これまで幾度となく繰り返し述べてきたことだが、
断酒は意志の問題ではない。
正確には、この病気そのものが意志という制御作用を
麻痺させてしまう。
常に主体が自分自身であることは間違いないが、
その主体自体を主体にさせない病気なのである。
我々はまずそのことを認識することから始めるのである。
そこで、少なくとも自身を主体としていくのに必要なのが
断酒だという認識と自覚に至る。
この世に病人もケガ人もいなければ、医師という者の
必要はない。医者がいるから、病人やケガ人が出る
わけではない。
求められて現れてきたのが、医師という存在なのである。
つまり、主体は病人やケガ人ということになる。
何もアルコール依存症に限ったことではない。
病気やケガからの回復は、主体である自分自身の治癒力、
つまり治りたいという願望、治そうとする意志である。
その主体的な自身を取り戻すことが、初期段階での
医師の手助けとなる。
取り戻したなら、その主体を再び失うことがないように
維持していくことは、医師の問題ではなく、
意志の問題となる。
医療であれ、自助グループであれ、抗酒剤であれ、自身の
主体を失わないために必要であるなら、それは間接的な
助けとはなるだろうが、断酒の根本は主体たる自身の
願望と意志であることに変わりはない。
医療に治してもらう、自助グループに断酒を続けさせて
もらう、抗酒剤によってお酒を飲めなくさせる。
受動的な表現は、婉曲的な表現としても用いられるので
謙虚さがないと誤解されると困るのだが、
治すのは自分であり、断酒を続けるのも自分であり、
お酒を飲まないとの覚悟で抗酒剤を服用するのも
自分なのである。
「なぜ自分は断酒しているのか。」
何年経とうが、いや、むしろこの課題は、死ぬまで
自身に問い続けていくべきものであるだろう。
今の私にハッキリと見える答えは、
「ありのままの自分らしく生きるため。」
なのである。
断酒は意志の問題ではない。
正確には、この病気そのものが意志という制御作用を
麻痺させてしまう。
常に主体が自分自身であることは間違いないが、
その主体自体を主体にさせない病気なのである。
我々はまずそのことを認識することから始めるのである。
そこで、少なくとも自身を主体としていくのに必要なのが
断酒だという認識と自覚に至る。
この世に病人もケガ人もいなければ、医師という者の
必要はない。医者がいるから、病人やケガ人が出る
わけではない。
求められて現れてきたのが、医師という存在なのである。
つまり、主体は病人やケガ人ということになる。
何もアルコール依存症に限ったことではない。
病気やケガからの回復は、主体である自分自身の治癒力、
つまり治りたいという願望、治そうとする意志である。
その主体的な自身を取り戻すことが、初期段階での
医師の手助けとなる。
取り戻したなら、その主体を再び失うことがないように
維持していくことは、医師の問題ではなく、
意志の問題となる。
医療であれ、自助グループであれ、抗酒剤であれ、自身の
主体を失わないために必要であるなら、それは間接的な
助けとはなるだろうが、断酒の根本は主体たる自身の
願望と意志であることに変わりはない。
医療に治してもらう、自助グループに断酒を続けさせて
もらう、抗酒剤によってお酒を飲めなくさせる。
受動的な表現は、婉曲的な表現としても用いられるので
謙虚さがないと誤解されると困るのだが、
治すのは自分であり、断酒を続けるのも自分であり、
お酒を飲まないとの覚悟で抗酒剤を服用するのも
自分なのである。
「なぜ自分は断酒しているのか。」
何年経とうが、いや、むしろこの課題は、死ぬまで
自身に問い続けていくべきものであるだろう。
今の私にハッキリと見える答えは、
「ありのままの自分らしく生きるため。」
なのである。