トルーマン・カポーティ『冷血』は、1959年、アメリカのカンザス州でクラター家の4人が惨殺された事件を取材したノンフィクション・ノベルである。
事件が起こる前から、ペリー・スミスとディック・ヒコックが逮捕され、死刑になるまでが描かれている。
カポーティは死刑に関心があったのか、死刑に対する言及があちこちに見られる。
記者たちのこういう会話がある。
B「何が不公平なんだ」
A「裁判全体がだ。この連中には立つ瀬がないよ」
B「じゃ、ナンシー・クラター(殺された次女17歳)には立つ瀬があったというのかね?」
A「ペリー・スミス(4人を殺した実行犯)って、かわいそうなやつだ。やつの一生はさんざんだった」
そして、Aはこう言う。
この会話はカポーティの死刑に対する考えを記者の会話に託していると思う。
「冷血」とは4人を殺した犯人を指すだけでなく、絞首刑も意味しているわけだ。
保守的な中西部で起きた事件だし、実行犯のペリーはインディアンの血をひいている。
だから、みんなが死刑を望んでいるのかと思ったら、そうではない。
弁護人は被告にこう言う。
犠牲者が通っていた教会の牧師が、信者が惨殺されたにもかかわらず、加害者を死刑にすべきではないと説教するとは。
そして、クラター夫人の兄(被害者遺族)は手紙でこう書いている。
アメリカでは、死刑反対を訴える犯罪被害者遺族が少なからずいるが、その人たちの死刑反対の理由にはキリスト教の影響が大きいように感じる。
神父や牧師が常々、死刑には反対だと説教しているのかもしれない。
さらに言うと、生活と信仰が別のものではなく、生活に生きた教えとなっているから、いざという時に怒りや恨みといった感情を乗り越えようとするのではないか。
シスター・プレジャンは25年前から死刑囚や殺人事件の被害者家族と交流し、支える活動をされている。
最初に文通し、面会した死刑囚は10代のカップルを殺している。
被害者の親たちに会いに行きたいとシスター・プレジャンは思ったが、犯人の相談相手をつとめている者が会いに行けば、親たちは怒りを感じたり、苦しむことになるだろうと考えて、親たちとは接触しなかった。
ところが、二人の犠牲者の親に会った時、少年の父親ロイド・ルブラン氏からこういうことを言われる。
そうして、ルブラン氏はこのように話す。
被害者や遺族がキリスト教に救いを求めるということは、キリスト教がアメリカ人の生活の中に生きているからだと思う。
興味深いのが、クラター家の父親は次女ナンシーが恋人バビーとの交際を絶ち、頻繁に会うのをやめるべきだと主張していたこと。
交際に反対した理由は、クラター家がメソジストであるのに、バビーの家はカトリックだから、「二人が将来結婚できるとはとうてい考えられない」ということである。
信仰があるからといって、すべてに寛容になれるとは限らないのか。