ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

恒常への憧憬

2007年04月25日 | ノンジャンル
幸、不幸というものは、自他及び事象に対する認識能力を
持つ人間のみが問題とする事であって、これまで無数の
人間が生死を繰り返してきたにも拘らず、一人として同じ
人間がいないが故に、その定義というものは存在し得ない。

つまり、同じ状況であっても、幸、不幸は、その人自体の
資質と状態に左右される観念によって決定される為、
普遍的な定義はあり得ない。
強いて言えば、生きる事が楽しいか、苦しいかによって、
その人における幸、不幸がその時点では顕在化している。

ただ、生死というものを認識している中で、自身を含め、
一切の万物が無常であり、変転し続けている事を無意識下で
覚知している以上、楽しいか、苦しいか、幸か、不幸か
という事自体も、虚しいものという、まだ浅い領域に
思考が到達した時、人は誰でも死というものを、目下の
急務として捉えてしまう。

自身の内面を深く掘り下げて観じる事をしていく時、
ある地点でこの「無常」という一つの階層に達する。
これを最後の本質と捉えてしまえば、残された道は、
死しかない。
事実、この地点で無常を観じ、死を選んだ人の何と多い
事かは、計り知れない。

内に向けてより深きへ進む思考と、外に向けて無限へと
拡がる思考は、突き詰めれば、同じものへと通じるに
違いないが、そこへ到達するのは、人智のみをもってしては、
不可能であろう。
ここに一つの越えられない限界があるように思えてならない。


東洋的思考は、自己を大海に溶け込んだ一滴として捉え、
西洋的思考では、大海を構成している一滴として自己を
捉える。
いずれにせよ、志向しているところは同じであり、永遠に
変転を繰り返す中で、逆に永遠に変らない恒常的なものに
対する憧憬をもっている。

それは、神であり、仏であり、原理であり、法則である
かもしれない。
形あるものとして作られたものではなく、厳然と存在する
原理、法則を見出して、その普遍性を実証する事が、科学の
使命と歴史であると同時に、人間の憧憬でもある。
現代に至るまで、限りない実証が積み重ねられてきたことは
事実だが、実は、最も根本的な問題である、生命という
領域においては、不可思議で解明出来ていない事の方が
遥かに多いのである。
これと同様に、宇宙というものの領域も、難しい問題では
あるが、外へと志向する象徴的対象が宇宙であるならば、
内へと志向する象徴的対象は生命であり、外へ、内へという
ベクトルは違うように見えて、しかしながらその到達点は
同じという事にならないか?

つまり、内なる生命、外なる宇宙は、そのまま、内なる宇宙、
外なる生命ともみなす事が出来るのではないかという
事なのである。

そこには、厳然と、創られたものではない、本然的な
原理とも法則ともいうべき、「恒常的」なものが存在する
はずである。
その存在に対する憧憬が、その存在を神としたり、仏とした
のかもしれないが、いずれにせよ、流転の波に翻弄されながら
生きている凡人たる私には、その「恒常的」な存在を
覚知するには到底及ばず、ひたすら求め、憧れているに過ぎない。

ただ、ひたすらに求める事をやめないとき、何があろうとも
生き続ける事は出来るであろうし、憧れ続ける限り、自ら死を
選ぶような理由は雲散霧消して、今を生きる自身に問われている
事を追い求めるのみである。

この一生で、果たしてその本然的な存在を覚知できるかは、
甚だ疑問だが、少なくとも死を迎えるその時まで、憧れ、求める
姿勢を失いたくはないと思うのである。

生命とは、本来、輝きをやめないものだと確信している。