三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

消えゆくことば

2007年10月02日 | 

石見弁が心地よい山下敦弘『天然コケッコー』。
子供らがみなうまい。
特にさっちゃん。
島根出身かと思ったら違ってた。

気になったのが、今どきの中学生が「そがあな」と言うこと。
「~してくれんさらんかのう」が石見では普通に使われているのだろうか。

私は子供たちが東京弁をしゃべらないよう教え込んだが、子供たちは「~しとる」とは言わずに「~してる」だし、「こうた」ではなく「買った」である。
そして、当たり前のように「じゃん」とか「しちゃって」と言う。

遠からず方言は消えるかもしれない。
日本語が全国一律になるのは気持ち悪いが、日本語そのものも危ないと思う。
というのも、カタカナ語が増えている。
英語を使えないと生活できなくなるかもしれない。
もっとも外来語の動詞は少ないし、主語・目的語・動詞という日本語としての構文は崩れていないので、当分は大丈夫な気もするが。

英語が侵入しているのはどこの国でも似たり寄ったりらしい。
ドイツ銀行の役員会では英語のみが用いられる。
ドイツ語になった英単語が増えており、名詞ばかりではなく、動詞も目につくそうだ。
ロシアやフランスなどヨーロッパ諸国も事情は同じようなものとのこと。
まして開発途上国となると、公用語として英語が使われているし、経済的、社会的に上昇するには英語を使えないと話にならない。

マーク・エイブリー『「消えゆくことば」の地を訪ねて』によると、「世界中のエリートの共通語は英語」なんだそうだ。
少数言語にとっては厳しい状況である。

和崎洋一『スワヒリの世界にて』という本は1977年の出版。
和崎氏が社会人類学の現地調査のため、1963年からタンザニアのマンゴーラ村に滞在した記録である。

タンザニアには127部族がいて、そのうち23部族がマンゴーラ村に住んでいる。
それぞれ部族語を話し、部族意識を持って生活している。
村と言っても、滋賀県の広さに約千世帯が住んでいるというのだから、日本とはちょっと感じが違う。

『「消えゆくことば」の地を訪ねて』によると、地球上には約6000種の言語がある。
そのうち、ニューギニアは1100種の言語(方言ではない)がある。
つまり、世界中の言語の6分の1がニューギニアにあることになる。
タンザニアの部族語は方言なのだろうか。

それはともかく、今世紀の終わりには多くても3000種に減り、安泰なのは600種以下という説もあるそうだ。

オーストラリアのアボリジニの言語は270種、多くの言語は話し手が千人以下で、中には流暢に話す人が数人しかいないという言語もある。
オーストラリアのキンバリーには語族が5系統あり、それが少なくとも30種の言語に分かれているが、30種の言語のうち、今も子供が話しているのは3種にすぎない。
世代が変われば、多くの言語が消滅してしまうことになる。

こうした事情は北米のインディアンの言語でも同様である。
親同士は自分の属する言語を使うが、子供に対してはその土地の有力な言葉で話す。
だから、子供たちは聞いて理解することはできるが、自分では話せない。

言葉に関しては、親よりもテレビやラジオなどの影響のほうが大きいから、言語の多様性について前途は暗いと思う。

コメント (6)
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