紀伊半島旅行の旅行記を書く材料が揃ったところで、あわてて「犬山で江戸時代にタイムスリップ(その6)」のつづき、ようやく愛知(名古屋・犬山)旅行記の完結編です。
国宝 犬山城の丸瓦には、「丸に方喰(かたばみ)」の紋がついています。
犬山城では、他に「丸に一文字」紋の瓦も見かけたのですが、ほとんどが「丸に方喰」紋でした。
「丸に方喰」も「丸に一文字」も、犬山城主だった成瀬氏の紋で、「丸に一文字」の方は犬山市の市章として使われているとか。
犬山城のリーフレットによれば、
慶長15年(1610)頃、徳川家康の9男義直が尾張へ移封されると成瀬正成はその傅役となります。まだ幼い義直にかわって、尾張藩政を委ねられていた平岩親吉が同16年に死去し、その翌年から正成は竹越正信とともに尾張藩の付家老として政務に携わりました。元和3年(1617)、成瀬正成が2代将軍秀忠から犬山城を拝領して以降は幕末まで代々、城主と尾張藩付家老を務めました。
とあります。
「付家老」というのは、Wikipediaを引用すれば、
江戸幕府初期、将軍家血統の貴公子が藩主(大名)になった際に、将軍より直接命を受けて附属された家老のことである。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御」をつけて呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。
さらに、
将軍の一族から大名に取り立てられた人物には、小姓などの側近を除いて固有の家臣はいないので、藩政を担う家老はみな将軍家から付けられた者となるが、ここでいう附家老は、政務や軍事の補佐を行うとともに藩主の養育の任も受け、江戸幕府の意向に沿うことも期待されていた。したがって身分としては、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強い。
というもので、主君が将軍なのか、藩主なのか微妙なところ。
成瀬正成が犬山城を2代将軍の秀忠から拝領したのには、こんな背景があったんですな。
さて、天守から下りてくると、桜のような花が咲いていました。12月末だというのに…。
どう見ても桜ですな。
と、
四季桜というもののようです。
Wikipediaによれば、
花が4月上旬頃と10月末頃の年二回開花する。花は五枚一重で薄く淡い紅色。
春は開花と同時期に新芽も芽を出し、一方秋は自らの葉が落ちるじきに開花する。また、春のほうが花は大きくなる。
樹高は中庸。
ジュウガツザクラ、コブクザクラ等も年に二回開花する。また、フユザクラは冬季から3月まで咲いている。
シキザクラの萼筒は細く一重、フユザクラは萼筒が紅色で太めで花は一重、ジュウガツザクラは萼筒が紅色で八重、コブクザクラは萼筒が漏斗型で八重といった特徴がある。
だそうで、ジュウガツザクラは、11月の初めに咲いているのを砧公園で見ましたっけ(記事はこちら)。
ということで、天守の中も外も楽しんだ私はトイレへ…。
おっとぉ、なかなかステキなトイレではありませんか
ランプシェードに近隣の名所・名物のイラストが描かれています。
一方、「個室」の方も、
Woodyでいい感じです。
手間がかかっていますなぁ。「観光地の公衆トイレは、かくあるべし」的な見事なトイレだと思いました。
この後、私は帰りの新幹線の時刻を念頭に置いて、犬山の街を散策して(すでに「犬山で江戸時代にタイムスリップ(その1)」書きました)、愛知旅行の最後のひとときを楽しんだのでありました。
ふぅ~、やっと最後まで来たぁ~。
2泊3日の旅行記を書き終えるのに4ヶ月以上もかかってしまいました。
この分でいけば、今回の紀伊半島旅行の旅行記はどうなってしまうのでしょうか?
ということで、とっぴんぱらりのぷぅ、です。