ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

経験という琴線

2008年03月15日 | ノンジャンル
歳を取ると涙腺が弱くなって、ちょっとしたことにも鼻の奥が
苦酸っぱくなり涙ぐむ。
物に感じやすくなっていくのであろうが、それだけ様々な経験を
積み重ねてきたという事であろう。

経験は自身の心の琴線を増やしたり、太くしたり細くしたりする。
つまり、若い頃には何とも思わなかったことでも、それが触れて
響く琴線を持つようになってくれば、心が奮える。

人はそれぞれの経験に応じて、それぞれの琴線を持つようになる。
センサーが敏感に、多様になればなるほど、物事に反応しやすく
なるのである。

人の痛みを自分の痛みとし、人の悲しみを自分の悲しみとし、
人の喜びを自分の喜びと出来る琴線を持つ人は、悲しみや喜びも、
辛さや苦しさも自ら経験し、自らの感受性を高めてきた人であろう。

仮に直接的に響かなくとも、似通った琴線を自ら弾くことで、
苦しみを分かち合い、互いに前進していけたなら素晴らしいと思う。
ただ単に琴線に触れて響くだけなら、それはともすれば
共振となって、互いに後退することにもなりかねない。

出来る事なら、自ら琴線を弾きたいと思い、その弾く琴線が
より多種多様でありたいとも思うのである。

その思いとは裏腹に、自分にとっては最も難しいことでもあると
自覚している。
響こうとする琴線を抑えて、その響きを止める事を男らしさと
考えてきた節があるからだ。

だが、琴線がなければ響くものは何も無い。
少なくとも響くものは確実に積み重ねてきたといえるので、
あとはそれを抑えないで響かせるか、あるいは自ら弾くかである。
自ら弾けるようになった時、それも一つの大きな成長で
あるかもしれない。