三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

臨終の悪相と堕地獄(2)

2021年05月10日 | 問題のある考え

臨終の悪相と堕地獄について、『今昔物語集』「僧蓮円修不軽行救死母苦語」に書かれています。
蓮円という僧の母は邪見が深く、因果の道理をわきまえなかった。いよいよ死ぬ時に悪相を現し、はっきり悪道に堕ちると思われる状態で死んだ。蓮円は歎き悲しみ、何とかして母の後世を弔おうと思い、常不軽菩薩の行を修し、法華八講を行った。蓮円は夢の中で地獄の鬼に「私の母がいるでしょうか」と問うと。鬼は「いるぞ」と答えた。母に会うと、母は「私は罪報が重く、地獄に堕ちて言いようのない苦を受けている。しかし、あなたが私のために長年不軽の行を修し、法華経を講じてくれたので、地獄の苦から免れて、忉利天に生れることになった」と言った。すると夢から覚めた。(馬淵和夫訳参照)
https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku19-28
これは『法華経』による滅罪譚です。

無住『沙石集』「妄執に依りて魔道に落つる人の事」にも臨終の悪相が書かれています。
高野の遁世聖たちが臨終を迎える時は、仲間が寄り合って評定するが、一通りのことで往生する人はいない。ある時、端座合掌し、念仏を称えて息を引き取った僧がいた。「これこそ間違いない往生人だ」と評定したが、恵心房の上人は「本当に来迎にあずかり、往生する者は日ごろ悪しからん面をしていても、心地よき気色になるはずなのに、眉すぢかひて物すさまじげなる面をしている。魔道に入ったに違いない」と申された。一両年の後に、その僧は人に託して魔道に落たことを語られた。
http://yatanavi.org/text/shaseki/ko_shaseki09b-08

もっとも、臨終の相がよくても、往生したかどうかはわかりません。
高野山に隠居した道心者(菩提を求めて修行をしている人)として評判が高かった某は「最後の時には心を澄ませて念仏を唱え、そのまま息を引き取りたい」と念願していた。その願いのとおりに念仏して息を引き取った。一、二年して仲間の僧が物狂いし、某とそっくりな声で話し出した。僧たちは「臨終がめでたかったので往生されたと安堵していたのに、どうしたわけでしょうか」と問うと、「長年願っていたことなので十念は唱えたが、妄念が残って往生をしそこなった。近ごろの政治が濁っていることが気にかかり、「自分がその官職にあり、取り仕切っていたらこれほどのことはないだろう」と考え、人に知られない妄執が忘れ難く、魔道に入ってしまった」と語った。(小島孝之訳参照)

無相は臨終の悪相よりも妄念、妄執を問題にします。

仏法は真実の道心ありてこそ、生死を離れ悟りを開くことなれ。いかに学し行ずれども、名利・執着の心ありて、まことの菩提心なければ、魔道を出でず。


名利を求めることが悪道に堕ちる因となるということならわかりますが、家族や弟子の悲嘆も往生の障りとされます。
たとえば『沙石集』「妻、臨終の障りになる事」です。
山法師が病気になった。道心があり、念仏などもしていたから、これで最後と思い、端座合掌して西に向かって念仏を唱えた。妻は「私を捨ててどこへ行かれるのですか。ああ悲しい」と言って、僧の頸に抱きついて引き倒した。僧は「ああ情けない。心静かに臨終させてくれ」と言って、起き上がって念仏すると、妻はまた何度も何度も引き倒した。僧は声を張り上げて念仏を唱えはしたが、妻に引き倒されて組み摑まれてこと切れた。
https://yatanavi.org/text/shaseki/ko_shaseki04b-05

これは笑い話でしょうが、無住は続けてこのように書いています。

妻子並み居て、悲しみ、泣き慕ふを見ては、下根の機、いかでか障りとならざらん。(臨終の時に、妻子が悲しみ泣いて慕う気持ちを見せたら、資質の劣った者には臨終の障害となる)


鴨長明『発心集』「真浄房、暫く天狗になる事」です。
鳥羽の僧正の弟子に真浄房という僧がいた。鳥羽の僧正が病になり、見舞いに行った真浄房は「来世に必ずお会いしてお仕えしましょう」と申し上げた。それからほどなく僧正は亡くなられた。みんなは真浄房が後世者なので必ず往生すると思っていたが、物狂わしい病で亡くなった。真浄房の母が言うには、「真浄房がやって来た。私の臨終の様子を皆が納得できないように思っておられるので、その説明を申そう。私は名誉や利益を捨て、来世に向けての修行をしていたので、迷いの世界に留まる身ではなかったのを、師の僧正が今生の別れをなさった時、「来世で必ずまためぐり会ってお仕えします」と申し上げたことが誓文になり、僧正が「あのように言ったではないか」と解放してくださらないので、魔道に引き入れられた。僧正を仏のごとくに頼りにしていたばかりに、つまらないことを申して思いがけぬところにいる」と、天狗になったことを告げた。そして、この苦しみを抜け出せるよう、後世を弔ってほしいと頼んだ。そこで供養すると、老母が「悟りの境地に到りました。今から不浄の身を清めて極楽に参ります」と言った。これを聞いた人は「修行の徳を積んだ人でも、死後に出会おうというような誓いを立てるべきではない」と語った。(浅見和彦訳参照)

たとい行徳高き人なりとも、必ずこれに値遇せんという誓いをば起すまじけり。(たとえ修行を積んだ人でも、必ずまた会おうという誓いを起こすべきではない)

https://yatanavi.org/text/hosshinju/h_hosshinju2-08
天狗は仏道修行を妨げる魔王の使いです。

親鸞の手紙に「この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」などと、浄土での再会を約していますが、こういう気持ちも妄念となるようです。

無住は「まことの道に入る時は、法執とて、仏法を愛するまでも、道の障りなり」と、仏法に対する執着も問題にしています。

無住は以下のように追善供養を勧めます。
子供や弟子は父母・師長の臨終が悪いのをありのままに言うのが気の毒に思い、多くはいいように言うものだ。無意味なことである。悪ければありのままに言って、自分がねんごろに弔い、よその人までも憐れみ弔うことこそが、亡魂の助かる因縁どもなる。

親鸞は『教行信証』に元照『阿弥陀経義疏』の

念仏法門は愚痴・豪賎を簡ばず、久近・善悪を論ぜず。ただ決誓猛信を取れば、臨終悪相なれども十念に往生す。

という文章を引用しています。
臨終の悪相と浄土往生は無関係だと元照や親鸞は考えていたのです。

無住は法然の浄土教理解を認めていないそうですが、往生がこれほど困難だとしたら、称名念仏によって往生すると説く法然の教えが人々に受け入れられたのもわかります。

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