三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

善と悪

2008年03月16日 | 日記

「お天道様にもうしわけない」という言葉がある。
お天道様とは太陽のことで、神のような超越的存在、あるいは世間、あるいは良心に照らして恥ずかしいという意味である。
お天道様に対してもうしわけないかどうかが善悪の基準となるわけだ。

ところが、アンドレ・コント=スポンヴィルはそうではないと言う。
「善人と悪人とを、あるいは善人と思われる人と悪人と思われる人とを分けるのは、用心深さか偽善でしかない」
「君が盗みをはたらかないのは、正直者だからではなく計算にすぎない。つまり君は、道徳的なのではなく、用心深いだけなのだ」
(『哲学はこんなふうに』

これはプラトン『国家』で論じられている問題である。
「正義を守っている人々は、自分が不正をはたらくだけの能力がないために、しぶしぶそうしているのだ」
人間は他人にばれなければ何でもするというたとえが、ギュゲスの指輪の物語である。
羊飼いのギュゲスはある指輪をはめると透明人間になれると知り、王妃と通じ、そして共謀して王を殺してしまい、王権をわがものにする。
「何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか」

このたとえ話は、隠身の秘術を使って王宮に忍び込んだ若きころの龍樹のエピソードと似た話である。
私ならギュゲスの指輪を使って王妃を誘惑し、王を暗殺して権力をわがものにしようとは思わないが、王の寝室をのぞき見ぐらいはするのではないかと思う。

学会員の弁護士さん
「死後の世界と因果応報を信じるということが、最も強力な犯罪抑止力の一つになると思っています」
と書いているが、これにしたって死後の報いを怖れて悪を作らないのは用心深いだけのことになる。

で、善とは何か、悪とは何か、である。
ユダヤの賢者ヒレルは異邦人から、「片足で立っている間に、ユダヤ教の全部を説明してください」と尋ねられ、「あなたがいやだと思うことを、あなたの友にしてはならない。これがトーラーの全てである」と答えた。
ルソーは「人からしてもらいたいと思うとおりに、他人におこなえ」、そして「できるかぎり他人の不幸をすくなくすることで、自分の幸福をはかれ」と言っているそうだ。
コント=スポンヴィルは「他人がやったなら君が非難するようなことは、自分にも禁じなければならない」と言い、西研は「人間同士の関係を気持ちよいものにする行為が「善い」と呼ばれ、不愉快にする行為が「悪い」と呼ばれる」『哲学の練習問題』に書いている。
自分が人からしてほしいこと、人にされたくないことが善悪の基準である、つまりは善悪は他者との関係によって決まるということになるのだろうか。

でも、いろいろ疑問が浮かぶ。
たとえば、マゾの人から「ムチで打って」と頼まれてムチで打つことは善か、それとも暴力をふるうわけだから悪なのか。
私は人から暴力をふるわれたくない、だからいくら頼まれても、相手が喜ぶだろうとわかっていても、ムチで打たないことが善だということになる。
だけど、断ったら人間関係を不愉快にするかもしれない。

安楽死や尊厳死の問題はいささかやっかいである。
横山秀夫『半落ち』は、アルツハイマー病の妻から「殺してくれ」と頼まれて殺した男の物語だが、主人公を責める気持ちにはなれない。
そこにはものすごい葛藤があるからだ。
それにくらべると、家族から依頼されて安楽死させる医者はそこまで悩んでいないように思うが、どうなのだろう。

では、自殺願望の人にお金をもらって殺したという事件はどう考えたらいいのだろうか。
これをもっと複雑にした事件が、掲示板で知り合った人から青酸カリを購入した女性が自殺し、事件が明らかになると、販売した男もすぐに自殺したという事件である。
この事件を小説風に描いた矢幡洋『Dr.キリコの贈り物』を読み、善と悪とはそう簡単に分けることができないように思った。

コメント (6)
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