「心でっかち」とは、知識と行動のバランスがとれていない「頭でっかち」のように、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態のこと。
心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例である。
心でっかちは「現実を見る目」を微妙に曇らせてしまう。
たとえば、「若者たちの心の荒廃」という心でっかちな思い込みが、現実には存在しない「凶悪な少年犯罪の増加」という幻を生み出している。
いじめの原因として、子供たちの心がすさんで共感性、つまり他人を思いやる心が失われているという説明はほとんどの人が同意しているが、この説明も「心でっかち」の落とし穴にはまっている。
他人を思いやる心の持ち主は、他人を苦しめる行動をとらない。
だから、「いじめ」をする子供は相手を思いやる心を失った子供なのだ。
しかし、相手を思いやる心を持った子供は「いじめ」をしない、という前提そのものが必ずしも正しくない。
「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、それはみんながどうするかにかかってくる。
一人だけ「いじめ」をやめさせようとする生徒がいても、一人だけではその生徒も一緒にいじめられてしまう。
この場合、「いじめ」が悪いことだと思い、いじめられる生徒がかわいそうだと思っても、自分の身を守るためには「いじめ」に加わるか、見て見ぬふりをする必要がある。
しかし、ほとんどの生徒が「いじめ」をやめさせようと思っている場合、安心して「いじめ」をやめさせる行動がとれる。
「いじめ」に加わるか、「いじめ」をやめさせようとするか、クラスの中でそれぞれの行動をとっている生徒の数に依存している。
「いじめ」阻止をするためには、何人かが加勢してくれるかによって違ってくる。
担任が「いじめ」を許すつもりはないと生徒たちに断言すると、安心感を与え、「いじめ」阻止行動をしやすくなる。
逆に、頼りない担任だと不安感を与えることになって、「いじめ」を阻止行動に加勢することができなくなる。
その行動をとることによって得られる自分の利益の大きさや、自分の身にふりかかってくるコストの大きさは、他の人が同じ行動をとっているかどうかによって変わる。
ほかにたくさんの人が同じ行動をとっていれば、自分もその行動をとりやすくなる。
といったことが山岸俊男『心でっかちな日本人』に書かれてて、なるほどなと思った。
「それは心の問題だ」と言えば何だかわかった気がする。
だけど、実は何も言っていないのと同じなのかもしれない。
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さて。いったいここはどこなのか。魔境でありこの世界はかりそめのものだという人は、この世の出来事にはこころ砕く必要はなし。後生の一大事をむねとして、ひたすら自己自身をみつめましょう。。。みたいなお話しになります。
それに対して、何を寝とぼけたことをいってるんだ。この世が大事。この世界を楽土にしなければいけないのだ!ってことで現世改造を推進する一波が一方にはあります。
しかしながら、理想からはじまった行動がメビウスの輪のように反転してこの世に地獄を出現させたりなんかします。親鸞さんのいう「悪を転じて。。。」ではなく「善き心からの行いが転じて。。。」ですね。
わたしは誰ということで、アイデンティティという問題のこともずっと書き連ねてきたような感じがします。その場その場で「善き者」(ある場面では他人より秀でた者であり、別のある場面では他人と歩調を合わせる者であったりしますが)であらねばならない。。。という抑圧から、他人に自分の悪しき部分を投影して自分をごまかす、自分をよく見つめない(自己欺瞞)ということが起こるのではないかと問題提起しました。
宗教が「生かされて生きる」ということをいい「そのままの自分でいいんだよ」ということを強調すると自己沈静派になるんですかね。その一方、「あなたはツミびとだ」ということで贖罪を強調すると「何かをせざるを得ない」ということになります。
そこらへんが実にビミョーなのですが。親鸞派では日蓮派のような積極的な行動(布教といってもいいですが)に打って出るより、過去の行状をひたすら謝罪する。。。というようなカタチになっていくのかなあと。
私が冷房を使わなくても影響はないじゃないか、と言われたら、その通りなんですが、その通りだとは言いたくないです。
心頭滅却すれば、なんて境地になれば暑くない、というのもおかしい。
強力な中央集権、管理統制によって二酸化炭素の排出を制限すべきか。
しかし、ユートピアを作ろうという試みはすべて失敗しています。
じゃ、どうすればいいか。
そもそも地球温暖化と宗教は無関係だと言われれば、これまたその通りです。
しかし、仏教徒の立場として地球温暖化をどう考えればいいか、という問題提起は有効だと思います。
子や孫のために何を残せるかということですし。
自分は無関係だとして考えないのではなく、心の問題に矮小化するのではなく、革命で一挙に解決するのでもない、何か別の道はないものか、とうじうじ考えています。
>親鸞派では日蓮派のような積極的な行動に打って出るより、過去の行状をひたすら謝罪する。
その上で、じゃ、何かしなければ、ということですか。
生物学者の柴谷篤弘さんはこういわれます。
「個人が差別性を身につけずに育つことは不可能なことだと考えられます。ただ救いなのは、人間は動物と違って正確な内容は未決であっても、ある種の倫理的な意識を身につける能力を生得的に持っていることです」
まあ、極端な差別意識は教育であるとか、関係性の深まり(?)などによってある程度なくせるとのことでしょう。
私もそうでした。
みんながやっているから自分も、という付和雷同にどこでブレーキをかけることができるか。
私の場合ですと、「面白がっとるだけじゃろう」とある同級生から言われたことです。
今から考えるとその同級生はえらいなと思います。
まぁ、人格否定や身に覚えのない苦情を彼らに対してぶつけるのは、勿論いけませんが、苦言を呈することやファンの親切な注意などの意見や批判を「バッシング」と括りつけるのも、これはこれで難しいですね。
それなら、ヤジや悪口と建設的な批判や苦情を分ける作業となると、ひと昔前の手紙や電話の投書とちがって、今はネットですから量が膨大。
となると、分析しきれなくなって、的を射た批判が埋もれたりすることにもなるような気もします。
「芸能人のバッシングは可哀想だ」という意見が出ると、またこれはこれに対して、新たなバッシングが生まれるのですが。
失言、暴言はまずいですが、失言による影響力、また責任の重さなどを合わせ考えて批判すべきだと思います。
というのが、橋下府知事のことです。
橋下がタレントとしてテレビでいい加減なことを言っても、どうせお笑い番組だからという弁解も成り立つかもしれません。
だけど、倖田來未の失言を真に受ける人は少ないでしょうが、タレントとはいえ弁護士である橋下の暴言となると影響力は倖田來未よりも大きいと思います。
さらに、府知事となると過去の発言に対しても責任が問われるのは当然です。
なのに、「冗談だ」とか「話芸だ」などと言い逃れをしていいものでしょうか。
ところが、ネット上では橋下ついては擁護する人が多いように感じます。
どうしてでしょうね。
なお倖田來未、そして光市事件弁護団バッシングについてこういうブログがあり、なるほどと思いました。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200802080000/