三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

満足した豚は悪い物語か

2005年12月17日 | 日記

「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」とはJ・S・ミルの言葉である。
不満足な人間、不満足なソクラテス、満足した豚、満足した馬鹿、救いとはどのような存在になることなのか。

いつぞやご主人を亡くされた方が「主人は鳥になりました」と言われたのにはびっくりした。
ボケたのかと思った。
すると、その方は「毎朝、同じ鳥がやってくる。主人が私を心配して来てくれているんです」と続けられた。
死んだ人がいつまでも自分を見守っていてくれると信じることにより、身近な人の死を受け入れ、そして生きていく力が与えられる。
そして、自分が死んでも、家族や知人を見守り続けるんだと、自分の死をも受け入れる。
こういった感情は日本人にとってごく自然なものである。

柳田国男は「魂の行くえ」で、「死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、長く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである」と言っている。
死を受け入れるための物語の一つである。

柳田国男は仏教、特に浄土真宗が大嫌いだが、こういう物語はどう思うだろうか。
娘さんを亡くされた方さんの話である。
「お浄土へ行ったきっと会えるんだから、それまでは精一杯生きていこう。いつかお浄土であの子に会うまでは、つらいけれども生きていかなければいけない」
柳田国男の物語と浄土の物語のどちらがいいとか悪いとかは言えない。

しかし、次の物語は私は悪いと思う。
ある方、お子さんがガンになり、あと三ヵ月と宣告された。
「それで祈祷師のところに行ったら、「治る」と言われた。「もう大丈夫。治る。心配するな」と。その言葉を聞いたとたんに楽になった。生きる望みを持った。治るんだ。しかし結局は医者の言うとおり、三ヵ月後に死んだ。
だが、嘘でもなんでも「治る」という言葉を聞かせてもらったから、二ヵ月間なんとか生活できた。そう思うと、祈祷師の嘘を責める気持ちにはなれない」
その「楽」は、言葉は悪いが「満足」しようとして目をつむってしまうたぐいのものではないかと思う。

もう一つ、また聞きの話です。
奥さんが真光に入り、毎晩集会に行く、毎月高山の神殿に行く等で、家の中はグチャグチャ、子どもは登校拒否、家庭崩壊寸前。
真光の上の人に相談したら、「自分もそうだったが、それを乗り越えた」と言われ、ますます張り切っているそうだ。
これは「信仰を試されているんだ。ここで頑張らねば」という物語で、「不満足なソクラテス」になりかけたけど、「満足した豚」にとどまらせている。
では、これはどうか。

「1986年、真理の友教会という宗教集団の信者である女性七人が、病気で亡くなった教祖の後を追うように集団で焼身自殺した。彼女たちの生活は教祖のそばに仕え、教祖の地上での仕事を助けるのが役割だとされていた。真理の友教会の教えによれば、人間のほんらいの住処は天国であり、この地上へはなんらかの役割を与えられてきているのである。死はその役割が終わったことを意味した」 芹沢俊介『オウム現象の解読』からの引用。
私は悪い物語だと思う。

だけど、ひょっとして私が「不満足な豚」なもんだから、満足している人に「お前は豚だ」とののしっているだけかもしれない。
いい物語か悪い物語か、その違いを考えることは、宗教とは何か、ということとも関係するのではないだろうか。

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4 コメント

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前提となる物語 (プロジェクト卍)
2005-12-19 12:22:36
 私自身は独身ですし、これからもおそらく子どもを設けたりはしないと思います。ですから、自分が死んでも子孫を見守る役割があるとか、子孫から法事を営んでもらって自らの存在をいつまでも記憶してもらう、という物語(先祖供養教)を宗旨にしていません。でも、それを必要とし、それで慰めや癒しや励ましや支えを得る人がいることは理解できます。

 自分が何かの(新宗教の)信仰に入ったとしても、家の宗旨としてあいかわらず檀那寺からお坊さんを招いて葬式や法事を営むというスタイルを多くの人がとるのは、このためかと思います。

 ですから、真宗の教えと世間の教えがぶつからないように、阿弥陀さまというものを多くの人に納得させるために、阿弥陀=親という図式で語ってきたのが真宗教団だと思います。

 芹沢さんは、「真理の友教会」にしろ「イエスの箱舟」にしろ、この「親子(血)のつながり」を第一義としない、むしろそれを断ち切って教祖やミニ教団(擬似家族)とのつながりを生きる支えとするような「宗教」の出現に肩入れしているように見えます。
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情と擬似家族 ()
2005-12-20 19:44:27
「大好きなお母さんと会えると思うと、死ぬのは怖くありません」と、ある方が言われました。

で思ったのですが、「死んだらお母さんに会える」ということと、「お母さんはいつも自分のことを見守っていてくれる」ということ、これは同じことなのかな、という気がします。

子孫を見守っていたいという気持ちと、子孫に忘れてもらいたくないという気持ちは重なるんじゃないでしょうか。



子孫を見守っていたいという気持ちと、子孫に忘れてもらいたくないという気持ちは情です。

情と阿弥陀如来の慈悲とは関係があるのか、ないのか。

どこかで、先祖や子孫への情から離れないといけないと思うのですが、どうでしょうか。

ですから、親様というのはわかりやすいけど、阿弥陀如来とは違うような気がします。



芹沢俊一の本を読むと、現代社会の様々な問題点を掘り下げていて、なるほどと思います。

しかし、こういう問題がありますよ、で終わっているんですね。

「オウム現象の解読」にしても、いろんな問題を提起はしてますが、結局のところ、本人がそれで満足しているんだから、それでいいじゃないか、という立場のように感じました。



>教祖やミニ教団(擬似家族)とのつながりを生きる支えとするような「宗教」の出現に肩入れしているように見えます。

芹沢俊一には聖「擬似家族」といいますかね、そういったものへの憧れがある、と感じます。
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親孝行と佛恩報謝は同じか? (プロジェクト卍)
2005-12-21 13:06:11
 柳田國男を読んだのはずっと昔のことで、

あまりよく覚えていないのですが、仏教や真宗が、彼の宗教観と鋭く対立することを直感的にとらえていたからこそ毛嫌いするのだと思います。



 真宗の親孝行についてhttp://www2.big.or.jp/~yba/QandA/05_01_03.html

 

 などで考えていますが、親(家)の宗旨が真宗でなく、また宗旨が真宗であっても教えをまったく相続していない場合の方が実際多いと思います。

 

 蓑輪顕量さんの論文

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_274.htm



 には、日蓮さんの考えがよく現れていますが。
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仏教嫌いを相続 ()
2005-12-21 17:47:00
柳田国男の実家(松岡)は姫路の浄土真宗の門徒で、おばあさんは熱心な念仏者だったそうです。

父親が国学者なものですから、親子兄弟そろっての仏教嫌い。

松岡父子、ちゃんと相続しています。(笑)



>仏教や真宗が、彼の宗教観と鋭く対立することを直感的にとらえて

>いたからこそ毛嫌いするのだと思います。

死者を十万億土のかなたにやってしまう浄土教は何を考えているんだと、ぼろかすに言うわけですが、柳田国男の宗教観と真宗は共通する部分があるんじゃないでしょうか。

だからこそ、仏教の中でも特に真宗を毛嫌いするように思います。



親孝行については、「父母恩重経」がありますね。

父母をして三宝に帰せしめるのが親孝行だとあります。

つまり、仏教を信じることが親孝行になる。

人が人間になる教えが仏教である、人間になることが親が喜ぶんだ、ということでしょうか。

考えてみると、釈尊や親鸞もいわゆる親孝行なんてしてませんよね。

だからといって、私が親不孝な言い訳にはなりませんが。
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