤栄一監督が1963年に制作した映画のリメイクとのことですが、リメイクするのが『ゼブラーマン』や『ヤッターマン』の三池崇史監督ですから、いやがうえにも期待が高まります。

 実際に見てみますと、ラストの50分間の戦いの場面は、これまで見たこともないほどの素晴らしさだと思います。普通ならば、刀を使った闘いの繰り返しとなりますから、とても50分もの長丁場を観客として見てはいられないでしょう。でも、そこには様々な工夫が凝らされていて、退屈するどころではありませんでした。
 なにしろ、300人以上の軍勢に僅か13人の侍が挑みかかり、そのトップの首を取ろうという戦闘なのですから、なまじの描き方ではありません。
 まず、闘いの舞台となる落合宿に明石藩主の軍勢が入り込んだと見るや、その退路を断つべく出入り口にある橋が景気よく爆破されます。
 さらに、相手の勢力を削ぐための工夫が様々に凝らされています。
 旅籠の横から通路を塞ぐ柵がいくつも飛び出てきて、軍勢は小さなグループに分断されますが、その柵は山から切り出された木々で作られているとはいえ、実に巨大で、追い込まれた侍達はとてもそこを乗り越えるわけにはいかない代物なのです。
 さらに、そうやって袋のネズミになった明石藩主一行に対して、縦横に張り巡らされた空中回廊を島田側の侍は、動き回りつ無数の矢を放ちます。
 また、角に松明をくくりつけた牛が何頭も突進してきたりもします。これは、木曾義仲が倶利伽羅峠の合戦で用いた作戦を借用したのでしょう(もっと昔にハンニバルが用いたようでもありますが)。
 こうして相手の勢力を十分に削いだ上で、リーダーの島田新左衛門(役所広司)の「斬って斬って斬りまくれ」の合図で壮絶なチャンバラ合戦が始まります。

 ただ、問題がないわけではないと思います。
・明石藩主・松平斉韶(稲垣吾郎)らが国元に戻るに当たって、鬼頭半兵衛(市村正親)が島田新左衛門の家に乗り込むくらいですから、鬼頭側は島田側の動きを逐一追っているはずで、そうだとしたら、一足先に落合宿に向かった刺客2人の行動も把握でき、さらには要塞と化した落合宿の状況も事前に知りえるのではないでしょうか?
・島田側が、明石藩主の一行を追っていくと、途中で鬼頭が事前に配置しておいた浪人達が出てきてその行く手を阻止しようとします。鬼頭がそのくらい用意万端に行動しているとしたら、明石藩主の行列の後方だけでなく前方にも人を多数放って、安全を十分確認しようとするのではないでしょうか?落合宿の入口にたどり着いてから、やにわに安全を確認しようとするは、慎重な鬼頭らしからぬ手落ちではないでしょうか?
・参勤交代の行列の中には鉄砲を担ぐ者もいたはずですが(時代設定が江戸末期ということもあり)、落合宿での戦いには鉄砲の出番が全くありません。
 他方で、落合宿の出入り口にある橋とか宿の建物が爆破されますから、島田側にも鬼頭側にも、そうした武器が念頭に浮かばなかったはずはないと思われるのですが?
〔それに、明石藩主の一行の尾張藩通過を牧野(松本幸四郎)が阻止する際には、鉄砲隊が登場してますし〕

 とはいえ、そんな詰らない些細なことなどドウでも良いのです。なにしろ、突貫工事で要塞化した落合宿に鬼頭達300人を誘い込み、それを13人の島田達が粉砕してしまう死闘の有様をヴィヴィッドに描き出すことがこの映画の最大の狙いなのでしょうから!
 ある意味で、島田側は、正規軍である鬼頭側にゲリラ戦で挑んで勝利したと言えるでしょう〔でも、その勝利も、老中・土井大炊頭(平幹二朗)が意図する幕府体制の維持強化に役立っただけのことであり、真の意味のゲリラ活動といえるか疑問ですが〕

 主役の役所広司は、黒沢清監督の作品に常連でクマネズミご贔屓の俳優のところ、最近では監督業にうつつを抜かしていたのか、『トウキョウソナタ』とか『劔岳 点の記』くらいでしか見かけませんでしたが、この映画では、12人の命を与って目的を達成する島田新左衛門役二扮して十分その存在感を発揮していて、さすがだなと思いました。
 相手方の鬼頭半兵衛を演じる市村正親も、ミュージカル俳優にもかかわらず、長年時代劇俳優をやってきているような雰囲気を出しているのを見ると、一つの分野でトップにいると他の分野もうまくこなせるものだな、と感心いたしました。
 明石藩主・松平斉韶に扮したのは稲垣吾郎ですが、アイドルグループSMAPのメンバーがそこまでするかというくらい残酷なシーンを演じていたのには驚きました。
 この他にも、『シーサイドモーテル』の山田孝之吉田新太、『さんかく』の高岡蒼甫などが印象に残りました。

とにもかくにも、2時間21分を、TOHOシネマズ日劇の大画面で十二分に楽しめました。

(2)この映画に関しては、同じタイトルの元の作品と見比べてみると面白いと思います(そうした分析はすでにあちこちでなされていて、単に屋上屋になるだけだとは思いますが)。



 作品のリメイクについては、次の3点から見てみたらどうかと思っています。
a.現代性の取り込み
 今回の映画では、元の作品と同じ時代設定となっていて、この点は総じて無視されています。
 とはいえ、たとえば、襲撃側のリーダーである島田新左衛門について、元の作品ではいわゆる日本型の大将タイプといえるでしょう(大所は押さえ最後の責任はしっかりとるものの、戦術などは参謀以下を信頼してすべて任せ切る←日露戦争における大山巌的なタイプでしょうか)。
 他方、今回の作品においては、現代企業の管理職に要求されている点がいろいろ見て取れます。すなわち、役所広司は、戦略・戦術から実際の戦闘においても、すべて自ら取り仕切るという前線の部隊長的な姿を披露しています。
 とはいえ、こうなるのも、あるいは、今回の映画で島田新左衛門を演じる役所広司が54歳とまだ十分若いのに対し、元の映画の片岡千恵蔵は、映画出演の際は60歳で、十分な動きができなくなっていたのかもしれません(と言っても、今回の映画で、島田の参謀役の倉永を演じる松方弘樹は、68歳であるにもかかわらず随分と元気のいい立ち回りをしていますが!)。

b.より合理的なものに
 今回の映画では、元の映画にでは描かれていなかった場面がいくつも見られます。
 たとえば、一揆の首謀者の娘ということで、松平斉韶により手足を削がれ“芋虫”(!)状態になった女が、島田新左衛門の前に連れてこられます。
 息子と嫁を奪われた尾張藩士の話に加えて、この場面によって、松平斉韶の暴虐さは到底許し難いものとなり、その首を取るという反逆的行為の正当性に説得力を持たせることでしょう。
 ただ、口もきけないこの女が「みなごろし」と書いた幟を鬼頭達に示してから戦闘に入るという手順は、この襲撃に相当程度私怨的な要素が紛れんでしまい、島田側の大義名分にいささか陰が射すことになるといえないでしょうか?

c.面白さ・迫力の増加
 元の作品では、13人の襲撃側は、53人の侍を相手に戦いましたが、今回の映画ではそれが300人と6倍に膨れ上がっています。
 その結果、随所で火薬が使われ(元の作品では、一切使用されません)、明石勢の力を分断する柵も、可動式であり、かつかなり頑丈にできているようです。襲撃側の位置の移動を容易にする空中回廊がいくつも設けられていたり、取り換え用の刀もふんだんに用意されています。
 こういうことから、元の作品では30分程度のチャンバラ場面が、この映画では約50分間という前例のない長いものになり、面白さも迫力も増加することとなったと思われます。
 また、役所広司が扮する島田新左衛門が、戦闘開始ということで「斬って斬って斬りまくれ」と大声をあげますが、斉韶を斬った片岡千恵蔵は、「無用の殺し合いを止めるよう、早く笛を吹け」と指図します。トップを倒すことが襲撃の大目的なのですから、元の作品の方が正しいと思いますが、相手が300人もの軍勢では、今回の映画のように叫ぶのも当然のことかもしれません。

 なお、ラストで松平斉韶を倒すシーンについては、漫画(森秀樹による単行本〔小学館〕)まで含めると3つの違った描き方がなされています。
・元の作品:島田が斉韶を斬り捨てますが、鬼頭との対決では島田はわざと鬼頭にやられてしまいます(その鬼頭は、襲撃側の侍に槍でやられますが)。
・今回の作品:まず鬼頭と島田の一騎打ちがあって、島田は鬼頭を倒したあと、斉韶を斬ります。ただし、同時に島田は、斉韶の剣を腹に受けてしまいます。
・漫画:まず、島田は斉韶を切って捨てます。そこにやってきた鬼頭との一騎打ちでも、島田は鬼頭を倒します。

 ある意味で一番現代的であっけらかんとしたラストと言えるのは、漫画の描き方ではないでしょうか(生き残った襲撃側の侍も8人で、他の作品―いずれも2人?―よりもずっと多いのです)?

(3)映画評論家は総じてこの作品に好意的なようです。
 渡まち子氏は、「様式美とは無縁の集団抗争のパワーの、なんと壮絶なことか。無論、オリジナルの先見性あってのことだが、時代劇を爽快や美意識ではなく、政治性と虚無感を含ませてリブートしたところが素晴らしい。だからこそ「侍とは面倒なものだ」との新左衛門の言葉が活きる。そしてそれらすべてを見届けて、生きるべき場所に戻っていく男の存在も。三池流・生の肯定の怒号が聞こえる」として、70点を与えています。
 前田有一氏も、「暗殺側は13人もいるので、末端のキャラクターまで十分に描けていないのが残念だが、決死隊としてのヒロイックな魅力は十分」、ただ「彼らの立ち回りは時代劇というより「クローズZERO」のようで、江戸時代を舞台にヤンキー同士がケンカをしているような趣である。ど派手な大仕掛けや、13人vs.300人といった常軌を逸した大立ち回り、抒情的すぎる各人の最期などがそう感じさせ」、「時代劇の様式美にこだわらぬ人にとっては、画面にあふれる大和魂にこちらの心まで燃え上がる魅力的な一本だ」として、70点を与えています。
 ただ、おすぎは、『週刊文春』10月7日号の「Cinema Chart」で、「もうシッカリした時代劇を撮るのは、日本映画には無理かもしれない、と心底、思いました。ハデならいいのか?」と述べて、☆2つしか与えていません。
 確かに、山田孝之や吉田新太、高岡蒼甫などの面々に(あるいは、松方弘樹以外のすべての俳優でしょうか)、昔の中村錦之助や東千代之介時代のチャンバラの雰囲気を求めるのは無理でしょう。
 とはいえ、その時代のチャンバラも、またその時代に創り出されたものであって、それだけを金科玉条として守らなければならないということはありますまい。現代は現代のチャンバラがあれば十分なのではないでしょうか〔要すれば、チャンバラといっても、実際の斬り合いなど見た人は誰もいないのですし、所詮ダンスの一つに過ぎないと思えますから!〕。



★★★★☆

象のロケット:十三人の刺客


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7 コメント

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TBありがとうございました♪ (はなこのアンテナのはなこ)
2010-10-30 14:29:14
初めまして。

充実した内容の記事を興味深く読ませていただきました。オリジナル作未見なので、それと本作とさらにマンガ版との比較など、とても面白かったです。

文中で映画評を引用された二人の評論家は、的確な論評、広く深い知識、巧みな文章と三拍子揃っていて私も好きな方々です。一方、おすぎ氏は淀川長治氏の直弟子のはずですが、的外れな論評が多いような気がします。そのくせ、一時期新作映画のCMで太鼓持ちに勤しんでいましたよね。

以前は映画評が中心のブログだったのが、最近は殆ど書いておらず、久しぶりに書いてみたら予想外に反応が大きく、貴ブログのような読み応えのあるブログにも出会えました。たまには時間をかけて映画評を書くのも良いものですね。

それでは、また。ご縁がありましたら。
こんばんは (ななんぼ)
2010-10-30 20:56:07
こんばんは。「続・蛇足帳~blogばん~」のななんぼです。
TBありがとうございました。

ウチのblogは何故かgooと相性が悪くTBをしてもエラーが出てしまうので、申し訳ありませんがコメントのみ残させて頂きます。

元の工藤監督作品も観ていましたが、コミック版は読んでいなかったので、展開の違いなどが判り易く書かれていて嬉しかったです。

私は派手なチャンバラ時代劇が大好きなので(昔で言うと『将軍家光の乱心 激突』など)、この『十三人の刺客』は本当に好みの作品だったし、やたら若い女性向きに改変されてしまう今時の時代劇とは真逆の作りに感激しました。
それに派手なだけではなく、前半は正統派な時代劇の撮り方で(だから、おすぎの批評は的外れに感じました)緊張感が静かに流れていき、役所さん演じる新左衛門の「斬って、斬って、斬りまくれー!」の怒号と共に激しい立ち回りシーンへと展開していくところなんて一気にテンションが上がりました。

無意識に刺客と同じような気持ちで力を入れながら見入ってしまったようで、観終わった後にドッと疲れを感じた作品は久しぶりかもしれません。
あああああ、おすぎとは相性悪い (ふじき78)
2010-10-31 00:04:46
もう確実におすぎとは相性が悪い。

そもそも「もうシッカリした時代劇を撮るのは、日本映画には無理かもしれない、と心底、思いました。」って、三池崇史の映画にそれを求めるのは最初から間違えているでしょ。

女子トイレに入って「なんで小便器がないの、キーっ」って騒ぐようなもんです(例えが悪いなあ)。
シッカリした時代劇とは (KGR)
2010-10-31 00:39:21
いったいどういうものを言うんでしょうね。

確かに「派手ならいいのか?」感は無きにしも非ずですが、華麗な立ち回り、見事な殺陣がしっかりした時代劇だとは思いません。

むしろ、所作はもちろん、行灯の暗さや化粧など、ちゃんと作りこまれていたと思います。

戦いのシーンにしても
>現代は現代のチャンバラがあれば十分
に同感です。
十三人目はゾンビ (不死身ではない男)
2010-10-31 22:16:28
  映画の見せ場に関して、邦画なら剣劇、洋画ならカー・チェイスがあげられるが、それらが効果的に使われるのは是としても、個人的には、延々長々と続けられるのは好きではない。だから、「十三人の刺客」についても、新旧の両映画を比較した貴見を読むと、旧作のほうが時代劇として合理的に作られているようだし、内容も好ましいのかもしれない。この辺は、感覚の時代による差異というより、監督の感覚の相違とみたほうがよいのかもしれない。もっとも、ポスターまで見ると、旧作はいかにも古くさい感じもある。

  実際の映画設定では、史実や原作から大きく変更するのも否定しないが、ストーリー的に無理がないものとするのなら、13人という少ない人数で、藩主の暗殺をはかるわけだから、できるだけ攻撃対象を少ない人数になるように、守る側の明石藩士を分離、囲い込みをして、攻撃するのが常道のはずだが、剣劇の見せ場を続けるため、僅かな人数で300人もの護衛側藩士と戦う場面が延々と続く。火薬を使いながら、鉄砲を使わず、弓と剣が武器というのも、問題が多いところ。藩主暗殺という最終目的に合わない行動が刺客側に多すぎて、欧米人の感覚に合わないとも考えられる。戦闘そのものは適当な長さに縮めてほしかったという気持ちがまずあり、その分だけ評価が低くなった。
  だから、本作は、あまり歴史考証と合理性・残虐性を考えずに、剣劇場面だけを気楽に楽しく観ることができれば、それはそれでよいのであろう。そして、そのような展開が好きな人たちには良いのだろうが、私の肌合いがあまり良くはなかった。本作監督の自己満足的なものが多分に見られて、あれでは、国際映画祭で受賞することは無理なのであろう。
  歴史的に考えると、子沢山で知られる将軍徳川家斉の子女がどのような生涯を送ったのか、その一環として明石藩という親藩大名家を考える手がかりになるのかもしれない。
TBありがとうございました (maru♪)
2010-11-02 02:35:17
こんばんわ♪
相性が悪いらしく、こちらからTBのお返しができません・・・
URLのリンクも貼れませんので、コメントのみで失礼します。

確かにツッコミどころ満載ではあるのですが、娯楽作品としてよく出来ていると思いました。
もちろんいい意味です♪
50分間の死闘 (クマネズミ)
2010-11-03 17:55:06
「不死身ではない男」さん、コメントをありがとうございます。
クマネズミとしては、この映画について、「明石藩という親藩大名家を考える手がかりになる」かどうかなどとは一切考えずに、「剣劇場面だけを気楽に楽しく観」ただけですので、評価は随分と高くなってしまいました。
なお、国際映画賞のことですが、下記の記事によれば、ベネチア映画祭の審査委員長のタランティーノ監督と三池崇史監督とが親しすぎたことや、海外版は15分短縮されていて、三池監督らしさが薄められたものになっていることなどによって、賞を逃してしまったのでは、と述べられているところです。
http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/20070925-479958/news/20101013-OHT1T00170.htm

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