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世紀末ウィーンとユダヤ人

2022年09月22日 | トリエステ・オーストリア・ハンガリー帝国

オーストリア・ハンガリー帝国、ヒットラーの出身国の同化ユダヤ人たちの様子。

「ユダヤ人は(ナチスドイツ以前に)ゲットーにしか住めなかった」「差別されて気の毒な人々だった」というのも本当なのだけど、成功者のユダヤ人にはパラダイスもありました。

ウィーンに集まったユダヤ人たちには、ハンガリーのユダヤ人(と言っても、この時点でキリスト教に改宗した人は少なくなかったと思います。)がいたと思います。

また、音楽家のマーラーはカトリック改宗をしたユダヤ人と言うのは知られていますが、元ユダヤ人ではないか・・とされる有名音楽家、芸術家は少なくないです。(オーストリア、ハンガリー以外でも。)

世紀末ウィーン - Wikipedia

抜粋:

19世紀中葉以降、ウィーンに流入したのはポグロムを忌避した東欧ユダヤ人ばかりではなかった[53]。世紀転換期のウィーンに住むユダヤ人には、ボヘミア、モラヴィア、ハンガリーなどにおけるドイツ語圏からウィーンにやってきて同化した人々も少なくなかった[53]。周辺諸国ですでにドイツ語教育を受け、財力を蓄えていた中流以上の人々もビジネス・チャンスを求めてウィーンにやってきた[53]。まもなく彼らはウィーンに同化し、やがて社会のエリート層を形成していった[53]。バイエルン州フュルト出身の作家、ヤコブ・ヴァッサーマン(1873年 - 1934年)は1921年に著した自伝のなかで、19世紀末にウィーンを訪れたときの回想として、故郷ではユダヤ人と会うことさえ滅多になかったのに、ウィーンでは「完全に社会生活がユダヤ人によって仕切られていた。銀行、新聞、劇場、社交的な行事、そうしたことのすべてがユダヤ人の手中にあった。…私はユダヤ人の医者、法律家、クラブのメンバー、俗物、伊達男、プロレタリア、俳優、ジャーナリスト、詩人のおびただしさに驚いた」と書き記している[61]。

ウィーン大学の学生は1880年代において3分の1がユダヤ人で占められ、法学部で22%、医学部では38%にのぼっていた[53]。医学部のユダヤ人学生は1890年、1914年にはそれぞれ48%、50%にまで上昇した[53]。大学教員では、1910年段階で法学部教員の37%、医学部教員の51%がユダヤ系であった[53]。ただし、これらはほとんど無給の教員で、ユダヤ系で有給の正教授は各学部でひとりずつしかいなかった[53]。高級官僚などと同じで、ユダヤ系の学者が大学の正教授になるにはキリスト教への改宗が義務づけられていたからだった[53]。

医師のうちユダヤ教徒の占める割合は、1881年には61%にのぼっていた[53]。弁護士は1890年には58%で1936年には62%であった[53]。これはユダヤ系ではなくてユダヤ教徒の数字なので改宗者も含めれば割合はさらに増加する[53]。ウィーンではユダヤ教徒は公務員になれなかったので、改宗しない限り検事や裁判官にはなれず、そのため、そうした制約のないユダヤ人弁護士は増加の一途をたどったのであった[53]。また、上述のとおり、ジャーナリズムへのユダヤ系の人々の進出には著しいものがあった[53]。その他の職業では、銀行家の75%、鉄・金属取引のほぼ100%、広告宣伝業の96.5%、靴、織物、砂糖、石油、材木・製紙、ワイン商の約7%、宝石商、カフェ・オーナーの約40%がユダヤ系で占められていた[53]。

二重帝国とその周辺国から「教養」の理想と自由主義を求めてウィーンに居を移し、少なからぬ差別に遭遇しながらも人一倍の努力を傾けて同化したユダヤ系市民は、自らの「同化」については寸分の疑問も持たなかった[62]。ウィーンのユダヤ系住民の多くは真剣に自分たちの街を愛していたし、シュテファン・ツヴァイクの指摘によれば、15世紀のスペインを除けば、19世紀末のウィーンほどユダヤ人とキリスト教徒との間で実り豊かな協力関係を築き上げた例は他になかった[61]。

シオニズムに身を投じた一部の例外を除けば、ユダヤ系の人々の多くはいかなる民族運動にも加わることなく、ハプスブルク帝国に忠実であり続けた[63][注釈 9]。第一次世界大戦にあってもウィーンのユダヤ人のうちの数千人が帝国のために戦い、その多くが祖国に殉じた[64]。彼らは、自身がオーストリア人であり、ウィーン市民であることには何ら疑問をいだかなかった。

ただし、ユダヤ系知識人が同化しようとしたのはオーストリアという国家であるよりは、むしろ、彼らの心のなかに生き続けた観念的な「ドイツ」、「すべての人間が自由に生きられる約束の地」であるところの「ドイツ」であったという指摘がある[65][62]。それによれば、実際のドイツがゲーテの昔からいかにかけ離れたものであっても、たとえばアルトゥル・シュニッツラーやジークムント・フロイトらは心のなかの「ドイツ」への愛着を捨て去ることができなかったのであり、たとえ「教養」の内実が虚飾にまみれたものであっても、彼らは「教養」の理想を放棄することはできなかったのである[62]。

諸芸術のなかで、美術・工芸・建築分野、音楽分野におけるユダヤ人については後述する通りであるが、これに比較して文学に占めるユダヤ系作家の割合は大きかった[66]。ツヴァイクが挙げた9割という数字は、いささか誇大に過ぎるとはいえ、1891年にシュニッツラーがリストアップした23人の重要作家のうち16名はユダヤ系で、全体の7割におよんでいた[66]。個人主義ないしコスモポリタニズムとしての「教養」の理想は、やがてナチスが掲げる理想とは正面から衝突し、のちにナチスによるユダヤ人虐殺という大きな悲劇を産んだ[62]。ウィーンはユダヤ人とともに繁栄してきた街であったが、同時にユダヤ人を差別し、やがてユダヤ人たちを無慈悲にも追放したのであった[53]

(中略)

しかし、ウィーンの近代アートを支援してきたパトロンは圧倒的にユダヤ系の人々が多かったことが指摘されている[66][65]。後述するカール・ウィトゲンシュタインやフリッツ・ヴェルンドルファーのほか、モーザーを支援したカール・フェルディナンド・マウトナー=マルホフ[92]、シーレ作品を収集したハインリヒ・リーガー、ロースの施主となったレオポルド・ゴルドマンなどがおり[93]、美貌で知られ、クリムトの肖像画のモデルにもなったゼレーナ・レーデラー(ドイツ語版)(旧姓ピューリッツァー)は、1918年のクリムトの死ののち画廊に自動車で乗り付け、そこで展示されていたクリムトの遺作約200点をすべて言い値で購入した[94]。レーデラー家はまた、ウィーン大学に拒否されたクリムトの天井画群のほか、彼の絵画作品やデッサンを数多く購入している[94]。ウィーンではこれほどまでにユダヤ系パトロンの存在が大きかったのは何故なのかについては、十分な解明がなされているとは言い難いが、ひとつにはベルリンなどでは国立の美術館も近代アートを支援していたのに対し、ウィーンでは市や国からの援助が乏しく、いきおい私的な支援に頼らざるを得なかったという事情も影響していると考えられる[93][注釈 13]。

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