Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

「私は正義を信ずる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」と言ったカミュのジレンマ

2013年02月04日 | 人物

カミュの自伝的遺作『最初の人間』が映画化されています。

『最初の人間』公式サイト

http://www.zaziefilms.com/ningen/index.html

この公式ページのなかで、フランス文学者の海老坂武氏が寄稿されているもののリンクと全文を貼り付けます。

『カミュとアルジェリア』 by 海老坂武氏

http://www.zaziefilms.com/ningen/camus.html

アルベール・カミュは1913年11月7日、アルジェリア東部の港町ボーヌ(現アンナバ)に近いモンドヴィ村で生まれた。ワインの輸出業リコム社に勤めていた父親リュシアン=オーギュストがこの農場のぶどう園の管理を委ねられていたからである。

しかし、第一次大戦の勃発(1914年夏)とともにリュシアン=オーギュストは動員され、マルヌの戦いで砲弾を受けて入院、10月11日に死去した。遺体は入院先のサン・ブリユー(ブルターニュ地方)の墓地に埋葬された。映画は、この父親の墓地を息子が訪れるところから始まっている。父親はアルザス出身の移民一代目、とカミュは家族から聞かされ、そう信じきっていたが、近年の研究ではボルドー近辺出身の曾祖父が一代目、カミュの父は三代目ということがわかっている。

夫を失った母親(彼女もまたスペイン系移民の三代目)はそのショックで難聴になる。そして二人の息子、四歳のリュシアンと生後9カ月のアルベールとを連れてアルジェの貧民街にある彼女の母の家に居候となる。冷たく、厳しく、押し付けがましい祖母、愛情を言葉で示す事の出来ない寡黙な母親、そして勉強机も本もない貧窮の中での生活、その貧しい家での母と子との生活は、最初のエッセイ集『裏と表』(1937)との重要な主題となるであろう。

しかし、少年アルベールは少年時代決して不幸ではなかったようだ。なによりも<太陽>と<海>とがあった。「私の少年期を支配していた太陽は、私から一切の怨恨を抜き取った」と彼は後に書いている。そして木曜と日曜とにはボールを蹴ることに夢中になるサッカー少年だった。 

先生にも恵まれた。いち早く少年の才能に目をとめた中学校のジェルマン先生、高校の哲学級で出会い、少年の病(結核)を心配し続けたジャン・グルニエ。カミュはこの『孤島』の作者を生涯敬愛し続け、グルニエもこれに答えた。カミュの死後にグルニエが書いた追悼文は次の美しい句で閉じられている。

「小さな火花のつぎに大きな炎が続く」

大学卒業後もカミュは定職につかず、家庭教師をしたり、巡業役者をしたり、弁士をしたり、新聞原稿を書いたりしながら貧乏生活を続けていた。その間に結婚もしている(一年後に離婚)。最初の定職は1937年から気象学研究所、その次が 38年にアルジェで創刊された左翼系の新聞アルジェ・レピュブリカン紙である。カミュが記者としてアルジェリア北東部のカビリー地方の悲惨な状況についてこの新聞にルポルタージュを書き、植民地体制をいち早く告発したことは忘れられてはならない。 

39年9月第二次大戦の勃発とともに新聞の検閲が激しくなり、アルジェ・レピュブリカン紙の後を継いだソワール・レピュブリカン紙は廃刊に追い込まれる。失職したカミュは友人の紹介でパリ・ソワール紙に勤め口を見つけ40年3月本国に向う。40年6月フランスの敗北とともに各地を転々とし、一時期は二番目の妻の郷里であるオランに帰っているが、42年7月からは結核の療養をかねてまたフランスへ。しかし11月、英米軍がアルジェに上陸したため、アルジェリアはドイツ占領下のフランスと切り離され、カミュは故郷に帰れなくなる。しかし『異邦人』(1942)『シジフォスの神話』(1942)が評価され、彼はガリマール書店に職を得て43年の暮れからはパリに住み始める。

その後のレジスタンスにおける活動、コンバ紙による言論活動、『ペスト』の刊行(1947)によって、カミュは作家としての地位をかため、戦後フランスの知的世界に大きな影響を与えた。この時代、パリに居を構えながらもほとんど毎年のようにアルジェリアを訪れている。あるときは子供たちと一緒に妻の出身地であるオランに、あるときは骨折をした母の手術に立ち会うために、またあるときは彼の知らないサハラ砂漠を旅するために。一時期は、パリの社交的な生活が厭になったのだろう、アルジェリアに引きあげることを考え、友人に家探しを頼んだりしている。 

1954年11月1日、アルジェリア全土で民族解放戦線(FLN)が一斉に蜂起した。フランス政府は戦争と認めなかったが、一般にはアルジェリア戦争と呼ばれるこの抗争は、1962年のアルジェリア独立まで続く事になる。

当初のカミュはオプティミストで、55年2月、アルジェを訪れたときの新聞インタヴューでは、自分のインスピレーションの源泉であるアルジェで一年のうち6ヶ月は過ごしたいとのんびりしたことをしゃべっている。彼の政治的立場も当初は明快であった。55年6月には、週刊誌で、アルジェリア<叛徒>のテロリズムを非難すると同時にフランス軍による武力弾圧を告発し、解決の道として、フランス人とイスラム教徒の真の代表を選ぶ公明な選挙を提唱している。彼の頭の中にアルジェリアの独立という文字はなく、二つの民族の両方に権利を保証するような連邦制の共同体というのが彼の構想であり、立場だった。900万人のアルジェリア人の民族解放が100万人のフランス系住民の追放を必要とするとは考えていなかったのである。 

しかしこうしたオプティミズムは、1956年1月以後次第に打ち崩されていく。この月カミュは、フランス側のリベラル派とイスラム穏健派とで市民休戦委員会を作り、そのアピールを出す目的でアルジェを訪れたのだが、情勢はすでに緊迫化していた。極右植民地主義勢力は軍の一部を巻き込んで、自分たちの権益をまもるためにイスラム教徒に譲歩する気配はなく、カミュの講演会を自分等に対する挑戦と受け止め、当日、講演会の会場周辺の広場には千人をこえる極右のデモ隊が押し寄せた。他方、アルジェリア人も千人を越える数でいざというときに備え 広場の近辺に待機していた。映画にあるカミュの講演会はこうした雰囲気のなかで行われたのである。 

デモ隊の中から発せられた「カミュを銃殺せよ」の声は彼にとって大きな衝撃であったろう。さらにその二週間後、内閣が変わり、アルジェ総督に強硬派のラコストが任命された。これによってカミュは、自分の構想が活かされる場がないことを悟ったのだろう、以後、アルジェで逮捕された友人の釈放運動には関与したが、アルジェリア問題について発言をすることは一切拒否するようになる。 

カミュのこの沈黙はしばしば批判の対象になった。フランス軍による残虐行為、拷問が明るみに出たときに、多くの知識人が抗議の声をあげたが、カミュは発言をしなかった。しかし1957年ノーベル賞を受賞したときにはこの沈黙を破らざるを得なかった。ストックホルムでの多くの質問が此の点に集中したからである。しかし、双方の側の暴力と殺人を拒否するという、それまでに語ってきた以上のことを語りえたわけではない。学生たちの討論会の席上での一つの発言はよく知られている。 

「私は正義を信ずる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」。 

彼は正義が解放戦線の側にあると考えていたのだろうか。にもかかわらずFLNの支持に踏み切れなかったのは、無差別テロの危険が母親に及びうるというこの一点だったのか。レジスタンスのときには暴力も殺人もカミュは受け入れたのに、という批判に対してカミュは答えるすべを知らなかった。 

1958年5月、ドゴールが政権の座につく。ドゴール内閣の文化大臣となったアンドレ・マルローは、アルジェリアに常駐する<フランスの良心の大使>になってくれとカミュに求めたが、カミュはこれを固辞し、以後は芝居と『最初の人間』の執筆に専心することになる。

なお、カミュは、この『最初の人間』未完のまま、1960年、自動車事故で亡くなりました。

余談ですが、カミュは、広島への原爆投下直後に断罪したジャーナリストでもありました。

United for Peace of piece country

THE WORLD IS WHAT IT IS . . .

By Albert Camus

http://www.ufppc.org/quotations-mainmenu-39/5036/

オマケ:カミュの弟は、アメリカ人タレント、セイン・カミュのお祖父さんだとのこと。

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