ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

断酒の先生

2019年07月16日 | ノンジャンル
断酒を何年継続していようが、いや、継続している
からこそ、初心を忘れないことが常に重要である。

初心というのは、本当に風化しやすく、
現実の日常において忘れがちになる。

それを日々確認し、新たにしていくのが
三本柱ということになる。
通院で確認し、抗酒剤の服用で確認し、
ミーティングで体験を聞き、話して確認する。

自身においては、初めてクリニックに
足を運び、家内に支えられないとまともに
歩けない状態で、這うようにして家に帰った
あの日を思い出す為に、クリニックへ今も
足を運ぶことが確認となっている。

断酒初心者は常に先生である。
他人事ではない、自身の昔の姿を、
苦しみを、焦燥を、嘆きを思い出させて
もらえる。

同じ病気の苦悩に同苦できる上では、
どの人も仲間であると言える。
初心者は長年の断酒者に自身の可能性を
見い出し、長年の断酒者は初心者に
自身の初心を確認させていただく。

そこには上下のない対等な立場のみ
がある。

今日1日を飲まずに自分らしく生きる。
その根本になんら変わりはないし、
これからも変わることはない。

だからこそ、同じ病気を抱えたものは、
一緒に今日1日を飲まずに頑張ろうと
いうことなのである。





梅雨の間

2019年07月14日 | ノンジャンル
しばらく出張続きであった。

7月はひと息ついてスローダウンなどといいながら、
もう早くに予定が詰まってしまっている。

8月こそはというのはもうやめにして、無理のない
範囲で動けるだけ動こうというのが、今の正直な
心境である。

と、家内が今月いっぱいで今の仕事をやめると
言い出した。

今月50の大台に乗る彼女も、自身の人生というか、
生き方というものにおいて様々に考え、出した
結論だろう。

いわゆるわがままで、自分勝手で、自己中な
ところも多々あるのだが、何となく憎めない。
むしろその方が彼女らしいし、私などよりも
はるかに正直なので、愛嬌すらある。

誰にでも真似のできる事ではない。

技術職である以上、その原点は自身の技術で
お客様に喜んで頂くという事だ。
どんな職場であれ、環境であれ、それを外した
ことは一度もないと思う。

むしろその原点と食い違うところで頑張るのは
苦しい事でもあったろう。

自身の原点に忠実に、ありのままに頑張れる
ところならどこでもいいだろう。
自分の思うとおりに、自分らしく頑張れば
いいとだけ話をした。

本当に長い間、私を支え続けてきてくれた
家内である。
自身が本当に職人冥利に尽きる様な仕事を
していってもらいたい。

彼女が思うとおりに生きていけることこそが、
私が彼女を支えるという事だと信じている。

いやむしろ、これから休日のすれ違いもなく、
ふたりで食事や旅行なども現実的に計画できる
ようになるかもしれない。

それはそれで、楽しみでもある。

結婚してすぐに子育てに入った事を思えば、
二人の時間を取り戻す時期に来たかとも
思うのである。





三種の神器

2019年07月07日 | ノンジャンル
これまで数えきれないほど渡航してきたが、回を
重ねるごとに、携行荷物は少なくなっていった。

初めは、あれもこれもと、結局渡航先で使うことも
なかったものを持って行ったが、今では2週間
くらいの予定なら、機内に持ち込める
スーツケース一つである。

極端なことを言えば、3種の神器ともいえる、
パスポート、財布、携帯電話さえ持っていれば、
あとはどうにでもなる。

事実、普通に出勤していて、そのまま急遽
渡航したことも多い。
無論、いつもパスポートは携帯している。

この3種の神器を断酒の三本柱に置き換えれば、
私にとっては、通院という原点がパスポート、
抗酒剤は財布、自助グループが携帯といった
ところか。

医者があきらめ、投げ出した病気である。

この3本柱によって、初めて医者も患者の回復を
期することができるようになったのである。

それは精神的依存だけではない。肉体的にも依存
している以上、いわゆる離脱症状による幻覚の
恐怖は、経験した者にしかわからない。

ブログや掲示板で断酒できるほど甘いものではない。

自身にとっては、通院は断酒そのものであり、
渡航に絶対必要なパスポートと変わらない。

簡単な話である。どれほどの弁を尽くしたところで、
パスポートなしに渡航はできない。

断酒なしに私の生きるはないのである。





カツオ

2019年07月04日 | ノンジャンル
普段、自動車で移動することが多く、
ラジオの道路情報は注意して聞いているが、
今朝のニュースでは、高速にカツオが散乱し、
片側規制となっているとの事。

ん?カツオ? カツオ!?なんで!?と、ひとりで
ラジオにツッコんでいた。

冷凍カツオを運送していたトラックの急ブレーキ、
急ハンドルで荷台の扉が開き、15トン積んでいた
カツオのうち5トン近くが道路上に散乱したとの事。

後続の車の運転手は驚いたことだろう。
ん、何か落ちている、結構多いし、ん?魚?何?
なんで?となっていたに違いない。

高速道路を走行していて、魚に出くわすなど
想定外も甚だしい。

そういえば、同じようにトラックが横転したか
何かで、積んでいた豚が逃げ出し、高速を
何頭もの豚がウロウロしているといったことも
あった。

私自身の経験としては、ペール缶が落ちていたり、
一車線をふさぐように布団が落ちていたことも
あった。

ともあれ、あり得ないことが現実に起こると
反射的に避けようとはするものの、頭は状況を
理解できていない。

事故というものはそういうことであろう。
つまり、事故後にほとんどその時のことを
憶えていないのも、想定外という面が大きい。

もっとも、予め「前方にカツオ散乱」などと
警告表示があったとしても、やはり理解できない
かもしれない。





まだ死ねない

2019年07月03日 | ノンジャンル
小学生の頃だった。4年生に上がるか、上がったかの
頃だから、10歳にもなっていなかったろう。

若い夫婦とはいえ、4人の子供を抱えて、生活は
苦しかったろう。
父親は病気がちで、収入はゼロ。
母親が働きに出て、わずかな収入でギリギリの
生活だったに違いない。

それを肌で感じていたのは私だけだった。
妹や弟達は、まだ幼い。

切羽詰まって、もう駄目だとなった時、
最後に子供たちに幸せな思いをさせてやろうと
考えたのか。

近くの大きな公園のヘルスセンターで、好きな
ものを好きなだけ食べ、遊具などで好きなだけ
遊ばせていた。

弟妹達は大喜びだったが、私には何か違和感が
あった。両親の笑顔の裏にある影を感じていた。

楽しい一日を過ごしたその夜、弟妹達はぐっすり
眠っていた。
私は、その違和感で寝付けなかった。

もちろん、両親は起きていて、二人で何か話して
いるが、よく聞こえない。

意を決して、両親のところへ行った。
驚いた顔をしていたが、私は両親に
「まだ死にたくない」とはっきり言ったことを
憶えている。

それだけ言うと、また寝床に戻った。
なんだか変な話だが、それですっきりして、
まあ、みんな一緒ならいいかという感じで、
他愛もなく寝てしまった。

朝目覚めた時、ああ、生きてるなと思った。
ということは、両親もまた、生きることを
決めたという事だ。

もう随分長い事、忘れていた。
テレビのドラマを観ていて、ふと思い出した。

自分が親の立場になって、その時を思い出した時、
よほどの事だったんだろうと思うと、自然に涙が
あふれた。

最後に子供達に幸せな思いをさせてやろうと
いうのも親心であり、死にたくないという
子供の言葉に、もう一度生きようと立ち上がった
のも、親心である。

そして私自身、もう一度立ち上がって生きようと
決めたのは、幼い子供たちを遺して
「まだ死ねない」という一心だけであった。

思い返せば、まだ死にたくないと言った夜と、
まだ死ねないと思った夜とが、記憶の中で
重なっているような気がするのである。