ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

底を打つ

2008年03月13日 | ノンジャンル
断酒を決断し、継続していくにつき、しばしば底打ちをしたか
どうかが問題とされる。
この底打ちをしていないとスリップを繰り返し、断酒継続が
難しいというのも通説である。

何をもって底打ちとするのかは、人それぞれであろうが、
結論的に言えば本人が身をもってお酒を断つ意識と自覚に
立たざるを得ない状態に至らないと如何ともし難い。
いくら知識があっても、それは一つの歯止めとはなるが、本人の
情念が高まれば飲み込まれて、脆くも崩れ去る事は明白である。

実際に継続している人の話を聞くに、本当にこれ以上は無いと
いうほどのひどい経験を経て、ようやく断酒へと繋がった
ケースは珍しくない。
もう少し早い段階であったらという方も多いが、現実的には
その段階では底打ちがされていない以上無理だったのである。

どれほどひどい体験、経験をしてきたかという事を競って自慢
し合うようなバカバカしさは別として、現実的には、自分の
身をもって学び、気付かない限り、断酒継続というのは難しい。

早く気付いて、早く断酒するもの勝ちとも言われるが、これが
なかなか出来ないのも、この特異な病気の厄介さであり、
だからこそ周りに理解をしてもらおうなどという期待を持つべき
ではなく、また、期待出来ることではない。

病気の進行に伴い、自己中心的な考えに囚われてしまう以上、
その再起を期するのは、何がしかのきっかけを必要とはするものの、
自分自身の決断と奮起によるしかないのである。

一口に底打ちといっても、その人の性情、考え方、生きてきた環境、
置かれている立場などによって、千差万別で、その人にとっての
底打ちは、他の人の底打ちとはならない。
つまるところは、本人がもうそこより下は無いと実感するほどの
頭打ちをして、さて生きるか死ぬか、生きたいか死にたいかという
ギリギリのところを見た上で、決断したのが断酒して生きる事で
あったなら、その人は断酒を継続して行ける事となるだろう。

私の場合はというと、家族を失うギリギリ、仕事を失うギリギリ、
命を失うギリギリのところで、断酒に繋がった。
つまり、何も失っていないのである。であるのに、自身は底打ちを
したと自覚している。
全てを失って、どん底にまで落ちたという人から見れば、
全然底打ちなどしていないように見えるだろうが、仮に全てを
失ったとしても、底を打たない人は多くいるのである。

少し極端な例ではあるが、ビルから飛び降り自殺をして、
九死に一生を得たとしよう。
外から見れば同じではあっても、実際に飛び降りた人の状況に
よっては、その意味は大きく異なる。

飛び降りた瞬間、恐怖によって気を失えば、その瞬間の恐怖は
覚えているだろうが、助かった後にはそれも夢の中であったかの
ように感じるであろう。
これでは、九死に一生というあり得ない体験をしているにも拘らず、
底打ちとはなりにくい。

ビルから飛び降り、頭を下方向に、目はまっすぐに猛スピードで
近づく地面を見据え、数秒の間にめまぐるしい想いが駆け回り、
後悔など何の意味もない現実を感じ、いよいよ地面にぶち当たり、
肉が散り、骨が鈍い音を立てながら潰れる音までを意識した瞬間に
気を失った場合、助かった後にはその生々しい記憶が鮮明に
よみがえる。
これを、底打ちと言わずして、一体なんであるというのか。

私の底打ちというものは、そういうものであると感じている。