『心臓を貫かれて』は、「ローリング・ストーンズ」などに音楽評論を書いているマイケル・ギルモアが自分の家族について書いた本です。
1976年、マイケル・ギルモアの次兄ゲイリーは2人を殺し、死刑になる。
ゲイリーが事件を起こしたのは、連邦最高裁判所が死刑は合憲だとして死刑制度を復活させた直後だった。
アメリカでは過去10年以上、死刑の執行はなかったのに、ゲイリーは刑の執行を求め、1977年に銃殺される。
事件から20年経った1996年に『心臓を貫かれて』が出版される。
読みながら「魂の殺人」という言葉を何度も思い出しました。
マイケルは4人兄弟の年が離れた末弟。
父親は何度も結婚しては妻子を捨てている人間で、マイケルの母や兄たちに暴力を振るいます。
父よりも23歳年下の母は殴られながらも、夫とケンカをし、息子たちを支配しようとします。
ゲイリーは小学生のころから非行に走り、少年院や刑務所に何度も入っていました。
三兄のゲイレンも12歳から酒を飲むようになり、最後は刺されたことが原因で死にます。
長兄のフランクとマイケルは犯罪とは無関係ですが、結婚して子供を育て家庭を営むということはできませんでした。
カポーティ『冷血』には殺人犯の親に社会が寛容だったことが書かれています。
しかし、マイケルやフランクに対して世間の目は冷たいものでした。
長兄のフランクも同じような経験をしています。
川崎市での中1殺害事件で逮捕された少年たちの家族の実名や顔写真がネットでさらされています。
社会が加害者の家族を排除するなら、家族はどうやって生きていけばいいのでしょうか。
被害賠償もできません。
政府は再犯、再非行防止のため社会復帰支援に取り組むそうです。
マイケル・ギルモアはこのように書いています。
事件から10年以上経っても、フランクはゲイリーの肉親であることがばれてしまい、解雇されています。
仕事がなくて生活できずに犯罪を犯せば、「やっぱり。殺人犯の家族は……」と非難されるんでしょうね。
こないだある人が「正義と悪は紙一重だ」と言ってて、なるほどと思ったものですが、正義を振りかざす前に、自分のしていることはどっちのなのかを考えてほしいものです。
とくに加害者の父親トラック運転手の言動は許しがたい。
まあ被害者になにも落ち度がないとはいえないが
ネットに書き込まれたことはいつまでも残ります。
加害者の家族を攻撃し、社会から排除することで、家族が自ら命を絶ったとしたら、自分たちのしたことの責任をどう取るつもりなのでしょうか。
それと、被害者に落ち度があるというのはひどいです。
被害者の母親を責める記事を見かけましたが、被害者をすら叩いて喜ぶ神経が理解できません。