駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

失われた記憶

2013年12月07日 | 政治経済

                     

 人里遠く離れた山奥の森林で樅の大木が倒れた。人は誰一人としてそれを見聞きしなかった。果たして倒木は実際にあったことなのだろうか。

 時々テレビで今週の名局として井山高尾戦やワールドカップ予選を放映している。自分がその結果を知らなくても、結果は既に多くの人の知るところのせいか、中々これを手に汗を握って観戦するのは難しい。尤も、当日の戦いであれば、全ての情報を遮断して帰宅後録画を手に汗して見ることは出来る。しかしそれとて、生中継を見るのに比べれば八割方の迫力だ。

 結果を知らなくても、既に決着が付いているのを知っていると、僅かだが興味が薄れる。人間の感覚は不思議なものだ。

 倒れた樅の木が六十年後朽ちて土に帰していれば、倒れたことどころかその存在さえも確かめようもなく、そうした事実はなかったと思われてしまうだろう。

 記憶する人も居なくなり、記録も霞が関の霞む金庫の奥深く眠っていれば、なかったことになるだろう。昏々と眠り続ける白雪姫の眼を覚ます王子様が、有象無象魑魅魍魎の蔓延る日本に居るだろうか。

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