Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

アフリカと欧州-1(エチオピアとユダヤ教徒)

2024年07月13日 | 社会(歴史・都市計画含む)

前回の記事

フランスーメランション&ド・ヴィルパン&ル・ペンの時代に - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書きながら、アフリカが、欧州の植民地になったり、奴隷にさせられたりした歴史がなかったとしたら、どうなっていたのだろうと、ふと考えました。

アフリカで唯一植民地にならなかったというのはエチオピア。

【アフリカで唯一】なぜエチオピアだけヨーロッパの植民地にならなかったのか? (youtube.com)

この国は結局「貧しいアフリカ」となってしまいましたが、この国にはユダヤ人が住んできました。

上の動画には、ユダヤ教徒のエチオピア人については触れられていませんが、個人的にはエチオピアが植民地にならなかった理由は、「ユダヤ人の支援」があったのも関係していると思います。動画の「フランスがエチオピアに武器を支援」という説明は、「ユダヤ系富豪の支援」ということもあったように思います。

Wikipediaから抜粋:

 
抜粋:
 
キリスト教の布教、ラビン派の改革

ベタ・イスラエルのコミュニティが現存する地域 ヨーロッパ諸国とベタ・イスラエルの間の交流は近代以前からもしばしばあったものの、その存在が広く知られるようになるのは、ユダヤ教徒へのキリスト教布教を目的とするプロテスタント系の宣教師協会、『ロンドン・ユダヤ人布教協会』の活動開始を待たなくてはならなかった。 ユダヤ教からの改宗者ヘンリー・アーロン・スターンが率いるこの団体は、1859年にエチオピアで活動を開始した。
彼らの活動の結果、1922年までに2000人のベタ・イスラエルがエチオピア正教に改宗した。(エチオピア政府との協定により、プロテスタントの布教は行われなかった)

キリスト教に改宗したベタ・イスラエルは、今日では「ファラーシュ・ムーラー」と呼ばれている。 ヨーロッパのユダヤ人たちの間では、こうしたエチオピアにおけるキリスト教の布教活動は挑発として受け取られた。ヨーロッパのラビはベタ・イスラエルをユダヤ人として承認し、最終的に1868年、国際イスラエル人協会はユダヤ系フランス人の東洋学者、ジョゼフ・アレヴィをエチオピアに調査のため派遣した。帰還後アレヴィはベタ・イスラエルについて非常に好意的な立場に立った報告を行い、世界のユダヤ人コミュニティに対しベタ・イスラエルに対する支援を呼び掛けた。彼はさらに、エチオピアにユダヤ教学校を建設すること、さらには数千人のベタ・イスラエルをオスマン帝国領シリアに入植させることなどを提案した。

これはシオニストによるパレスチナ入植計画が立てられるよりも、さらに10年以上早いものである。 しかしユダヤ人社会はベタ・イスラエルに対する関心を急速に失っていった。その原因には、ベタ・イスラエルがユダヤ人であることに対する疑いと、国際イスラエル人協会がアレヴィの提案を採決しなかったことなどが挙げられる[要出典]。
 
(中略)
 
1955年5月1日 ジャック・ファイトロヴィッチ博士は失われた十支族がエチオピアに居住するという情報に関心を持った。彼はフランス高等研究実習院時代にはアレヴィの教え子であった。
 
1904年、ファイトロヴィッチはエチオピア北部での再度の調査を呼び掛け、エドモン・ド・ロチルドから資金提供を受けた。彼はエチオピアのユダヤ人地域に渡航し、ユダヤ人たちとともに生活した。さらに彼はプロテスタント宣教師の活動を妨害することにも成功した。その後、彼は1905年から1935年にかけて、25人のユダヤ人の少年をヨーロッパに移住させた。 その後、彼はベタ・イスラエルに関する国際的な委員会を設置した。そして『ファラーシャの共同体への旅に関する覚書』(1905年)の中で、ベタ・イスラエルを紹介した[11]。そして、現地での学校建設のため、必要な資金を確保した。 1908年、45か国の首席ラビにより、エチオピアのユダヤ人をユダヤ人として認める共同宣言がなされた[6]。
 
こうして20世紀初頭には、ベタ・イスラエルの存在はヨーロッパにおける大部分のユダヤ人コミュニティにより承認された。 1921年、イギリス委任統治領パレスチナにおける最初の首席ラビ、アブラハム・イツハク・クックがベタ・イスラエルをユダヤ人として承認した。
 

イタリア統治時代~第二次世界大戦後

1935年、ベニート・ムッソリーニを指導者とするイタリアのファシスト政権はエチオピアに侵攻、併合した。

イタリア政府はベタ・イスラエルを敵視していた。本国で制定された人種法はエチオピアを含むイタリア領東アフリカにも適用された。ムッソリーニ政権は東アフリカ植民地に関するイギリスの承認を得る対価として、ヨーロッパにおける「ユダヤ人問題の解決」と、ベタ・イスラエルを含むエチオピアのユダヤ人をパレスチナに移住させることを提案した[12][13]。しかしユダヤ人地域は正式にイタリア領として併合され、ムッソリーニの提案は実行されなかった。

1948年にイスラエルが成立すると、多くのユダヤ人がイスラエルへの移住を開始した。しかしエチオピア皇帝ハイレ・セラシエはエチオピアのユダヤ人が移住することを禁止した。

イスラエルへの非合法な移住、イスラエル政府による承認

1965年から1975年にかけてイスラエルに移住したエチオピアのユダヤ人は、教育を受け観光ビザでイスラエルに非合法的に移住した人々が大多数であり、その数はわずかであった。

イスラエルにおけるベタ・イスラエルの支援者は現地のコミュニティを承認し、さらに支援組織を設立した[14]。非合法に移住した人々の一部は、こうした組織の支援によりイスラエルの市民権を得た。中には市民権を得るため、ユダヤ教への「改宗」を行った人々もいた。そして市民権を得た人々は、多くがその後に親族もイスラエルに移住させた。

1973年、ベタ・イスラエルの支援組織の指導者の一人、イエメン系ユダヤ人のオヴァディア・ハッジは、セファルディム系のラビ、オヴァディア・ヨセフにベタ・イスラエルのユダヤ人であるかどうかに関する質問を行った。これに対しオヴァディア・ヨセフは1973年2月、ベタ・イスラエルがダン族の末裔であるとし、ユダヤ人であると認めた。アシュケナジム系の首席ラビ、シュロモ・ゴレンは当初これを否定していたが、1974年には同様にベタ・イスラエルがユダヤ人であると認めた。

1975年4月、イツハク・ラビン政権はベタ・イスラエルがユダヤ人であると正式に承認し、各国ユダヤ人のイスラエル移住を目指す、帰還法の対象であるとみなした。

その後メナヘム・ベギン首相は、オヴァディア・ヨセフからベタ・イスラエルが失われた十支族の末裔であることに関して承認を得た。一方、イスラエルの主席ラビ評議会は当初、ベタ・イスラエルに対しユダヤ教への「改宗」を求めた。

 

が、悲しいかな、人種差別をするイスラエル人は多く・・・。

 

イスラエルを傲慢にしたのは誰? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の転載させてもらった記事:

ニューズウィーク『イスラエルの過激なアフリカ系移民排斥運動』

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/06/post-2569.php

イスラエルはアフリカ諸国からの不法移民が押し寄せる移民大国。貧困国からの経済難民や母国での政治的抑圧を逃れてきた亡命者など、およそ6万人ものアフリカ系移民が暮らしている。

 だが、彼らの存在はイスラエル社会にとって頭痛のタネ。犯罪の増加や社会の不安定化の元凶だとして、アフリカ系移民に対する市民の反感は爆発寸前に高まっている。

亡命希望者は砂漠の真ん中に収容

 ベンジャミン・ネタニヤフ首相は6月3日、エチオピアやガーナ、コートジボアール、南スーダンなどから来た不法移民2万5000人を迅速に国外追放するよう指示。さらにエリトリア、ソマリア、スーダンからの亡命希望者の収容施設を砂漠の真ん中に建設するよう命じた。ネタニヤフは「(国外)に送還できる人は全員、できるだけ早くそうすべきだ」と閣僚らに語ったと伝えられる。

 英BBCは、不法移民を射殺すべきだと訴える年配のイスラエル人男性や、アフリカ系移民によるセクハラや犯罪行為を糾弾し、彼らがイスラエル人の雇用と住宅を奪っていると訴える若い女性のインタビューを放映した。アフリカ系移民が「侵入者」と呼ばれることが多いなか、与党のある政治家は彼らを「癌」だと言い切った。

 イスラエル人とアフリカ系移民コミュニティの反目は数カ月前から一段とヒートアップしている。イスラエル政府は昨年12月、不法移民の侵入を食い止めるために1億6000万ドルを投じると表明。先月、テルアビブで行われた反移民デモでは一部のデモ隊が暴徒化し、対立が納まる気配はない。

 

Racism in Israel - Wikipedia

 

仮置き:

モーリタニアにある離婚女性市場へ🇲🇷世界一奇妙な市場 (youtube.com)

Divorce Mauritania Style | Unreported World (youtube.com)

モーリタニアの砂漠で金採掘者たちと4日間過ごした (youtube.com)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フランスーメランション&ド... | トップ |   

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

社会(歴史・都市計画含む)」カテゴリの最新記事