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トリエステの近現代史-3(Tiger・ムッソリーニ)

2022年12月22日 | トリエステ・オーストリア・ハンガリー帝国

イタリア在住ユダヤ人の中で、ファシスト支持が多いことを不思議に思っていましたが、トリエステの歴史をみれば、それもわかるような気がします。

トリエステがイタリア領に戻った時、イタリアはスロベニア人やクロアチア人から言葉を奪いました。そこでTIGRなどのテロ組織・反ファシストが出来上がります。

TIGR - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

TIGR、Trst、Istra、Gorica、および Reka の略語、正式名称 Julian March T.I.G.R. の革命組織。 (スロベニア語: Revolucionarna organizacija Julijske krajinine T.I.G.R.) は、第一次世界大戦後にイタリアの一部となった旧オーストリア ハンガリー領の一部で、スロベニア人およびクロアチア人のファシストによるイタリア化への対応として設立された反ファシストおよび反乱組織でした。 第二次世界大戦、当時はユリウス行進曲として知られていました。 それは、ヨーロッパで最初の反ファシスト抵抗運動の 1 つと考えられています [1][2]。

 バックグラウンド

ラパッロ条約と、スロベニア民族領土の 4 分の 1 と 130 万人のスロベニア人のうち約 327,000 人を含むスロベニア民族地域のイタリア化。現在のスロベニアとその伝統的な地域の地図上 '境界。 オーストリア=ハンガリー帝国は多国籍帝国であり、さまざまな人々や民族グループに比較的大きな文化的自治を認めていましたが、イタリアは国民国家であり、その政府は独立した国家運動の存在を許可するつもりはほとんどありませんでした. そしてその領土のアイデンティティ。 行政と教育制度におけるスロベニア語とクロアチア語の使用に関する問題は、イタリア当局とスロベニア語とクロアチア語のマイノリティとの間の主な争点となった.

ファシスト運動が 1922 年に権力を握った後、イタリア化の一環として反スラブ政策が実施されました。 1923 年、郵便局や公共交通機関を含むすべての公務でスロベニア語とクロアチア語の使用が禁止されました。 同年、異邦人の改革により、イタリア語が公教育の唯一の言語であると宣言されました。 1928 年までに、私立を含むすべてのスロベニアとクロアチアの学校が閉鎖されました。

1925 年、スロベニア語とクロアチア語の使用は法廷で禁止されました。 スロベニア語とクロアチア語の町や集落の名前はすべてイタリア語化されました。 1927 年までに、スロベニア語とクロアチア語の公的な使用はすべて禁止されました。 子供にスラブ語の名前を付けることは禁止されており、スラブ語に聞こえるすべての姓は管理上、イタリア語に聞こえる形式が与えられていました。 ファシストのイタリア化は、墓石にスラブ語の碑文を禁止した.[要出典] 1927 年までに、スロベニアとクロアチアのすべての団体 (政治団体だけでなく、文化、教育、スポーツ団体も含む) が解散し、スロベニアとクロアチアの少数派の手にあるすべての金融および経済機関も同様でした。

1928年から、州法は教会でのスロベニア語とクロアチア語の使用を制限し始め、1934年には、ローマカトリックの典礼(歌と説教を含む)でのスロベニア語とクロアチア語のすべての使用が禁止されました. この政策の影響で、何万人もの人々が国外に移住し、主にユーゴスラビアと南アメリカに移住しました。

(後略)

 

イタリアでは、あまりユダヤ人が差別されているわけではなかったし、世俗的ユダヤ人が多かったと思います。そうした差別される歴史を持った人たちが「多数派」になって過激になることもあったでしょうし、それより、「ユダヤ人というよりイタリアの愛国者」となっていたユダヤ人、ユダヤ系にとっては「イタリアのファシスト党」が必ずしも悪いものだったのではないか、と思います。

 

ムッソリーニの方は別に反ユダヤではありませんでしたから、ユダヤ人たちが協力してくれるのはウエルカム。

イギリス政府から支援を受けて政界進出したようです。

ベニート・ムッソリーニ - Wikipedia

抜粋:

1917年、ムッソリーニは参戦運動以来の繋がりがあったイギリス政府から初代テンプルウッド子爵サミュエル・ホーア(英語版)を通じ、政界進出に向けた資金援助を受け始めた[85]。政治活動においてムッソリーニは「祖国に栄光を与える、精力的で断固たる態度を持った人物」の登場が必要だと説いた。

ムッソリーニ以上に過激なナショナリストがいて、彼が最初に活動を起こしたのが、チロル、トリエステを取り戻したときに取り戻せなかったトリエステのお隣をチリ戻そうとしたイタリアの作家。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオ - Wikipedia

初代モンテネヴォーソ大公ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio[1], Principe di Montenevoso、1863年3月12日 - 1938年3月1日)は、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで有名。

(中略)

第一次世界大戦の開戦とともにイタリアに帰国したダンヌンツィオは、大衆に向けて連合国側に立っての参戦を訴える演説を行う。彼自身は志願して戦闘機パイロットとして参戦、飛行中の事故で片目の視力を失う。1918年8月9日には第87戦闘機中隊を率い、700マイルの往復飛行を行いウィーンにプロパガンダ用のビラを撒布するという業を演じた(ダンヌンツィオのウィーン上空飛行(英語版))。またこの大戦中、イタリア軍に義勇兵として参加従軍した日本人下位春吉と意気投合し、親交を深めた。

彼の国家主義的立場はこの大戦の経験により、より強固なものになった。彼はイタリア国内で広く政治運動を行い、イタリアが大戦中に得たヨーロッパの一等国としての役目を戦後も果たしていくべきだと主張した。パリ講和会議で、フィウーメ(いわゆる未回収のイタリアの一部。現クロアチア領のリエカ)をセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)に割譲すべしとの結論が出されたことに激怒したダンヌンツィオは、1919年9月12日、ロンキ・ディ・モンファルコーネから、自らを「司令官」(イタリア語: Comandante)とする「軍団」(イタリア語: Legionari)と称されるイタリア人武装集団を率いて進軍し(ロンキ進軍)、フィウーメ市を占拠、アメリカ、イギリス、フランス3軍から組織された守備軍を追放した。

この時のダンヌンツィオのスローガンが「全ての抑圧された人々の解放」であり、十月革命を支持するというものだった。この行動からダンヌンツィオはウラジーミル・レーニンに「革命家」として絶賛される[要出典]。 彼らはイタリアによるフィウーメ併合を要求した。これはイタリアの悲願でもあったが、国際関係の悪化を懸念してイタリア政府は国境線を封鎖、武装組織の投降を促した。

そこでダンヌンツィオは1920年1月に政府首班として元イタリア社会党員でアンジェロ・オリベッティ(it:Angelo Oliviero Olivetti)とともに「Pagine libere」を書いた革命的サンディカリストのアルチェステ・デ・アンブリス(it:Alceste De Ambris)を任じ、9月にデ・アンブリスによって後のイタリア本国のファシスト国家機構の先駆となるカルナーロ憲章(it:Carta del Carnaro)が発布、フィウーメの独立を宣言した(カルナーロ=イタリア執政府)。

更に彼は国際連盟に対抗する組織を計画、被抑圧民族(例えばフィウーメのイタリア人、バルカン半島のスラブ人民族分離主義者など)を糾合することを構想したが、これは失敗した。彼は1920年のイタリアとセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国間のラパッロ条約(1922年の独ソ間の条約と異なるので注意)を無視し、イタリア本国にまで宣戦布告したが、イタリア海軍による艦砲射撃を受け、12月に投降した。 フィウーメ占拠事件後のダンヌンツィオはガルダ湖畔の自宅に隠退し、著作活動を行った。

しかしフィウーメ時代の側近との連絡を保っており、政界に隠然たる勢力を持っていた[3]。彼はムッソリーニに多大の影響を与えたのは事実だが、彼自身は後のファシスト政権に直接関与したことはなかった。1922年のファシスト党によるローマ進軍の前後には、彼の声望を利用してファシスト党の行動を抑制しようとする動きがあり、ダンヌンツィオとその側近も同様の考えを持っていた[4]。8月3日にはファシスト行動隊に占拠されたミラノで演説を行っているが、その演説はむしろファシスト党の行動に反対するものであった。しかし美しいがレトリックに富み、難解な彼の演説はむしろファシスト党を激励する物と受け止められ、ファシスト党も「英雄が我々を支持した」とおおいに利用した[5]。ダンヌンツィオは旧敵であり、野党の領袖であったフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ元首相に呼びかけ、ムッソリーニとの三者会談を開催する合意を取り付けた[6]。ところが8月13日にダンヌンツィオが自宅の窓から転落して重傷を負ったため、この三者会談は実現しなかった。ダンヌンツィオは生涯この事故の詳細について語らなかったため、真相は不明である[7]。9月にはけがから回復し、ムッソリーニと何度か会談しているが、ファシスト党はダンヌンツィオを出し抜き、政権掌握を実現した[8]。

ムッソリーニは国民的英雄であるダンヌンツィオを尊重してみせたが、実際の権力は一切渡さなかった。1924年には国王より"it:Principe di Montenevoso(モンテネヴォソ公爵)"[9]の称号を送られている。1937年にはイタリア王立アカデミーの総裁に就任、1938年3月1日、自宅で脳卒中により死去。ムッソリーニにより国葬され、ガルドーネ・リヴィエーラの別荘に設けられた霊廟に埋葬された[1]。

ダンヌンツィオは思想・手法の両面においてイタリア・ファシズムの先駆であったとしばしば見做される。彼自身の政治信条は、デ・アンブリスと共同で起草したそのカルナーロ憲章によく現れている。この憲法では協調組合主義(コーポラティズム)による国家観がとられており、それらは労働者、雇用者および自営業者・専門家をそれぞれ代表する9つの組合、および(ダンヌンツィオの創始した)「優越した人間」(英雄、詩人、預言者、超人たち)を代表する第10の組合からなるとした。またこの憲法では音楽を国家の最高原理であると規定していた。

ムッソリーニがダンヌンツィオから模倣し習得したのは、その独裁政治の手法、つまり、協調組合主義による経済政策、大規模で感情に訴える大衆行事、ローマ帝国時代を真似たローマ式敬礼、聴衆に対する誇張に満ちた質問の問いかけ、黒シャツ隊による反対者への脅迫・暴力的弾圧など、である。

ダンヌンツィオはイタリアの拡張主義的外交政策を支持しており、エチオピア侵攻を賞賛していた。

ダンヌンツィオはまた、政治的反対者を拘束して多量のひまし油を飲ませることで衰弱させ、場合によっては死に至らしめるという拷問の創始者であるとも言われている。この方法はムッソリーニの黒シャツ隊の常套手段となる。

(後略)

カルナーロ=イタリア執政府 - Wikipedia

ダンヌンツィオは1938年に亡くなり確か彼は(ヒトラーと組む前の)ムッソリーニと同じく、反ユダヤではなかったはずです。

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