ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

愚痴

2013年01月30日 | ノンジャンル
人間、だれしも愚痴を言いたくなる時はままあるのだが、
亡くなった母親が、愚痴をこぼすのを聞いた記憶がない。

それ以上に、他人のことをとやかく言うようなことは
本当になかった。

なにも人間ができていたからでもないと思うが、
言ったところで仕方がないことは言わない主義だった
ようである。

もちろん、女性にとっての愚痴や他人の陰口は、
ある意味、精神安定的な要素があってそれをなしに
している以上、心の負担となる場合もあったかと思う。

ご近所の母親の友人はまるで正反対の人柄で、
陰で悪口を言うことはしないが、本人を前にして
ずけずけとダメ出しをする人であった。

それが不思議と言われた人の恨みを買うことはなく、
独特の温かみのある人である。

母親が何も言わない分、その友人があっけらかんとした
物言いをするので、いわゆるこのコンビでバランスが
取れていたように思える。

人の関係というのも、同じような似た者同士の
間柄よりも、まるで正反対といった間柄の方が
互いに益するものも多く、何より一緒にいて楽しい
のではないかと思う。

夫婦にしても、離婚の原因に性格の不一致だとか、
価値観の相違だとかいう言葉をよく聞くが、
それはむしろ、夫婦円満の秘訣ではないのかと思う。

初めから、男と女という決定的な相違がある。
その相違がそもそも、結婚に至る大前提である。

その相違を初めからなしでということであれば、
それは同性愛となってしまう。

話がそれたが、愚痴は、愚の字もおろか、
痴のじもおろかと読む。
人情としてはわかるが、どれほど愚痴を言ったところで、
他人の悪口を言ったところで、自分自身が一ミリでも
成長するわけではないし、良くなるわけでもない。

またそれは愚痴られる方、悪口を言われる方にも
同じことである。

陰口をたたくくらいなら、本人にズバリの
ダメ出しをすれば良し、まして、他人のことを
とやかく言っている間は自分自身、まだまだ駄目で
あると教えられ、心からそれに納得している私は、
やはり母親似ということか。

要するに自分にとっても相手にとっても、何の得にも
ならないことに時間を費やすことを愚かというのである。