あられの日記

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徳蔵寺の板碑保存館

2019年07月20日 06時07分43秒 | 展覧会&観光施設&能楽
2019.6.16訪問。東村山市にある徳蔵寺に保管されていた板碑・石器・土器などを保存するため、昭和43年(1968)9月に鉄筋、校倉造り、2回建ての保存館が完成した。
また、保存館に屋根を乗せ、内外装の工事が行われ、平成15年(2003)1月に改装再会館しました。
1階〜石器・土器・国分寺瓦・古銭等を展示
2階〜元弘の碑を中心に、板碑約170基、宝篋印塔、五輪塔、道標などを展示。
ということで2階へ上がる。
板碑の隣に表面に書いてあるものを解説してある。
一対の比翼碑の右側。
アップにするとこう。おとといの記事で、正福寺さんにある貞和の板碑の解説を、東村山市ふるさと歴史館に解説展示してありました。わかりやすいので再掲載。板碑の表面にはこんなことが刻んであるんですね。
板碑のほか、五輪塔も展示。
解説あり。

宝篋印塔。
解説あり。
けど見逃してはいけないのはこっち。
元弘の板碑(国指定重要文化財・大正3年8月指定)
大切にしまってあるので、表面に何が書いてあるかわからんのです。
でも右側に全文が書き出してありました。
分かります?ガラパゴス携帯だったので、念のため2枚撮影したのですが、どっちもピンボケしてました〜。仕方ないので、3段組の表面を上段から書き出してみる。
1段目:光明真言
2段目・右から:飽間斎藤三郎藤原盛貞生年廿六
   2行目:於武州府中五月十五日令討死
   中央3行目:元弘三年発酉五月十五日 敬白
   4行目:同孫七家行廿三同死飽間孫三郎
   5行目:宗長冊五於相州村岡十八討死
3段目・右から:勧進玖阿弥陀仏
   ・左端:執筆遍阿弥陀仏
元弘の板碑の手前に置かれてるのは位牌です。板碑に書いてある3名を弔うものです。
説明文発見:元弘の碑について
「元弘の碑」は、新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めたとき、共に戦い、府中の分倍で討死した飽間斎藤三郎藤原盛貞・同じく孫七家行・村岡で討死した飽間孫三郎宗長の3戦士の供養塔で、元弘3年(1333)5月15日の日付で建立された。
当初は、八国山の麓を通る鎌倉街道(脇道)が「小高くなった所」の山裾で、東に久米川古戦場を望み、街道を通る人にも参拝できる位置に建立されたと思われる。
ときが過ぎ、江戸時代初期、八国山にあった徳蔵寺の土地に永春庵が建立され、元弘の碑は境内に移され、3戦士に戒名をつけ、手厚く供養されるようになった。
然し、元弘の碑を守っていた永春庵の遷化(宝暦11年・1761)後衰微し、その後取り壊され、徳蔵寺境内に再建され元弘の碑も徳蔵寺の境内に移された。
『江戸名所図会』天保5年(1834)〜7年(1836)には、門を入って左側に永春庵があり更に進むと本堂があり、本堂左手の奥に塚があり元弘の碑が描かれている。
このように、「元弘の碑」と「徳蔵寺」と「永春庵」は、昔から深い繋がりを持ちながら、現在に至っていることがよくわかる。
「元弘の碑」は『太平記』に書かれている新田義貞の鎌倉攻めという歴史上の出来事を実証する貴重な資料としてその存在価値は大きい。」とあります。
ということで、地図です。
地名が読めるように大きく貼り付けてみました。中央に黄色になってるのが徳蔵寺さん新田軍の陣地だったのね。黄色の右手にあるのが狭山丘陵で、先ほど北山公園から見上げた小高い山がこれにあたります。あれはトトロに出てきた山だけじゃなかったのね。
そういや、新田義貞の進撃はあっちゅー間で、鎌倉北条方はあっちゅー間に駆逐されちゃいましたね。
守るに固く攻めるに難しい鎌倉を、新田義貞は稲村ヶ崎から干潮を利用して海岸沿いに進み、九品寺に陣を張り、北条高時の館があった現宝戒寺さんまで一気に攻め落とし北条一族を滅亡させ鎌倉幕府を終了させた(1333年5月下旬)けども。
各地で転戦。箱根や湊川で敗北し、最後は南朝の後醍醐天皇の息子恒良親王・尊良親王を奉じて北陸の越前藤島で戦死(1338年8月17日)しちゃました。37〜8歳没。
徳蔵寺板碑保存館
拝観時間:9:00−17:00
拝観料:高校生以上200円
休館日:毎週月曜日
時刻は早くも12時35分。お腹が空いた〜。たべれるとこ〜。
地図を眺めて近くの熊野神社さんの隣に公園を見つけたので移動。
熊野神社さんの12時47分到着。まずは参拝です。
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