駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

格差社会の断面

2015年03月04日 | 小考

           

 明け方雨が降ったのか舗道が濡れていた。不快な感じは全くなく何とも気持ちよく歩けた。春の空気を感じたせいだろうか。

 格差社会と言われ出して暫く経つ。使い回されているが、今のところまだ有効な言葉のようだ。こうしたキーワードはしばしば包含する内容が端折られ、結論に短絡するために使われてやがて色褪せていってしまう。そうならないように議論を深めてゆく必要がある。格差は厳然と存在するのだから。

 経済的な格差をどのように測定したらいいか、どのように受け止めたらいいか・・・、とても数十秒や数十語では分析表現できない。ただ、この格差が増大固定することに対する懸念、不満、不安が渦巻き始めているのは確かだろう。尤も、日本社会ではまだ大問題にはなっていない。拡大しているとは認識していないと首相が質問に反論しているくらいだ。

 機会均等というマジックワードの緩和力によるものか、矢面で抵抗するのを好まない国民性に依るのか、明日は明日の風が吹くという観測によるものか・・・よく分からない。恐らく、現在の格差をさほどとは思わない人が多いのが一番の理由だろう?。

 そうした経済的な格差の他にも、実は大きな問題となる格差がある。それを十八才問題と表現したい。大人になるべき年頃の若者の姿にあまりに大きな差が生じているのだ。果たしてこういう問題に格差という言葉を当てていいものか戸惑うが、未熟で歪んだ若者と明日を託したい清々しい若者が二群に別れ差が大きくなりつつある。こうした捉え方に釈然としない方も居られると思うが、事実を直視すれば認めざるを得ない気がする。

 格差と言う言葉よりも乖離や分離の方がよいかも知れない。いずれにしても大人になる年齢の若者に社会性というか成熟度で歴然とした差が生じ始めていることに社会が気が付かねばならないと思う。

コメント
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