三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

五木寛之『親鸞』

2010年11月08日 | 仏教
五木寛之の熱心なファンとは言えないが、何冊か小説を読んでいる。
五木寛之の魅力はというと優しさだと思う。
『親鸞』に「放埒」という言葉が出てくる。
「馬場で馬を飼うときは、ふつう柵をもうけてそのなかに馬をいれます。その柵のことを埒というのです。そのラチから外へ追いだすことを放埒という。わかりやすくいいますと、放埒人とは放りだされてしまった人のことです」
埒の外に放り出されてしまった人たち、弱者やあぶれ者や異形の者たち、地獄の中で暮らす人。
『親鸞』では、石つぶてのごとき者、たとえば乞食聖、遊芸人、遊び女、狩人、印地、河原の者たちである。
そうした人の優しさを描く五木寛之の視線は、彼らの中に己を見ている。

さげすまれ、差別され、悪人とされた埒外の人と親鸞は8歳の時からつき合っていた、というところから『親鸞』は始まる。
ところが、偉人伝にはよくある話だが、五木寛之は親鸞が子どものころから並みの人間とは違っていたことを強調する。
5歳の時に、ある僧侶が親鸞を見て、「一歩まちがえれば大悪人、よき師にめぐり会えば世を救う善知識ともなる」と言う。
8歳にして埒外の者たちをひきつけ、悪人ですら心を揺るがす歌を歌う。
十年の回峰行をした行者に「おぬしには、なにかがあるのじゃ」と言わせている。
9歳で得度する時、慈円は「ただ者ではあるまい」と言い、「そちの歌には、人の心を揺るがすふしぎな響きがあるようじゃ」とまでほめている。
神童というのは読者に受けるけど、ちょっとなとひいてしまう。

『親鸞』のテーマは放埒の人たち、そして罪ということだと思う。
親鸞の幼少時に世話をした下人のサヨが、比叡山を下り、ある女性を傷つけたことで悩む親鸞にこう問いただす。
「あなたさまは、ほんとうに自分自身が罪ぶかい業をかさねていると、どこまでふかく身にしみてお感じになっていらっしゃるのでしょうか」
そして「ほどほどの悪人に悪人面されたんじゃ、迷惑というものです」と親鸞を叱る。
「わたしたちは懸命に生きてきました。たくさんの人を踏み台にして坂をのぼり、人をだし抜いて商売をひろめてきました。必死になればなるほど、真剣に生きようとすればするほど悪をさけることはできません。いま勢いのあるお武家衆は戦場で人を殺して生き残ります。世の中はみなそうなのです。サヨは口惜しゅうございます。綽空さまが中途半端に、自分に罪がある、などと、ぬけぬけとおっしゃることが、です」
当時の人にとって地獄は実在した。
藤原道長たちは死後の極楽往生のために造寺や写経をし、死ぬときには臨終の儀式をきちんとした。
そうした善根功徳を積むことができない一般庶民や女性が抱えていた堕地獄の恐怖は現代の我々には想像もできないことだと思う。
しかし、親鸞が自分の罪をサヨに語るのは一種の自己憐憫かもしれない。
露悪と罪の自覚とは違う。
親鸞の罪の意識の甘さを下人として育った女性がとがめずにはおれなかったのだと思う。

比叡山の座主慈円に「奈良の大寺も、高野山も、そしてこの比叡山にも、尊き仏燈はともっておる。だが、いま宗門は変わらなければならない」と語らせているのは、五木寛之からの既成教団へのメッセージだと思う。
では、どのように変わっていったらいいのか。
その答えの一つを安楽房遵西の行動として『親鸞』では描く。
承元の法難で死罪になった遵西は、法然の夢を実現すると言って、民衆蜂起を企てる。
もちろんこれはまったくの創作なのだが、「この国の仏の道を一挙に変革するのは、いま、この時しかない。よいか、これまで誰もやらなかったあたらしい事をやるには、中途半端ではだめなのだ。徹底的に戦い、主導権をうばいとる必要がある。行き過ぎるぐらいにやってこそ、事は成るのだ」というセリフを読み、オウム真理教を思い浮かべた。
「旧勢力は本気で弾圧にかかってくる。法然上人にも法難がふりかかるだろう。そのときこそ、これまで虫けら扱いされていた下々の大衆がたちあがる。われらはその先頭にたって、戦い、そして死ぬのだ。そうすれば念仏の声は国中に満ち、あたらしい仏道の時代がくる」
これは一向一揆か。
「命がけで念仏の世をつくろうとしているのだ。立身出世のためでも、我欲でもない。古い仏門勢力を打ち倒して、この国を念仏一色でうずめつくすのが、わが仲間たちの夢だ」
国立戒壇を目指す日蓮正宗やその信者団体を連想した。
となると、オウム真理教と一向一揆はどう違うのか、政治にすり寄る教団はどうなのかと思う。

『親鸞』は親鸞が越後に着くところで終わる。
河原房浄寛は関東にいるし、黒面法師は死んだわけではないらしい。
続編を読みたくなってくる。
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2 コメント

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五木寛之著『親鸞』 (ゆうこ)
2010-11-08 11:11:06
 こんにちは。
>続編を読みたくなってくる。
 来年から続編(怒涛編)が、新聞で始まるそうです。五木さんの旺盛な活動に感謝です。
 親鸞の優しさに、私も惹かれます。
 ところで「悪人正機説」ですが、梅原猛氏が次のようなことを言っています。
“私は、この親鸞の異常な思想が何に起因するのか、長い間分からなかった。浄土教研究家の吉良潤氏が綿密な文献考証によって、親鸞の母は源義朝の娘であるという説を出したが、この説に私は賛同する。親鸞の母方の祖父が源義朝であるとすれば、この異常な思想がよく理解されるのである。源義朝は保元の乱において敵となった父為義を殺したし、千人もの人を殺していることは間違いない。
 甚だしい自己省察の人である親鸞は自己の血の中にそのような悪人を感じ、そのような悪人も念仏を唱えれば往生できるという思想に魅せられ、僧としての出世の道を投げ捨てて師、慈円のもとを離れ、一介の聖にすぎない法然のもとに走り、浄土念仏の教えの熱烈な讃仰者になったのではないかと私は思う。親鸞ほど、救われた喜びを高らかに語った祖師はにない。また親鸞の念仏は、法然の念仏よりはるかに感謝の念仏という性格が強い。
 このように考えると、親鸞の「悪人正機説」は、心ならずも不殺生戒を犯さざるを得なかった人間を救う教えであったといえる。”
>さげすまれ、差別され、悪人とされた埒外の人と親鸞は8歳の時からつき合っていた
 親鸞の哲学とイエスの福音とは酷似していますね。最下層の群像への限りない優しさです。イエスは最下層民でした。石切、大工、羊飼いなどは、賤業でした。
 続編が、とても楽しみです。
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78歳でこの創作力 ()
2010-11-09 08:38:50
続編が楽しみですね。
それにしても五木さんは78歳でしょう。
大したもんですね。

親鸞の母が誰だったかはよくわかっていません。
『歎異抄』13章に、親鸞が唯円に「ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と言ったということですが、これはアングリマーラの説話がもとになっているんでしょう。
梅原猛氏の説はいずれも面白いけど、実証的ではないですからね。
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