三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

可山優零『冥冥なる人間』正・続

2015年02月27日 | 

可山優零『冥冥なる人間』の続編が図書館にあることを知り、早速借りました。
1957年生まれの可山優零さんは1982年に交通事故を起こして頸椎損傷し、首から下を動かすことはできなくなる。
首の耐えられない痛み、頭のふけとかゆみ、体温の調節ができないので、少しの気温変化で体温が38度、39度になる。
1987年には脊髄損傷者が7万6千人ですが、ネットを調べると現在約10万人以上、年に5千人以上増えているそうです。

手を動かすことのできない可山優零さんが『冥冥なる人間』をどうして書くことができたか。
「しだいに傷病に苦しんでいる患者さんにとって貴重なベッドを、私が占領していることに耐えられなくなってきた」ので退院しようと決意し、1983年9月に精神薄弱者と重度障害者の施設に入ります。

闘病の記録をつづるために、隣のベッドの中島篤伺君(左半身と脳に損傷がある)に口述筆記をしてもらおうとしますが、中島篤伺君の書いた文字は読みにくく、書けない文字もたくさんあったので、文字を書き、辞書を調べることを教えます。
そうやって少しずつ文章がつづられ、清書やワープロ入力はボランティアの松浦和子さんがしてくれました。
1987年に執筆終了し、1992年に出版。

1990年1月から重度障害者施設を退所するまでの日記が『続・冥冥なる人間』に載せられています。
『冥冥なる人間』には、施設は糞尿の臭いがする、ベッドは赤錆が出ている、看護が雑といった不満もありますが、一人ひとりの職員は献身的だと、職員への感謝の気持ちが述べられています。
しかし『続・冥冥なる人間』では、施設や医師、看護婦、職員を強く批判しています。

冒頭、10日間ほど実習にきていた短大の学生たちが一番いやだったことは、数人の職員が患者に罵声を浴びせたり、患者を殴ることだとあります。
患者を人間扱いしない。
たとえば、胃カメラをするときに喉に麻酔をしない、清拭がいい加減なので尻が大便だらけの人がいる、全身タムシだらけの人がいるなど。
食事の時間は5分程度なので、あきれるほど早く食べないといけない。
オムツ交換は日に4回で、シーツ交換や散髪などの時には3回になる。
入浴は週に1回しかなく、1人あたり洗面器2杯分ていどのお湯しか使わない。
清拭は週に1回で、蒸しタオルを1本だけ使用。
看護師や職員は疲れること、汚いこと、面倒なことはしたがらないので、当然のことを頼んでもなかなかしてくれない。

それは、職員が少なく、給料が安く、休みがないということもあります。
施設職員の基本給は11万数千円、夜勤の特別割増手当ては、看護助手の場合は4千円、1年間のボーナスは基本給の2~3か月間ぐらい。
1992年ごろ、初年度に支給される給料は170万円前後。
東京都に申告している入所者収容人数よりも実際の人数は3人多いので、東京都の監査があると、隠蔽工作が行われる。

可山優零さんは1992年に施設を出て自立生活を始めます。
介護してくれる人がいないと死んでしまうので、介助者を一人でも多く集めないといけません。
それでも施設に暮らすよりもずっといいそうで、筋ジストロフィーの人が施設を出たかったという気持ちがようやく理解できました。

『冥冥なる人間』に「逞しく生きている立派すぎる障害者」という言葉があります。

障害者が絵を描いただけで必要以上に素晴らしく美化されるのである。障害者には有意義なものはとうてい作り出せないという間違った先入観が存在しているためである。すなわち、どうせ無能力であると決めつけている偏見の思想にほかならない。


マチェイ・ピェブシツア『幸せのありか』を見て、私の中に障害者差別の意識が根強くあると思いました。
主人公は脳性マヒで、知的障害だと思われています。
映画を見ながら、主人公が天才的能力を持っているとか、美しく優しい女性と親しくなるとか、そういう話になると思ってました。
言葉は悪いですが、見世物みたいな、そういうものを障害者に期待している私がいるわけです。



可山優零さんはそういう差別意識、優生思想を厳しく指弾します。
口で絵筆をくわえたり、足の指で絵を描ける障害者は、書物やテレビなどのマスメディアを通して世間の人に知られている。
なぜ健康なプロの画家よりも、口で絵筆をくわえた障害者がより多くニュースになるのか。
それは興味本位の商業ジャーナリズムと障害者を差別する優生思想にほかならない。
障害者の美化には、障害者には有意義なものはとうてい作り出せないという間違った先入観が存在している。
すなわち、どうせ無能力であると決めつけている偏見の思想にほかならない。
劣悪な生活環境に甘んじていなければならない障害者の多くは平凡な人たちである。
なんのとりえも芸も持ち合わせていない平凡な障害者がしばしばテレビの画面に登場する社会を望む。

可山優零さんの歯の治療のため、同じ病室だった坂さんが大学病院まで毎週一回送迎してくれます。
引け目を感じる可山優零さんに坂さんは、移動も食事も排泄も、生活の一切を人の手を借りなければ生きられないからこそ、健康な人間には備わっていない能力があると言います。

まったく生産活動のできない子供、老人、障害者は、存在するだけで人々を思いやりのある人間的な心へと目覚めさせてくれます。弱い人間と接していて身構えたり、殺気立つ人がいるでしょうか。ひとりでに愛と優しさが滲み出てきます。

尊厳死に賛成する人(某財務相とか)に坂さんの言葉を聞かせたいものです。

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2 コメント

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Unknown (はるな)
2015-03-03 12:00:47
酒に酔って自転車事故を起こし障碍者になり生活保護受給者にもなった奴がいたが、実家の親が死んだとき、生活保護が受給できなくなるからと相続放棄していたのを見たとき、こんな奴は生きてる資格さえもないと思ったよ。
障碍があるなしに拘わらず生きる姿勢はだいじだ
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事情がわからないと ()
2015-03-07 11:46:37
その障害者の方がどういう状況なのかがわからないので何とも言えませんが、その人が生きていくために生活保護か必要なら、それはそれでいいのではないですか。
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