三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

トルーマン・カポーティ『冷血』と死刑

2007年10月25日 | 死刑

トルーマン・カポーティ『冷血』は、1959年、アメリカのカンザス州でクラター家の4人が惨殺された事件を取材したノンフィクション・ノベルである。
事件が起こる前から、ペリー・スミスとディック・ヒコックが逮捕され、死刑になるまでが描かれている。

カポーティは死刑に関心があったのか、死刑に対する言及があちこちに見られる。
記者たちのこういう会話がある。

A「ああまで痛烈にやっつけることはないよ。あれじゃ不公平というもんだ」
B「何が不公平なんだ」
A「裁判全体がだ。この連中には立つ瀬がないよ」
B「じゃ、ナンシー・クラター(殺された次女17歳)には立つ瀬があったというのかね?」
A「ペリー・スミス(4人を殺した実行犯)って、かわいそうなやつだ。やつの一生はさんざんだった」

そして、Aはこう言う。

A「あいつを絞首刑にするってのはどうかね? それだって、まったく冷血なことだぜ」

この会話はカポーティの死刑に対する考えを記者の会話に託していると思う。
「冷血」とは4人を殺した犯人を指すだけでなく、絞首刑も意味しているわけだ。

保守的な中西部で起きた事件だし、実行犯のペリーはインディアンの血をひいている。
だから、みんなが死刑を望んでいるのかと思ったら、そうではない。

弁護人は被告にこう言う。

キャンザス州のどこで裁判が行われようと、大した問題じゃないんです。人々の気持は、州のどこへ行っても同じです。われわれにはガーデン・シティーのほうが都合がいいんですよ。ここは宗教的な社会だから。人口一万一千人に対して、二十二も教会がありますよ。そして牧師の大部分が死刑には反対で、それは不道徳で、キリスト教的ではないというんです。クラター家の牧師で、その家族とは親しい友人であるカウアン師ですら、この事件そのものにおいても、死刑には反対の説教をしてきております。

犠牲者が通っていた教会の牧師が、信者が惨殺されたにもかかわらず、加害者を死刑にすべきではないと説教するとは。

そして、クラター夫人の兄(被害者遺族)は手紙でこう書いている。

この町(つまり、ガーデン・シティー)には、今怒りの渦が巻いております。犯人を逮捕したら、犯行現場にいちばん近い立木で首吊りにすべきだ、というご意見を私は一度ならず耳にしました。しかし、そんなふうに考えないでいただきたいのです。もうすんでしまったことですし、犯人を殺しても元どおりになるわけではありません。そのかわり、神の御心に従って犯人を許してやりたいのです。私たちが心に恨みを抱くのは正しいことではありません。殺人を犯した犯人はかならずや自分の良心との葛藤に苦しむでありましょう。彼の唯一の心の平和は、彼が神の前に許しを乞うとき訪れるのです。それを邪魔だてすることなく、彼が心の平和を見出すよう祈ってやってください。


アメリカでは、死刑反対を訴える犯罪被害者遺族が少なからずいるが、その人たちの死刑反対の理由にはキリスト教の影響が大きいように感じる。
神父や牧師が常々、死刑には反対だと説教しているのかもしれない。
さらに言うと、生活と信仰が別のものではなく、生活に生きた教えとなっているから、いざという時に怒りや恨みといった感情を乗り越えようとするのではないか。

シスター・プレジャンは25年前から死刑囚や殺人事件の被害者家族と交流し、支える活動をされている。
最初に文通し、面会した死刑囚は10代のカップルを殺している。
被害者の親たちに会いに行きたいとシスター・プレジャンは思ったが、犯人の相談相手をつとめている者が会いに行けば、親たちは怒りを感じたり、苦しむことになるだろうと考えて、親たちとは接触しなかった。

ところが、二人の犠牲者の親に会った時、少年の父親ロイド・ルブラン氏からこういうことを言われる。

シスター、あなたは二人の犯人とは何度も接見して、お話ししているのに、私たちのところには、ずっと長い間、一度も会いに来てくれなかったじゃないですか。なぜ来てくれなかったのですか。私たちは犯人が処刑されるかもしれないので、とても苦しんでいたのです。


そうして、ルブラン氏はこのように話す。

かれらは息子を殺した。私にはもちろん、復讐心、非常につらい憎しみ、怨み、苦々しい気持が強くあった。その気持に負けそうな時もあったが、考えてみると自分は昔から人には優しく接してきたし、いつも他の人を助けようとしてきた愛情の深い人間だったと思う。たしかにかれらは息子を殺した人たちだけれども、この憎しみの感情にここまま押し流されてしまえば私も殺されてしまう。自分は昔のままの、人に優しい、愛情深い人間でいたいので、私はイエスのように人をゆるす道を歩むことにする。自分が殺されなくてもすむように。

被害者や遺族がキリスト教に救いを求めるということは、キリスト教がアメリカ人の生活の中に生きているからだと思う。

興味深いのが、クラター家の父親は次女ナンシーが恋人バビーとの交際を絶ち、頻繁に会うのをやめるべきだと主張していたこと。
交際に反対した理由は、クラター家がメソジストであるのに、バビーの家はカトリックだから、「二人が将来結婚できるとはとうてい考えられない」ということである。
信仰があるからといって、すべてに寛容になれるとは限らないのか。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする