三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』2

2009年04月19日 | 問題のある考え

カルトという言葉、私も気楽に使っているが、では定義は何かと言われたら困ってしまう。
ウィキペディアには「現在では反社会的な宗教団体を指す言葉として使用されることが多い」とあり、Yahoo!百科事典では「過激で異端的な新興宗教集団をさす」そうだ。

マイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』に、カルト集団は一般的に次のように性格づけられるとある。
〈指導者に対する崇拝〉聖人、あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。
〈指導者の無謬性〉絶対に指導者がまちがいを犯さないという確信。
〈指導者の知識の広さ〉哲学的な事柄から日常の些細なことまで、指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受けいれる。
〈説得のテクニック〉新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。
〈秘密の計画〉信仰の真の目的と計画が曖昧としている。あるいは新規入信者や一般大衆にはそれらが明確に提示されていない。
〈欺瞞〉入信者や信徒は、その頂点に立つ指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。
〈金融面および性的な利用〉入信者や信徒は、その金銭およびそのほかの資産を差しだすよう説得され、指導者にはひとりかそれ以上の信徒との性的関係が許されている。
〈絶対的な真理〉さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極の知識に対する盲信。
〈絶対的な道徳観〉指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の規準にきちんとしたがえば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。

某国を連想してしまいました。

ところが、ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』によると、
「公平に見て、ほとんどのカルトは否定すぎも肯定すぎもしない中庸なもので、修業や目標はごく一般的でまともなものだ。殺人カルトは、カルト全体から見れば極端に走りすぎているが、彼らがやっていることの多くは、カルト全般にあてはまる。もっとも穏健なカルトに共通の特徴が、もっとも危険なカルトにも見いだせるのだ」
ということで、カルトといってもいろいろだし、健全な宗教と危険な宗教集団との違いがはっきりしているわけではないらしい。
日本の既成仏教教団はカルトではないと思うが、だからといって危険なカルトと全く無関係で、共通する特徴がないとは言い切れないと思う。

そして、ロバート・I・サイモンは
「自己を捨てて集団のために生きる。これがカルトのモットーだ」
と言う。
これはつまりは滅私奉公ということであって、お国のためにとか会社人間も含まれるわけで、線引きが非常に難しいということになる。

「1960年代半ば、ヴェトナム戦争でアメリカ社会が混乱したときに、若者たちはカリスマ性のある政治家や宗教指導者に魅せられていった。この時代はまた、社会の基盤―家族、学校、それに既存の宗教―が根底から覆された時代でもあった。多くの人びとが、現世と来世に疑問を抱いたまま取り残されたため、すべての疑問に答えてくれるカルトの魅力的な主張に惹かれた。人間だれしも、なにかにすがりたいと思うものだ」
この説明、よくわかる。

『ダーティー・ダンシング』という映画は1963年、ケネディ大統領が生きていてベトナム戦争が泥沼化する前、避暑地のホテルが舞台である。
映画の最後にホテルの主人が、子どもが親と一緒に避暑に行くなんてこれからは考えられない、というようなことを言う。
一つの時代が終わったということである。
たしかに、夏休みに20歳前後の子どもが両親とともに長期間ホテルに泊まるなんて、今からすると、ええっという感じである。
つまり、そのころまでは家族が一つになっていたわけだが、そうした価値観が崩れてしまった。

西研『哲学のモノサシ』で言ってることも同じ。
「人間の欲望は、「価値あること=かくありたいこと」をめがけて流れる。わくわくすること、美しいこと、善いこと、そういう「価値あること」がとてもハッキリしていて、じぶんはそこをめがけて生きていると感じられるとき、人間はリアルに「生きている」という実感を持つことができる。
価値ある生き方が外から与えられなくなって、わたしたちは、自分なりに価値ある生き方を見つけ・かたちづくっていかなければならなくなった」

じゃあ何をよりどころにすればいいかというと、それを自分で見いだすことができないので、こうなんだとはっきりと答えを示してくれる教えや人物に惹かれる。
あらゆる悩みに先祖霊や前世の業で答える霊能者に人気があり、アメリカや韓国でキリスト教福音主義がはやっているのも、自信たっぷりにこうしろと説くためなんでしょうね。
ガス・ ヴァン・サント『ミルク』で描かれる同性愛者には公民権を認めないという運動は70年代、創造科学を公立学校で教えるべきだという運動は60年代末。
こうした動きも無関係ではないと思う。

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