新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

紀伊半島旅行2日目は早々にホテルに退却

2014-04-29 18:21:26 | 旅行記

ドシャバシャ雨が降る中、熊野古道を歩いてきました。
天気が良くなさそうだという予報を元に、ダイソーでレインコート(雨ガッパ)を買って持参していたのですが、これが大層役に立ちました
もしもしか持っていなければ、バッグも服もびしょびしょになっていたはずです。
特に歩き疲れて木の切り株や岩やベンチに腰掛けたくなったときには、いくら濡れているところでも平気で腰掛けることができましたから。
さすがに「税込み108円」「お手軽品」ですから、早々にボタンの部分が引きちぎれてしまったり、気がつくとあちこちが破けていましたけれど、そこは「使い切りと割り切ればよろしいのかと思います。

それにしても良く降るです。
ホテルに帰着したころの雨雲の様子は、

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私のいる辺りが一番酷い…

そんな状況での、きょうの私の旅程はこんな感じでした。

ホテル徒歩紀伊勝浦駅紀勢線那智駅徒歩⇒(大門坂那智山駐車場)⇒徒歩熊野那智大社青岸渡寺⇒徒歩那智の滝⇒那智山バス停(那智山駐車場)路線バス⇒紀伊勝浦駅前⇒徒歩ホテル

140429_1_02_2 こちらのお薦めコースを歩いたわけですが、こんな天気のせいか、私のように歩いている人は那智駅⇒大門坂の区間では皆無でしたし、大門坂⇒那智山駐車場の区間でも、一組の親子しか見かけませんでした。そもそも、那智駅で電車(105系でした)を降りたのは私ひとりだけ(クルマで行く人が多い⇒電車本数が減る⇒電車行く人が減る⇒電車本数が減る…の悪循環か?)

でも、せっかくの熊野です。歩かなきゃ

さすがに帰りは那智山駐車場から紀伊勝浦駅までバスに乗ったのですが(行きに2時間半かかったのに、帰りの所要時間40分弱)、これが熊野古道だ という風情にあふれた「大門坂⇒那智山駐車場」区間はもちろんのこと、ほとんど舗装路で、正直「大門坂まではバスで来るべきだったか…と考えもした「那智駅⇒大門坂」区間でも、歩かなければ気づかないところも見ること・感じることができました。
例えば、こんな幽玄な眺めとか、

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2年半前の大水害の傷跡がまだ生々しい現実とか、、、。

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さらに、那智駅前にこんな記念碑がありました。

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日本サッカーの始祖 中村覚之助 顕彰碑

中村覚之助さん…? 知らないなぁ…

碑文に曰く、

「日本サッカーの始祖」中村覚之助は明治11年(1878)5月 この地で 生まれた。同35年東京高等師範学校(現筑波大学)在学中に「アソシエーションフットボール」を翻訳し、日本初のサッカー指導書を発刊、蹴球部を創設し、日本最初の近代サッカーの試合を行った。(中略)日本サッカー協会の旗章「三本足の八咫烏」熊野出身の氏に因んで選定されたと伝えられている。(以下略)

だそうです。
へぇ~ です。

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Wikipediaの「八咫烏」の記述にも、

現代では、日本サッカー協会のシンボルマークの意匠として用いられている事で知られている。これは1931年(昭和6年)に採用されたものであり、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の漢文学者であり、日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏を元にしたものである。

と書かれています。

ところが、日本サッカー協会(JFA)のHPでは、その沿革で、1931年6月に、

大日本蹴球協会旗章制定。3本足の烏は、東京高等師範の内野台嶺(大日本蹴球協会理事)ら協会役員が発案し、彫刻家の日名子実三がデザイン化したもの。

としているだけで、関連記事としてリンクされている先には、

いま多くの人に親しまれている、三本足のカラスとボールを組み合わせた図柄は、中国の古典「淮南子(えなんじ)」と「芸文類聚」に記された、太陽の中に3本足の烏がいるという話から取ったものらしい

とありますし、JFA自身の説明ではさらに踏み込んで、

ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました

とあって、シンボルマークはあくまでも中国の古典にある「三足烏」で、「八咫烏」は、日本人には烏に親しみがあったというとして挙げられているだけです。

う~む、、、どういうこと?

140429_1_07 想像を自由の空で羽ばたかせると、第二次世界大戦後の「民主化」の過程で、JFAが1931年に制定された旗章を護持するため、旗章が天皇制と繋がりの深い「八咫烏」ではないことをGHQに弁明するためにこねくりだした方便ではなかろうか?

ですから、Wikipedia那智駅前の碑文にあるような中村覚之助さんとシンボルマークとの関係を覆い隠す必要があったのではないか、それゆえ、JFAの沿革には中村覚之助さんの名前は登場せず、ただ「1896年3月」に、

東京の高等師範学校(東京高師)にフートボール部が設立される。

とあるだけなのではないかと推察(邪推?)します。

この辺りの事情を研究している人はいないのかなあ…
なかなか面白い話だと思うのですが…。

   

こんなことを考えることができただけでも収穫のあった今日の行動でしたが、一番のハイライト「那智の滝」でした。

140429_1_08 目の前の三重の塔もかすむほどの悪天候の中で、よく見えるのか心配だったのですけれど(右の写真は敢えてモノクロにしてみました)、「飛瀧神社」ご神体「那智の滝」はこんな天候をものともしない存在感でした

140429_1_09_2 とどろき渡る水音、まっすぐ落ち、岩にぶつかって砕け広がる大量の水凄い としか書きようがありません

まさしく「ご神体」です

あまりに大きなスピリチュアルな感動をいただきましたので、角度を変えてもう一枚

140429_1_10 こんな天気だからこそ、滝口が不鮮明になって、それゆえ神秘性が増しているかもしれません。

それにしても、「那智の滝」迫力神々しさに圧倒されましたけれど、考えてみれば、一瞬たりとも同じ姿であり得ない滝が「ご神体」とは、かなり興味深い発想です。

さすが「八百万の神」を持つ日本人ならではなんだろうな、と思ってしまいます。

   

きょうの話は後日詳しく書くつもりですが、とりあえず今日はここまで。

あす、いよいよ「徒然煙草の足跡全国47都道府県コンプリート達成です

【追記】記事中に写真だけ載せた「八咫烏のおみくじ」、まだ八咫烏のご託宣を読んでいませんでした。

このまま取っておくのは、おみくじとしての八咫烏の本分(?)に反することだと思いますので、読んでみました。

すると、

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第一番
運 勢  大吉

だそうな

しっかりと読んで、写真に撮った上で、再び巻き直して八咫烏に保持してもらいました。

このまま自宅に飾ってしまおうという算段です。

140429_1_12 でも、ケースに同梱されていた紙には、こんな風に書かれています。

おみくじをご覧になった後は、
魔除、開運・招福の置物として…
また、この紙に「誓いの言葉」
「願い事」などを書いて神棚や
机の上に… 恋文をしたためて
「伝書カラス」に…
など、ご自由にお使い下さい

なかなか気の利いたおみくじです

那智熊野大社・那智の滝にお詣り・お出かけの際には、是非一羽
(2014/04/29 22:05)

つづき:2014/04/30 紀伊半島南部では天候がグングン回復中
旅行記本編:2014/05/17 紀伊半島旅行記(その4:熊野 前編)

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