田中公明『性と死の密教』は後期密教について書かれた本である。
読んでいる時は、釈尊からインド仏教最後の時輪タントラまでが私の中で何となくつながったように思った。
それと、今まで報身とは何か、よくわからなかったが、ある程度はっきりした。
二身説―色身・法身
色身―ブッダの物質的身体
法身―ブッダが悟ったダルマ(真理)こそ真の身体
三身説―応身・報身・法身
如来の法身は、抽象的な真理自体だから、至高の存在には違いないが、そのダルマを悟って実際に苦悩する衆生を救済する、肉体をもった仏が出現しなければ働きがない。これに対して仏の色身は、人間の姿をとって現れるから、真理を直接悟る叡智のない者でも、姿を拝し、説法を聞いて救済される。
しかし仏といえども、形をもった存在は必ず滅びるというのが、仏教の根本思想である。
しかし仏といえども、形をもった存在は必ず滅びるというのが、仏教の根本思想である。
そこで報身が登場する。
仏は修行の果報として、理想的な身体を完成し、自在に衆生を救済することができるが、衆生に諸行無常の理を示すために、仮に涅槃を示現すると考えるようになった。そして功徳の果報として、成仏の後に享ける理想的な身体は、報身と呼ばれた。
この報身説が後に密教に大きな影響を与えることになる。
ある先生の話に、仏とは何かというと、他人を導くことを目的としているということがあった。
つまり、自分が悟ってから人々を導こうというものではなく、人々を助けたいがために仏になろうとするのが仏なんだということである。
衆生済度という願いが人格化したものが報身ということか。
『生と死の密教』によると、アンベドガールの新仏教はテーラヴァーダ仏教からの支援を期待していたが、アンベドガールは輪廻転生説を否定していたので、拒否反応を示されたという。
ということは、テーラヴァーダ仏教では業に報いとして、どこに輪廻するかが決まると、今も説いているのか。
アウト・カーストに生まれたのは前世の宿業のためだということをアンベドガールが認めないのは当然のことである。
http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/shinpou_0510.html
円さんはどう思われますか。法然上人にせよ親鸞聖人にせよ、当時の知識人でありますし、河田光夫さんや本田哲郎神父も第一級の学者さんであります。
んで、その人たちが絶賛する「悪人」との関係の中に救いがほんとうに見出せるか。どこまで見出せるか。
築地別院のインタビューでも、真宗坊主にうれしいことを言ってます。
だけど、テレビでの発言を聞きますと、どうも好きにはなれないですね。
「悪人」とは誰のことか。
罪を犯した人、罪の存在であると自覚した人、悪人として排除されている下層民、などなどいろいろ言われています。
悪人とは自分にとって都合の悪い人、という定義もできますね。
悪人とは結局のところすべての人間だということになりますと、「悪人との関係」というより、「人との関係」の中でこそ救いが開かれているということになると思います。
いい関係もあるけど、こじれてしまう関係や、しんどいだけの関係もあります。
「関係」ということも、そうなるとあらゆる関係となってきます。
となると、すべての事柄、出来事に救いが見いだせるはずだということになりますね。
そりゃもちろんそうなんですけど。
つまり問題がそこに集中しているというのか、累積しているというのか、はっきりと見えるカタチである。。。というか。
海という喩えを使って、何かを波になぞらえるというのがありますが。シーツの喩えの方がいいでしょう?(笑)
それだと社会から受け入れてもらえない人、排除される人、つまりは犯罪者や下層民、さらには障害者や高齢者なども「しわ寄せ」人ということになりますね。
>はっきりと見えるカタチである
ここがこのとこちょっと考えていることで、見えないから問題がないのかどうか、です。
あなたにはわからないけどある、あなたの体臭、というのはあります。
あなたにはわからないし他の人にもわからない、だけどもある、あなたの体臭、というのはあるでしょうか。
差別問題とかセクハラの問題は後者かなと。
では、クレーマーはどうなんでしょうか。
カトリックのひとはまた『星の王子さま』の中のせりふ。たいせつなものは目にみえないんだよ。。。なんてことを良く言ってましたが。金子みすずの詩にもありましたよね。見えないものでもあるんだよ。。。でしたか。
↑まあこれはロマンティックなものですが。円さんがあげられたのはもっとキツイやつですね。大谷派の福祉を研究しておられる佐賀枝夏文さんは、お説教でたしか「わたしの批判をする人は、アミダさんが夜叉(鬼?)の姿をとって自分を導いてくださるのだと受け止めてます」と言われてました。
もっとも私は人間ができていませんから、常不軽菩薩のはなしとかはスキじゃありませんが(笑)
ある人が○○というから○○だと判断するのは、どうですかねえ。私は現象学徒ですから意見は保留します(笑)。
以前も高橋哲哉さんのことを延々と書いたときに
すでに述べましたが。被害者がいるから、被害者の言い分だけをただそのままうなだれて聞くべきだとも私は思えないんですよ。。。被害者が泣き寝入りすることがないように、異議申し立てができるように充分配慮する必要があると思いますが。しかし例えば、ぶんまおさんなら中国や韓国(の人)と対話が必要だと書いておられましたよね。
その手のお話はよく聞きます。
ふり返ってみて、ああ、あの時のおかげで、というのは誰にでもありますね。
だけど、受け止めることができるためには、こちらも受け止めることのできる態勢がないとだめでしょ。
抽象的な話ばかり書いているので、何を言いたいんだと思われるでしょうが、たとえば、自分のことを理解してくれていると思っていた人が、実は自分を非難していた、なんてことがあるじゃないですか。
そういう時、自分の立っている大地が実は砂上だったと気づかされます。
その体験をきちんと受け止めるためには、足を踏ん張れる大地を回復する必要があります。
宗教とはそういう大地を与えてくれるはずだと思うのですが、どうもねえ。
その内容や是非はともかく、ある映画スタッフのコメントで、
「自分の実力は1割、あとは事務所の力が5割・周囲の 方のおかげが4割」
というのがありました。
>そういう時、自分の立っている大地が実は砂上だったと気づかされます。
「自信」と「慢心」というのは、区別がある様で・・・うーん、混ざり合った感もある様な気がします。
自信とうぬぼれはどう違うんでしょうね。
辞書を調べてみますと、
自信 自分のもっている能力・価値などを信じる気持ち。また、自分自身を信頼する心
うぬぼれる 実力以上に、自分がすぐれていると思いこんで得意になる
うぬぼれの類義語 自負、自認、自賛
自信でもうぬぼれでもどっちでもいいですが、一生それで突っ切れたら楽そうですね。
他人から無視されるのが辛いのと、他人から過度な期待(視線)を受けるのがしんどいのと。
無限の中に落ち込む恐怖なんですが。
あなたとわたしという区別がなくなってしまえば、恥をかくこともなく、うしろ指をさされることもなく、肩身の狭い思いをすることもなく。
他者との間に生じる苦悩から解放されるんではないかと私は思うのですが。
大勢でいても、人であったも、人の目はやはり気になるもんです。
そこを考えすぎると、もうドツボ。
>あなたとわたしという区別がなくなってしまえば、恥をかくこともなく、うしろ指をさされることもなく、肩身の狭い思いをすることもなく。
「区別がなくなる」とはどうすればできるんでしょうか。