淺井昭衞(冨士大石寺顕正会会長)『日蓮大聖人の仏法』の宣伝チラシが郵便受けに入っていました。
こんなことが書かれています。
その証拠とは臨終の相である。
臨終は一生の総決算であると同時に、臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が現われる。だから臨終は人生の最大事なのである。(略)
では、地獄に堕ちる相、あるいは成仏の相とはどのようなものかといえば(略)
地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなるうえ、硬く、重くなり、恐ろしい形相となる。
一方、成仏する者は、臨終ののち色が白くなり、軽く、柔らかく、かつ何とも柔和な相となるのである。
宮本輝『春の夢』にも、臨終の恐ろしい形相が書かれてあります。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E8%BC%9D
「地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなるうえ、硬く、重くなり、恐ろしい形相となる」ということの典拠は何かと調べたら日蓮でした。
大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云、(略)先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし(『大智度論』に「臨終のとき色の黒い者は地獄に堕ちる」とあり、『守護国界主陀羅尼経』には「地獄に堕ちる臨終の相に十五種の相があり、餓鬼に生ずるのに八種の相があり、畜生に生ずるのに五種の相がある」とあり、天台大師の『摩訶止観』には「身が黒色なのは地獄の闇に譬える」とある。(略)
まず臨終のことを習って、後に他のことを習おうと思い、釈尊一代の聖教と論師や人師の書や釈を考え集め、これを明鏡として、一切の人の死ぬ時と臨終の後とを引き合わせてみたところ、少しも曇りがない)
https://nichirengs.exblog.jp/23976368/
「日蓮大聖人と私」というサイトにある説明を要約します。
「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」の文は『大智度論』には見当たらず、出典ははっきりしない。
『摩訶止観』に「『正法念』に云わく「画師の手の五彩を画き出すが如し。黒・青・赤・黄・白・白白なり。画手は心に譬え、黒色は地獄の陰を譬え、青色は鬼を譬え、赤は畜を譬え、黄は修羅を譬え、白は人を譬え、白白は天を譬う」と」と、六道の境界を黒・青・赤・黄・白・白白でたとえている。
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-150.html?sp
『守護国界主陀羅尼経』は雑密経典です。
Toyoda.tvというサイトに「地獄に堕つるに十五の相」が書かれてあります。
阿闍世王が釈尊に「悪衆生は死後、地獄に堕ちると知ることができるのでしょうか。また、死後に餓鬼界や畜生界に堕ちる、あるいは人界や天界の衆生として生ずることをどうして知ることができるのでしょうか」と質問し、釈尊は臨終の相について説く。
一は自の夫妻男女眷属を惡眼もて瞻視す。
二はその両手を挙げて虚空を捫摹(悶絶のこと)す。
三は善知識の教えに隨順せず。
四は悲號啼泣嗚咽(悲しみ、大声をあげ、さけび、むせび、泣くこと)して流涙す。
五は大小便、利を知らず覚えず。
六は閉目して開かず。
七は常に頭面を覆う。
八は臥して飮噉(噉=喰らう)す。
九は身口臭穢。
十は脚膝戰掉。
十一は鼻梁欹側(欹=い そばだてる。そば立つ)
十二は眼[目*閏]動。
十三は両目變赤。
十四は面仆臥。
十五は踡身(身が縮こまる)して左脇を地につけて臥せる。
大王よ、まさに知るべし。もし臨終に十五相具する衆生、此の如く阿鼻地獄に生ずと。
餓鬼、畜生、人、天におもむく相は略しますが、黒色の相はいずれも出てきません。
http://toyoda.tv/ajaseo.jukihon.10.htm
経や論には「地獄に堕ちる者は、死してのち遺体が黒くなる」ということは説かれていないように思われます。
現在は納棺を専門とする人が死に化粧をしてくれるので、亡くなった人は生きているような穏やかな表情をしています。
しかし、昔は痛み止めがあまりなかったので、苦痛にさいなまれ、苦悶の表情で亡くなることは珍しくなかったと思います。
また、病気によっては身体が黒ずむこともあったでしょう。
今でも寝たきりの人、紙おむつの人は少なくありません。
そもそも、死んでからどこに行くか、いかに日蓮であってもわかるはずがありません。
臨終の相で死後の行く先が決まると決めつけるのはいかがなものかと思います。
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