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韓国フォークソンググループ/ノランナラン「あなたと一緒に」

 

  久しぶりに見つけた韓国フォークソンググループです。KBSテレビ「コンサート7080」には出演していないようです。

 KBSの歌番組「歌謡舞台」(トロットが多い)でトロット半分叙情歌半分の回でヒ・ソンヨンが歌う「あなたと私」を聞いて、歌詞を見て感激しました。

 歌詞は明るく軽やかで温かく、メロディは単純ですがフォークソングの叙情に溢れ純粋な気持ちを与えてくれます。

 男女フォークデュエットのノランナランはキム・ボンミンとク・ジャギョンの従兄妹同志のグループです。1979年12月にデビューアルバム「あなたと私」をリリースしました。収録曲の「あなたと私」がテレビやラジオで流れて大ヒットしました。

 男女デュオには当時活躍したノントロンパットロン、後で活躍する三月四月、男女デュオを受け継ぐペタラギなどがいます。

 あなたと私は1980年代半ばまで活動し、アルバムをリリースしていましたが、大衆のフォーク熱が冷めてくると、ヒットする曲が出せなくなり解散しました。

 女性メンバーのク・ジャンギョンはヒ・ソンヨンと名前を変えてトロット歌手としてデビューし、その後もアルバム制作を続けています。

 

 君と一緒に 그대와 함께/너랑나랑

 ①山鳥たちが仲良く笑い 渓谷には清流のせせらぎ

*そこに家を建てて 幸せに一緒に暮らそう

 あなたがいつも側にいて 仲睦まじく語り合い

 いつまでも青い心で 幸せに暮らそう*

 ②波の音が遠くから来て 銀色の砂がきらめく場所

‘*~*

 ③窓を開けたら森の中で 美しい花がほほ笑む場所

*‘~*

 ④枯れ木になり雪が降っても 愛の花が咲き誇る場所

‘*~*

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韓国フォーク・ソング・グループ、トアエムア「約束、サマー・ワイン」 イ・ピルウォン&キム・ヒジン「懐かしい人どうし、スカボローフェ

 
 
   1970年代に青春を謳歌した私は、隣の国の若者たちが過ごした1970~80年代にとても関心があり、70,80年代を舞台にしたドラマで少しですが、当時をかいま見る気がします。1970年代を舞台にした韓国ドラマ「死ぬほど好き」(2003年MBC)では主人公のイ・フンが、弾き語りの音楽レストランに勤めていました。そこでは女性フォーク歌手パク・インヒの”終わりのない道”や”懐かしい人どうし”オニオンズの”手紙”  などが演奏されていて、当時人々の間でフォークは特別なものではなかったことを知りました。
 1970年代の韓国音楽とりわけフォークに興味を持った私は、韓国フォークのルーツとも言われる二つのグループを調べてみました。
 韓国のフォークデュオで群を抜いて人気があったのは「トアエムア」と「ラナエロスポ」です。
 「トアエムア」は日本の山室(白鳥)英美子と芥川澄夫の「トワエモア」と同じフランス語で「あなたと私」という意味です。韓国独特のマイナーなメロディで、人の奥深い感性を歌うフォークデュオです。
 1969年に男性のイ・ピルウォンと、今や伝説の女性フォーク歌手になっているパク・インヒで結成されました。”約束”はパク・インヒ作詞イ・ピルゥオンの作曲です。
 1970年にアルバム第1集が、”天上のハーモニー”と絶賛され大ヒット。時の人となったトアエムアは、”二人は恋人どうし”というマスコミの誤解のため、ファンに惜しまれながらパク・インヒが1年の活動の後脱退し、ソロ活動へ。その後「トアエムア」はメンバーにハン・インギョンを迎え第2期「トアエムア」を再開。第3期にはイ・ピルウォン、キム・ウニョン、チェ・イギョン、の3人で活動しますが、アルバムは出していません。
 「トアエムア」といえば第1期のパク・インヒとのデュオが有名です。1集アルバムは自作の曲のほか”スカボロフェアー””エーデルワイス””サマーワイン””ドナドナ”などの洋楽も歌われています。他に代表曲はパク・インヒ作詞作曲の”懐かし人どうし”があります。
 この画像の”約束”と”サマーワイン(1967年ナンシー・シナトラ&リーヘイゼルウッド)”は第3期のキム・ウニョンとイ・ピルウォンのデュオです。曲の間に司会と「トアエムア」のお話をしています。
 
   「約束」
 
 そのいつか会うというあなたと私の約束
 約束 約束 あなたと私の約束
 忘れずに生きようとした私たちの約束
 約束 約束 あなたと私の約束
 約束 約束 あなたと私の約束
 空のように澄み切って生きようとした約束
 約束 約束 あなたと私の約束
 すべての悲しみ忘れる前に私たちの約束
 
 
 

 

 イ・ピルウォンとキム・ヒジンのデュエット

 「ラナエロスポ」の最後のメンバーだったキム・ヒジンと、「トアエムア」のイ・ピルウォンのデュエットで、パク・インヒ作詞作曲”懐かしいひとどうし” ”スカボローフェアー”です。曲の間に「トアエムア」の頃のお話をしています。司会が「アメリカにいるパク・インヒさんにメッセージを」というと”会いたい会いたい帰って来て”と相方だったイ・ピルウォンがメッセージを送りました。最後にキム・ヒジン”花の指輪をはめて”を歌いました。
 この「コンサート7080」のキム・ヒジンの歌声最高です。特に”スカボローフェア”の澄みきった声、素晴らしいですね。
 
  「懐かしい人どうし」
 
 懐かしい人どうし 両手を取って 見合わせて笑い 詩のように共に行く道
 両手には風船を持って 両目には愛を盛って
 胸には一ついっぱい 懐かしさがあるのね
 
 懐かしい人どうし 両目を甘く 仲良くささやきながら 歩いて行く道
 胸にはぼのかな 青い愛
 町角には一ついっぱい 懐かしさがあるのね
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韓国フォークソング/ユシムチョ「「どこでどんな形でまた巡り合うのだろう」「愛よ」

 

유심초 - '어디서 무엇이 되어 다시 만나랴' [콘서트7080, 2005]

 

  ユ・シヒョンとユ・イヒョンの兄弟で結成されたフォーク・デュオ、ユシムチョの”どこでどんな形でまた巡り合うのだろう”は詩人キム・グァンソプの「夜に」から引用した歌詞です。

 この歌を知ったのは最近です。KBSTV「全国のど自慢」で、トロット、Kpopsの歌が多いなかで、3~40代の男性二人が歌う楽しいフォークの歌が、”どこでどんな形でまた巡り合うのだろう”でした。1970~80年代の歌だとすぐにわかったのですが、誰の歌かわかりません。良い曲だと思い、検索してみたのですが探せませんでした。
 やっと、以前に録画したKBSTV「コンサート7080」のDVDから、ユシムチョが歌っているのを発見。”ヤッター!”で、Youtubeからユシムチョの画像を見つけました。直訳の”どこで何になって会おうか”の画像もありました。タイトルや画像を探す「韓国音楽の旅」も大変です。
 この歌は1982年のヒット曲です。ユシムチョのデビューは1975年”君と僕の惜別”で、他に「愛よ」があります。
 
「どこでどんな形で巡り合うのだろう」
 
 無数の星の中 一つの星が僕を見下ろしている
 無数の人の中 その一つの星を見上げる
*夜が深まるほど 星は明るみに消え
 僕は暗闇へと消えていく
 これほどに睦まじい 君と僕は
 どこでどんな形でまた巡り合うのだろう
 君を思うと ふと浮かぶ一輪の花
 僕は花びらに隠れて待とう
 これほどに睦まじい 君と僕は
 蝶と花びらになって また会おう*
*~*
 
 

 

 

 

「コンサート7080」200回記念で、”7080世代”に選ばれた「ベスト30」の16位にランクインしたユシムチョの「愛よ」です。1981年にヒットしました。
 有心草と書いてユシムチョ。ユ・シヒョンとユ・イヒョンの兄弟で結成されたフォークデュオです。
 
   「愛よ」
 
 星のように美しい愛よ 夢のように幸せだった愛よ
 留まっては去った風のように 約束もなく遠ざかった僕の愛
 一輪の花として咲き誇れ 枯れない愛の花として
 もう一度僕の胸に 戻っておいで愛よ 僕の愛
*あ~愛は燃えてしまった火花
 あ~愛はひとすじの風
 あ~きれいに忘れようとしても
 なぜ僕は君を忘れられない
 お~僕の愛*
 永遠に忘れられない 忘れられない

 

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韓国フォークソング/ チョン・テチュン&パク・ウンオク 「愛する者へ」「5・18」

 

 

 2019年4月7日の「開かれた音楽会」(KBSTVの歌番組)から「愛する者へ」です。このステージは5・18追悼音楽会(光州事件の追悼)として開かれたようです。チョン・テジュンとパク・ウンオク夫婦デュオがフィナーレを飾りました。

 歌っているチョン・テジュンとパク・ウンオクはそれぞれソロのフォークシンガーとしてデビューしました。

 夫のチョン・テジュンは1979年に「詩人の村」でデビュー。MBCの新人歌手賞やTBC作詞賞を受賞。
 妻のパク・ウンオクは1979年に”回想””ウィンウィ ウィン”でフォーク歌手デビュー。
 キム・ミンギやヤン・ヒウンと比較される吟遊詩人で, 敍情的な雰囲気と歌詞、独特な声で韓国フォーク音楽の典型と言われるほどです。
 二人は1980年に結婚し夫婦デュオとして、2枚目のアルバムをリリースしましたが、全く売れず、結婚はしたものの窮乏生活を送ることになります。
 3枚目のアルバム「立ち去る船」で大きく成功し、 以後 ”北漢江で”がまた大ヒットを記録。全国的にチョン・テジュン、バク・ウンオク旋風が吹きました。
 
 チョン・テジュンは1978年デビュー曲”詩人の村”が、韓国公演倫理委員会の審議で、相当部分改作されてデビューアルバムに収録されたことがきっかけで、韓国の「歌謡事前審議制度」に対する反対運動を始めました。
 1990年代初めに事前審議廃止運動を展開して、1996年には憲法裁判所の『事前審議違憲決定』を導き出しました。
 
 2009年9月チョン・テジュン、パク・ウンオク夫婦のデビュー 30周年を迎え、社会·文化·芸術界 100人が記念事業推進団を作りました。チョン・テジュン、パク・ウンオクの音楽史、社会的意味を照らし出すこの集まりには, 俳優のミョン・ゲナム、ムン・ソングン、歌手のカン・サネ、ユン・ドヒョンや、音楽評論家・作曲家・映画監督・詩人,・弁護士・大学教授,・ジャーナリストなど多様な分野の人々が参加しました。.(韓国Wiki)より
 
 
 以前録画したKBSTV「コンサート7080」のDVDから、「いい歌探し」をしていました。”愛する者へ”も、クォン・テスとキム・セファのデュエットで知りました。聴く者を大きな愛情で温かく包んでくれる”愛する人へ”です。
 
 「愛する者へ」
 
 あなたの美しい声に この胸は揺れ 僕はいつしか 愛していた
 深い夜にも眠れず あなたの姿だけが浮かび
 愛はこのように訪れては 僕の心を虜にする
 *ウー 月光が輝く夜には ウー 恋しさも深まり
 独りではあかせない 耐え難いこの夜
 いらしてください この夜道へ 月光の下 静かに
 震える僕の手をにぎって下さい
 この熱い想いを抱きしめて下さい*
 *~*
 
 

 

 

 
 5・18追悼音楽会(光州事件の追悼)として開かれた音楽会ではチョン・テチュンが「5・18」と言うタイトルの歌を歌いました。
 チョン・テチュンの詩はかなり過激です。
 
 5・18 翻訳機能直訳
 
どこにも赤い花を植えないでください 通り、丘の中腹、あなたの家の庭で
まだ生存者の心の中に それらの花はカンナよりもバルサムよりも赤いです
どこにも赤い花を植えないでください それらの花は伐採された日に明るく輝きます
松亭基地村を照らす太陽の光の中で 上昇するヘリコプターの翼の夕日を引き裂き、赤くなります
何を見ましたか 息子 私は旗のない暴動車を見ました 娘たち 戦車が行進しているのを聞いた
ああ 私たちの5月はまだ終わっていません その日 将軍の金メダルはどれも回収されませんでした
どこにも赤い花を植えないでください 少年の墓の前にメダルを埋めるまで~~
 
息子 私は屋上で狙撃兵を見ました 娘たち あなたは何を聞いたことがありますか
私は機関銃が発砲する音を聞きました
どこにも赤い花を植えないでください ここで私はマンウォルドんの丘の中腹の錨と話します
忘れないで忘れないでください
花びらのような剣と装飾 姉妹の墓の前に埋めるまでああ~~
 
息子 私は旗の下に死体をみました
娘たち あなたは何を聞いたことがありますか 私は悲鳴の嘆きの叫び声を聞きました
忘れないで忘れないでください
花びらのような剣を装飾 彼らが少年の墓の前にメダルを埋めるまで
 
 光州事件を生々しく歌い上げていますね。
 
 韓国のブログより
 
 この曲を聴くたびに、私の血が燃え立ちます。軍の足音とヘリコプターの轟音で始まる曲の終わりまでに、いつの間にか涙が流れています。
 チョン・テチュンにとって「1980年の光州」は、彼の歌人生を変えた大きな出来事でもありました。その年の5月4日、チョン・テチュンはパク・ウノクと結婚した。済州島での新婚旅行から戻ったとき、彼は緊急時に予備軍を動員するように命じられました。
 予備軍が集まった校庭で光州の話を聞きました。ファン・ソクヨン<光州レポート「死を超えて、時代の闇を超えて>を読むまでは、「詩人の村」でMBC新人賞を受賞したフォークシンガーでした。
 後で知った光州の真実は、きしむような批判的な若者を戦闘機に変えました。「叙情性」ではなく「リアリズム」を備えた楽曲を武器に、「舞台」ではなく「場面」を旅しました

 この曲は、光州のマンウォルドン霊廟で開催された「アンチビエンナーレ」に先立って1996年に作成されました。チョン・テチュンは、光州ビエンナーレに対する抗議であるイベントで歌うように頼まれました。意味のある舞台を作りたかったのです。5月18日の民主化運動の様々な資料を読み、歌詞を書きながら徹夜しました。もともとは「忘れない」というタイトルでした。光州ビエンナーレの大賞のタイトルは「忘れる」だったので、私はそれに不満を表明しました。

「5.18」は、近代史の悲劇に直面して沈黙を守ってきたポピュラー音楽業界の過ちを洗い流す曲になりました。40年後、チョン・テチュンは私たちに「赤い花」を植えることができるかどうか尋ねます。

 
  
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韓国フォークソング/ バブルガム 「片思い」「パパはママが好きなの」

 
 
 
 1972年発売”片思い”。
 穏やかなフォークで気持ちいいですね。イ・ギュデとチョ・ヨングの夫婦デュオ、バブルガムをハングルで検索するとバブルガム物語の記事がありました。
 
 
 「バブルガム物語」
 
  1971年に結成された混成デュエット バブルガムの名前を憶えている人々はあまり多くないようです。しかし”恋歌””片思い”これらの歌は 1970~80年代に、若者たちが一番よく歌ったキャンプファイアーソングの名曲です。
 ”恋歌””片思い””土曜日の夜に(初バージョンは木曜日の夜に)”を最初に歌ったバブルガムは、音楽活動を通じて結婚にまでゴールインした混成デュエットです。
  彼らの末娘イザラムは幼い時代 イェソルと言う名の有名な子供歌手でした。18歳の時パンソリで「史上最年少・最長公演記録」でギネスブックにまで登載された天才歌手です。
 リーダーのイ・ギュデは1967年高校1年生の時、友達と高校生4重唱団 「マイルストーン」を結成しました。
  高2の時ソウルYMCAのYコーラス合唱団に入った彼は、バブルガムの女性メンバーチョ・ヨングと初めて会いました。
 当時京畿(キョンギ)女子高新入生だった彼女はヤン・ヒウンの友達でした。女丈夫なチョ・ヨングは学生時代班長を引き受けたエリート学生でした。歌の才能も優れていましたが、複雑な家庭の事情で大学進学をあきらめる彷徨の時期を送りました。
 1971年大学生になったイ・ギュデは YMCAの大学「Y サークル」活動をしました。バブルガムのヒット曲 ”恋歌””片思い”などは、「Y サークル」活動の時の会員たちが楽しんで歌った歌でした。
 1971年 4月、イ・ギュデはスンシル大正門の前でチョ・ヨングと偶然に出会いました。 運命の出会いでした。ある日チョ・ヨングが予告もなしに荷物を持って彼を尋ねて来ました。お酒, タバコ, 賭博とは縁遠い真面目な彼に大きな出来事が起きたのです。
 生活が大変だった女友達チョ・ヨングと、奉天洞の山頂に一部屋を用意した二人は同居を始めました。
 1971年夏, 男性デュオ「4月と 5月」を結成した友達で後輩のイ・スマン(現SMエンターテインメント会長)だけが家に遊びに来ました。彼に付いて、二人は清平フェスティバルを見物に行きました。
 そこで”その言葉だけを伝えてください”を歌ったソ・ユソクに会いました。その曲はチェ・ベクホの ”入営前夜”とキム・ミヌの ”入営列車の中で”が出る前まで、軍入隊を控えた友達を歓送する若い世代たちに脚光を浴びた歌でした。
  イ・スマンの取り持ちでソ・ユソクとあいさつを交わした、イ・ギュデとチョ・ヨングは予定もなしに舞台に上がりました。
 チーム名もなく舞台に上がった二人は、「Yサークル」で楽しんで歌った翻案曲 ”パパはママだけ好きなの”を歌って、予想をしなかったアンコールの洗礼を受けました。 そしてニュージーランド民謡を飜案した”恋歌” を歌い、当時流行ったフォークソングではない穏やかなフォークソングで素敵な歌を歌った二人は、この舞台が公式デビューのきっかけになりました。(ハングル週刊韓国から抜粋)
 
 
 
 1972年事実上のデビュー曲”パパはママだけが好きなの”
 
 「片思い」
 
 なぜか胸がどきどきします これを見れば これを見れば
 ときめく心をやわらげる方法もなくて 片思いのようです
 きらめく星を見て ふたつがなくて 燃える私の心を伝えたくて
 なぜか胸がどきどきします 彼女だけ見れば 彼だけ見れば
 ときめく心をやわらげる方法もなくて 片思いのようです 片思いのようです

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韓国フォークソング/  ノンドゥロンパットゥロン (ユン・ソルヒ&ユン・ソルハ姉妹) 「感謝~なぜかこうも良いですよね」

 
 
」 この画像はユン・ソルヒとユン・ソルハ姉妹が、韓国CBSTVのインタビュー番組に出演したときに”感謝~なぜかこうも良いでしょうね”を歌った画像です。
 
 「ノンドゥロンパットゥロン」と言えば「屋根部屋」というフォークソングです。「屋根部屋」はこちら→ ノントロンパットロン「屋根部屋」
  
 
 夫婦デュオのノンドゥロンパットゥロンを調べて見ました。
 1978年にキム・ウングァンとユン・ソルヒで「屋根部屋」をリリースして、1979年に二人は結婚し、夫婦デュオとして仲睦まじく活動しました。KBSTV「コンサート7080」にも数回出演しています。明るいヒット曲「屋根部屋」はペンションを思わせるようで、信州の高原に憧れていた若い頃を思い出します。
 ノンドゥロンパットゥロンの二人は、2000年にソウル松坡区でグループ・ホ-ム「星明かりの降る村」(小規模児童擁護施設)を運営します。グループ・ホームとは、親に捨てられた児童5~7人が一つの家庭を構成して暮らすシステムです。
 運営するのは社会福祉法人・非営利法人・個人です。国から管理費や児童手当などが支給されます。国からの手当てだけでは充分ではなく、各施設は経済的に大変な思いをしているようです。
 以前に書いた「チュサラン共同体教会」に感動したばかりです。ノンドゥロンパトゥロンの二人がそのような活動をしていたとは、とても驚いていますし、感激もひとしおです。「コンサート7080」で一言も触れなかったお二人、黙々と善行を重ねていたのですね。
 2010年に夫のキム・ウングァン氏が亡くなった記事を読みました。ビッグダディとして、面白くて頼りがいのある養父だったそうです。
 Youtubeでユン・ソルヒとユン・ソルハ姉妹が、ノンドゥロンパットゥロンとして出演した画像がありました。夫婦で活動した時に比べ、やつれたような気がしますが、「星明りの降る村」の運営を続けるために、テレビや教会やチャリティのコンサートに頑張って活動しているユン・ソルヒ。イ・ジョンラク牧師 が言っていた”誰かがやらねばならない”という言葉の重みを強く感じます。
 ビッグママは強い!ソン・ソルヒは子供たちの心の傷を、愛と信頼で癒してくれるでしょう。
 ユン・ソルヒは神学の勉強をして、今現在は牧師としても活躍しています。
CBSTVのインタビューは 
③ http://youtu.be/0c67aNyp7bE 韓国語が分からないので貴重なお話なのに意味が分かりません。
 
 ハングルの記事によると、ユン・ソルヒはこのようにお話しています。
 ”小学校1年生から高校1年生まで、皆で7人の子供たちがいます。年齢帯は多数ですが、皆家庭解体によって、こちらへくるようになった子供たちです。親の離婚や、経済的な難しさのために家庭が解体されるとか、などです。親の放任、遺棄、虐待を受けた子供たち。こんな子たちがグループホームに集まって暮らしています。親の離婚過程を見守って、心に大きな傷ができた子供たちもいます。できるなら私のような仕事はなくなったほうがいいと思います。どの子も親の元で幸せに暮らせるようにと願います”
 
 一部の世論では家庭解体が国の予算を圧迫するといいます。施設に費用がかかりすぎるという意見もあります。しかし国がまず国民の生活に予算を使って、国民の幸せな暮らしを築くことが、本当は一番にやるべきことではないでしょうか。(ヤッコガチャの意見)
 
 

「なぜかこうも良いですね」

 

 現在は姉のユン・ソルヒと妹のユン・ソルハでコンサート活動を行っています。

 
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韓国フォークソング"ドゥルダソッ"「夜船」「まだらなコムソン」

 

 1998年の韓国ドラマ「ずっと会いたい」(MBC 全273話)を観直しています。一度観ているのでストーリー展開はわかっているのですが、いやもう本当に面白い。次回が気になって気になって、毎日観てますが一日3話までと決めています。
 80話で主人公のキム・ジスが恋人のチョン・ボソクにせがまれて歌うシーンがありました。歌った曲はドゥルダソッの”夜船”でした。ロマンチックな歌詞ですが、でもそのシーンは悲しいシーンでした。
 韓国音楽に慣れ親しんでいますので、劇中で流れている曲のタイトルもわかり、2倍ドラマを楽しんでいます。
 夜船を検索すると「ドゥルダソッ」の歌がみつかりました。ドラマで使われるくらいなのだからヒットしたのですね。
 
 
  夜船
 
 黒い光 海の上を 夜船夜船よ 怖くもないんだね 悠々と流れる
 夜空の小さな星たちが まばらに光るとき 
 小さな櫓を漕いで 天の川を渡っていく
*果てしなく 果てしなく 進み続けて どこで どこで 眠るのか
 見るもの 探すものいない 小さな夜空よ*
*~*
 

 

 

 フォークソンググループ「ドゥルダソッ」は”長い髪の少女”で1974年にデビューして、”夜船”も同じくデビュー曲です。右のオ・セボクが作詞、左のイ・ドゥジンが作曲しています。イ・ドゥジンはメンバーを変えてずっと歌い続けています。
 
 2007年に「コンサート7080」に出場したドゥルダソッのイ・ドゥジンは。”まだらなコムシン”を歌い終わったあと 「33年前の歌です。コムシンをはいて遊んでいた子供の頃を思い出します。この番組に来ると学生時代に戻るようですね」と話していました。

 

 

 

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韓国フォークソング/”ドゥルダソッ” 「長い髪の少女」(둘다섯(Two & Five) - 긴 머리 소녀)「目の大きな子供」( 눈이 큰 아이)

 

 

  私のカラオケ定番「長い髪の少女(긴 머리 소녀)覚えやすい韓国語の歌詞とメロディです。

 KBSワールド歌番組「コンサート7080」の200回記念にゲストでドゥルダソッも出演していました。”長い髪の少女”は、オ・セボクが作った歌で1974年の歌です。
 ”7080世代”が選ぶ歌の30位に入っています。
 
  「長い髪の少女」
 雨音とともに浮かぶ姿
 月のように魅力的な白い顔
 偶然出会い黙って去ってしまった
 長い髪の少女よ
 *目の見えない子どものように
 耳の聞こえない子どものように
 ゆっくりと飛び石を渡っていた
 小川の向こうの小さな家の
 長い髪の少女よ
 目を瞑り両手を合わせ
 君の為お祈りするよ*
 *~*
 
 

 

 
  
 1976年ゴールデンアルバムのフル・アルバムがYoutubeにupされていてうれしかったのですが、削除されてとっても残念です。
 アルバムを聴いていると、1960~70年代の正当派フォークソングを楽しめて、その頃に帰ったような穏やかで幸せな気分になります。韓国フォークは奥が深くて、これからもいろいろな曲に出会えて楽しみが増えそうです。
 日本語で検索しても出てこなかった「ドゥルダソッ」、英語表記で検索すると数件でてきました。グループ名”Dooldaseot”は日本語に訳すると「2つ5つ」だそうです。
 1974年第1期から1990年の第3期以降、メンバーが変わっています。メインボーカルのイ・ドゥジンは変わりませんが、他のメンバーは1974年第1期オ・ヨンジン、1975年第2期オ・セボク、1990年第3期ユン・ヨンジンです。

 

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韓国フォークソング/ヒョンギョンとヨンエ "クリウォラ(懐かしいよ)" "美しい人"

 

 

 
 
 KBSTVの歌番組「コンサート7080」などでよく聴いたフォーク・ソングの”クリウォラ”は、「ヒョンギョンとヨンエ」という女性デュオがオリジナルです。
 ”クリウォラ(懐かしいよ)” はスペインのモセダデス(Mocedades)の “Adios Amor” https://youtu.be/Dn5fD6fCO60に韓国歌詞を付けた曲で, 翻案曲としてかなり人気を集めたワルツ風の歌です。この曲は1978年『MBC 大学歌謡祭』でサントスが、 “君いる所まで”と言うタイトルで発表して人気を呼びました。 とても興味があったので「ヒョンギョンとヨンエ」を調べてみました。
 
 詳しい韓国記事がありましたので抜粋して載せます。
 
 ヒョンギョンとヨンエは名前で分かるようにイ・ヒョンギョンとパク・ヨンエで構成された女性フォークデュオです。1971年ソウル大新入生歓迎会の時初めて出会って、美大新入生のかくし芸代表として初めて一緒に歌を歌いました。
  清く美しい歌で 1970年代初・中盤に大学街で人気を享受しました.。ヒョンギョンとヨンエの主な舞台は、デビューが象徴するように大学でした.。
 当時フォーク黄金期を形成したチョ・ヨンナム、ソン・チァンシク、ユン・ヒョンジュ、キム・セファン、ヤン・ヒウンなどのスター歌手たちが、 TV・ラジオ・音楽喫茶・リサイタル・フェスティバルなどを縦横無尽に活躍したことと違い、 ヒョンギョンとヨンエは音楽仲間たちのリサイタルやラジオ放送に賛助出演したことを除いては、ずっと大学祭などの非商業的舞台で活動しました。
 1974年に発売されたアルバム『美しい人~我が友』は、ヒョンギョンとヨンエのデビュー作であり、同時に唯一のアルバムです。普通デビューアルバムが音楽家の本格的な活動を知らせる足場として意味を持つのに比べて、ヒョンギョンとヨンエのデビューアルバムは大学時代の音楽活動を整理する記念作品の性格を帯びています。
 卒業を控えて記念して作ったこのアルバムは、そのまま事実上の”音楽活動卒業” アルバムになりました。 したがってこのアルバムに収録された曲は、大学時代楽しんで歌った曲を主として選曲されたことで、これを通じて彼女たちが追い求めた音楽世界をうかがうことができます。
 収録曲はイ・ヒョンギョンの自作曲2つの曲、ポップソングの翻案曲3曲, そして友人、先輩からの5曲で構成されています。このアルバムに曲を提供した人々は“朝露”のキム・ミンギ(“美しい人”)、“セノヤ”のキム・グァンヒ(“私帰ろう” “我が友”)、キム・ドクニョン(“エギナハジ”)、そして “それは君”で有名なイ・ジャンヒ(“雪の結晶”)で、音楽仲間たちです。 作曲してくれた面々を見ればこのアルバムの主人公と同じように、大部分当時の職業的歌手や作曲家とは距離がある人物たちなのかが分かります。
  このアルバムでヒョンギョンとヨンエは時には交互に歌い、 時には美しいハーモニーを聞かせています。 その歌の中に”清くて純粋な魂”を盛ろうと思ったということはアルバムを最後まで聞かなくても分かります。キム・ミンギの “美しい人”は代表的な歌で す。
 
 
 
 
 
 ”美しい人”はキム・ミンギの曲です。
  
 
 
 
 
 ”雪の結晶”イ・ジャンヒの曲
 
 
  “美しい人”“私帰ろう”“エギナハジ”のように物静かで真摯な感じの曲だけでなく、むしろ楽しくてはつらつととする翻案曲も盛り込まれています。
  “鐘の音”はペギー・リーのキャロル“O Ring Those Christmas Bells”。”本当にきれいですね”.はピーター・ポール&マリーの “Oh, Rock My Soul”を飜案した曲です 。
 これらの翻案曲はイ・ヒョンギョンの作詞家としての優れた才能も知らしめ、音楽的にも楽しめるものでした。
 
  1974年に発売されたこのアルバムは,カルト的な人気を集めている高価な珍しいアルバムです。それはこのアルバムが1970年代初頭のフォークの本質を相当部分おさめている結晶体であり、発売された1974年はもうフォークが大衆化された時代だったと言うことを考えれば理解ができるでしょう。しかしこのアルバムが高価なアルバムである理由は、何よりこのように美しいハーモニーを聞かせるフォークアルバムを捜すことは難しいからです。
 
ヒョンギョンとヨンエ 「美しい人/我が友よ」収録曲
Side A
 1 美しい人 2 あなたの心 3 花弁 4雪の結晶 5 クリウォラ(懐かしいよ)  
Side B
 1 我が友 2鐘の音 3 エギナハジ 4. 本当にきれいですね 5 海で
 
 注1. 1970年代初ソウル大には美大生を中心に、大学生フォーク共同体の一翼を形成した人物たちが集まっていました。キム・ミンギとキム・ヨンセ、キム・アヨン、チョ・プンジャなどが美大に在学中で、キム・グァンヒはイ・ヒョンギョンの高等学校の先輩で音大に籍を置いていました。こんな雰囲気がヒョンギョンとヨンエの音楽的滋養分になりました。

 注2. 1960年代末、1970年代の初め、フォークデュオは「ツインポリオ」「オニオンズ」「4月と 5月」など男性だけの構成か、「トアエムア」「ラナエロスポ」のような男女混成デュオの場合が多かった。一方女性フォークデュオは珍しかった。
 
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韓国フォークソング/コッタジ ”託(ことづけ)””岩のように”

 
 
 
   コッタジ ”託(ことづけ)”
 
 韓国の歴史は抵抗、闘いの歴史でもあります。その中で生まれた歌や、歌声を届ける人たちのグループも生まれました。歌で慰められ、励まされ、勇気づけられました。それらの歌は民衆歌謡と呼ばれます。
 
(韓国Wikiより) 民衆歌謡とはプロテストソングで、主に社会運動に関わる歌を総称する表現です。 労動運動,・祖国統一運動,・人権運動,・政治運動など主題別で多様です。
 韓国の民衆歌謡は主に 1980年代に数多く作られました。民衆歌謡は当時の世相を反映し、 それぞれの運動の主題を歌いました。 1987年の韓国での民主化のための「6月抗争」以後には、多くの大学に民衆歌謡を歌うノ-レペ(サークル)が創立されました。
 以後労動運動が活発だった期間には、労動者の権利に関する民衆歌謡がたくさん増えました。2000年以降も大衆が大きく動いた集会(2002年の米軍装甲車による女子学生圧死事件など)の歌も歌われています。
 社会・政治問題に限らず、日本の植民地時代からの解放の歌や、北朝鮮との祖国統一を願う歌などがあります。
 集会で歌われる歌はそのために作られた歌もありますが、なかにはキム・ミンギの”朝露”"常緑樹”のように自然発生的に集会で歌われて、民衆歌謡の象徴になった歌もあります。(韓国Wikiより)
 
 
 歌が好きな韓国の人々はいろいろな抵抗の場面や集会で、力強い歌だけではなく、流行歌やフォークを歌いました。フィーバーズ”逝ってしまった友達に捧げる”や、4人組ヘバラギ”今の別れを”なども歌われました。
 
 以前にノチャサのカテゴリでノチャサ(歌を探す人々「四季」「1984年第1集」「1989年第2集」)をUPしましたが、『コッタジ』は労働現場から生まれた歌声グループで、 5人組の男女混成歌手グループです。
 1988年末「労動者歌団」と 「生の歌イェウルリム」が結成され、これらのグループは労動現場を中心にして、粘り強く労動歌謡を創作及び普及して来ました。1992年 3月 1日二つのグループが統一され、『コッタジ』が結成されました。(韓国ウィキより)
 
 日本も同じですが非正規雇用、低賃金、悪辣な労働環境など、現在の労働現場をコッタジはストレートに批判して歌っています。直接的なメッセージの歌もあります。
 
 ”託(ことづて)”を聴いて感じたのは、「1990年代、夢と希望を持って理想の社会を追い求めたけれども、年月が経ち理想の社会とは程遠い新自由主義の生きにくい世の中に挫折もするが、当時の夢や希望を未来へ託し、良い社会になるように」そのような思いなのでしょうか。
 
 『コッタジ』 アルバム
 

1992: 非合法1集 <修繕前も>  1993: 非合法2集 <明日には明日の太陽が>   1994: <コッタジ抜純曲集>   1994: 1集 <禁止の壁を越えて完全な自由を歌おう>  1997: 2集 <人は花より美しい>   2000: 3集 <真珠>  2011: 4集 <歌の夢>
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ”岩のように” 1994年正規アルバム1集収録曲。この歌も民衆歌として,集会でよく歌われるコッタジの代表的な曲です。
 
 
 ”岩のように”
 
 
 大地の岩のように 雨風に吹かれても
 誘惑の言葉に揺るがない 岩のように生きてみよう
 *風に揺れるのは 根が浅い葦の葉
 大地に深い根を下ろして生きる 岩のように
 苦しいときもくじけずに 試練の中に立ち向かおう
 我等の未来に向かって行こう 岩のように生きてみよう*
 *~* 岩のように生きてみよう
 
   岩のように
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