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1963年の洋楽 ⑰ ビーチボーイズ 「サーフィンUSA」 「ハワイ」”Surfin' USA" "Hawaii"

 
 
 
  ビーチ・ボーイズ(Beach Boys)はブライアン、デニス、カールのウィルソン3兄弟にマイク・ラブ、アル・ジャーディンの5人で1961年に結成され、1961年シングル”Surfin"でデビュー。1962年にはファースト・アルバム「Surfin'' Safari'」をリリース。1963年のアルバム「Surfin' USA」からシングルカットされた同名曲が、米国では3位にランクされるヒットになりました
. 日本では夏にヒットし、文化放送「9500万人のリクエスト」では、1963年8月11日に19位、9月1日に14位、9月22日に21位までランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」の「1963年間ベスト100」では47位に選ばれています。
 
 
 
 
 
 
  アルバム「Surfin' Sufari'」から,”ハワイ'"('Hawaii)です。.この曲はオーストラリアだけでシングルカットされ、1964年に9位にランクされました。1960年代後半に東芝から発売された「ビーチボーイズベストアルバム」に収録されていました。ビー・チボーイズらしい、明るく軽快なコーラスで好きなナンバーの一つです。
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1964年のポップス ⑤ 「ダンケ・シェーン」 コニー・フランシス、ベルト・ケンプフェルト

 
  
 
 ”ダンケ・シェーン(Danke Schoen)はドイツのベルト・ケンプフェルトが作曲し、自身の楽団で1962年にファースト・レコーディングされました
 日本ではベルト・ケンプフェルト楽団のレコードでもヒットしましたが、1964年にコニー・フランシスが日本語版をリリースしました。コニー・フランシスはこの曲をフランス語、スペイン語 イタリア語でも歌っています。ブレンダ・リー、カテリーナ・ヴァレンテ、ウェイン・ニュートン、日本では弘田三枝子などの歌手にもカヴァーされています。
 文化放送「9500万人のリクエスト」では、1964年3月5日に21位で初登場、4月9日に最高位13位、4月16日に16位までランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」の「1964年間ベスト100」では29位に選ばれています。
 
 
 
 
 
 
 ベルト・ケンプフェルト楽団の”ダンケシェーン(Danke Schoen”です。ケンプフェルトはアレンジをすこしづつ変えて、何回もこの曲をレコーディング」しています。

 

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1964年のポップス ④ ブレンダ・リー、トニー・ベネット「サンフランシスコの思い出」(I left My heart in Sanfrancisco)

 

 「想い出のサンフランシスコ」(I Left My Heart in Sanfrancisco) は1962年にトニー・ベネット(Tony Bennett)によって録音され、シングル盤のB面として発売されました。A面の曲より、この曲ばかり注目され、1962年のポップスのチャートでヒット、ゴールド・ディスクになりました。その年のグラミー賞でも最優秀レコード賞と最優秀男性ヴォーカル賞を受賞しました。

 ジュリー・ロンドン(Julie London)など多くの歌手がカヴァーしましたが、1964年に日本では”サンフランシスコの思い出”のタイトルで、ブレンダ・リー(Brenda Lee)の歌でヒットしました。
 文化放送「9500万人のリクエスト」では、1963年12月26日に21位で初登場、1964年2月20日に最高位6位、4月9日に17位までランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」の「1964年間ベスト100」では62位に選ばれています。
 
 
 
 
 
 
 トニーベネットの”I Left My Heart in Sanfrancisc"です。今では”想い出のサンフランシスコ”のタイトルで親しまれています。
 
 
 
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1964年のポップス ③ ボビー・ライデル 「フォーゲット・ヒム」 「ワン・ガ-ル」

 

 

ボビーライデルは1959年にレコーディングデビュー、”Kissin' Time ”が11位、”We Got Love”が6位、1960年には”ワイルド・ワン(Wild One)”が最高位2位のヒットになりました。1964年までにトップ40にランクされた曲は20曲近くになります。演技力もあり、映画「バイ・バイ・バーディー(Bye Bye Birdie)」では、アンマーグレットの恋人役を演じています。

  「フォーゲット・ヒム(Forget Him)」はトニー・ハッチの曲で、米国では1964年1月に最高位4位のヒットになりました。文化放送「9500万人のリクエスト」では1月30日に14位で初登場、2月27日に18位までランクされました。、「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」の「1964年間ベスト100」では47位に選ばれています。

 

 

 

 もともと”ワンボーイ(One Boy)のタイトルで、ミュージカル「バイ・バイ・バーディー(Bye Bye Birdie)」(1960年)のために書かれた曲で、1963年に映画化されたときにはア,ンマーグレットが歌っていました。

 日本ではジョニー・ソマーズの歌で1963年にヒットしました。ボビー・ライデルは”ワン・ガール”の歌詞に代えて歌っています。
 

 

 

 

 

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1964年のポップス② 「自由への賛歌(星影のビギン)」 ケネディ大統領とコーラス)]

 

 ケネディ大統領の演説から一部を抜き出して、コーラスと音楽をつけたアルバム「ケネディと歌おう(Sing Along with JFK)が、1963年に米国でリリースされました。

 ケネディ大統領暗殺後、1964年にアルバムの中から「自由への賛歌(星影のビギン)」(Let Us Begin Biguin)がシングルカットされました。日本ではこの曲と’世界は一つ(Alliancefor Progress Bossa nova)」、「自由のワルツ(Ask Not Waltz)」など4曲
入りのEPも発売されました。 
 哀愁にあふれたメロディーとコーラス、ケネディの演説がすばらしいです。
 ケネディ大統領が暗殺されていなければ、世界は今とはまったく違った、戦争と憎しみと対立の少ない社会になっていたのではないかと思うと、感慨深いものがあります。

 

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1969年のポップス ③ ホリーズ 「ごめんねスザンヌ」 Hollies "Sorry Suzanne"

 

 ホリーズにとって1968年はグループ結成以来 最大の激動の年になりました。音楽性の違いにより(ロック志向のグラハム・ナッシュと、ポップス志向のアラン・クラーク、トニー・ヒックス)、グラハム・ナッシュはグループを辞め、デビッド・クロスビー、ステファン・スティルスとクロスビー・スティルス&ナッシュを結成します。

 ホリーズは1969年3月にリリースしたアルバム「ホリーズ・シング・ディラン」が英国では3位にランクされましたが他国ではチャートインせず、不評に終わりました。ポップなホリーズに、ポップさが希薄なディランのナンバーでは、水と油のようなもで、企画自体が間違っていたと思います。
 ホリーズにはテリー・シルヴェスターが加入、初心に返ったようなリヴァプールサウンドを想わせる、ポップでメロディアスな「ごめんねスザンヌ」(Sorry Suzannne)を1969年春にリリース。英国で3位、ニュージーランドで2位、ノルウェイとオランダでは4位、米国では56位にランクされました。
 日本では小ヒットに終わり、「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」の「1969年間ベスト100」にも選ばれていませんが、私はとても好きな曲です。次にリリースされた「兄弟の誓い」も名曲だと思うのですが、なぜか日本ではほとんどヒットしなかったのが、ポップスファンとして残念です。
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1967年のポップス㉗ ホリーズ「恋のカルーセル」「キングマイダス」

 
 
 
 ホリーズの「恋のカルーセル」(On A Carousel)は英国では4位、米国では11位、
ニュージーランドとスウェーデンでは2位にランクされました。ホリーズは本国だけでなく、ヨーロッパ・オセアニアの国々でも人気がありました。
 TBS「東芝ヒットパレード」では1967年4月7日に20位に初登場、6月16日・23日に最高位2位にランクされました。
 
 
 
 
  
 
  ホリーズの「キングマイダス」(King Midas In Reverse)は、ビートルズの「サージェントペパ-ズ」の影響を受けた凝ったアレンジの曲で、英国では18位、米国では51位と不評に終わりました。個人的には、凝ったアレンジに隠れたメロディーの良さで、ヒットした「恋のカルーセル」より好きな曲です。
 TBS「東芝ヒットパレード」では1967年12月15日に20位初登場、1968年2月9日に最高位2位にランクされ、3月13日までベスト20にランクされました。
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1968年のポップ ⑤ ホリーズ「ディアー・エロイーズ」 「とび出せ初恋」

  

 ホリーズ1967年のアルバム「Butterfly」からシングルカットされた”ディアー・エロイーズ”(Dear Eloise)は、英国ではシングル未発売、米国では50位でしたが、オーストリアでは2位、ニュージーランドでは4位など世界でヒットしました。

 アルバムがサイケな造りになっているので、この曲もイントロと間奏がそれ風ですが、メロディーが親しみやすくホリーズのコーラスが楽しめる好ナンバーになっています。
 TBS「今週のベスト10」では、1968年4月21日に18位で初登場、4月28日に12位、5月5日14位までランクインしました。TBS「東芝ヒットパレード」では、4月12日に19位で初登場、5月17・24・31日に最高位7位、6月28日に18位まで。ランクインしました。
 「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」では、「1968年間ベスト100」で94位に選ばれています
 
 
 
 
 
 
「とび出せ初恋」(Step Inside)は、アルバム「Butterfly」から日本のみシングルカットされました。
 TBS「東芝ヒットパレード」では、1968年2月19日に17位で初登場、3月15・22日に最高位7位、4月12日に18位までランクインしました
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1966年のポップス ⑯ ホリーズ「バス・ストップ 「アイ・キャント・レット・ゴー」

 
 
 
 子供時代から親友だったアラン・クラーク(Allan Clark)とグラハム・ナッシュ(Graham Nash)に、トニー・ヒックス(Tony Hicks)などが加わってホリーズは結成され、1963年に「EMI Pairophone」から"Ain't That) Just Like Me”(全英25位)でデビューしました、続く”Searchin”は全英12位、”Stay"は全英8位、1964年には"Just One Look"(全英2位)、"Here Go I Again"(全英4位)、1965年には”I'm Alive”(全英1位),”Look Through the Window"が全英4位のヒットになりました。
 ホリーズ日本での初めてのヒット曲”バス・ストップ(Bus Stop)”(東芝)OR=1582)は、英国・米国で5位、カナダでは1位のヒットになりました。のちの10CCのグレアム・グールドマン(Graham Gouldman)の作品です。
 「TBS今週のベスト10」では、1966年10月16日20位に初登場、12月11、18日に1位、3月12日までベスト20にランクされました。
 文化放走「9500万人のリクエスト」では、9月22位に20位で初登場、12月8日に1位、1月12日までベスト20にランクされました。 「洋楽ヒットチャート大事典(八木誠著)」では、「1966年間ベスト100」で20位に選ばれています
 
 
 
 
 
 
 日本では”バス・ストップ”のB面だった”アイ・キャント・レット・ゴー(iCan'tLet Go"は
英国では1966年2月にA面でリリースされ最高2位、米国では42位にランクされました。個人的には「バス・トップ」に負けないくらい、良い曲だと思います。
 
 
 
 
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1965年のポップス ⑦ シーカーズ「二人の世界」(A World Is Our Own) 「涙のカーニヴァル」(Carnival Is Over) 

 

 シーカーズの英国でのセカンドシングル、「二人の世界」」(A World Is Our Own)(トムスプリングフィールド作)は、デビュー曲の「恋は一つだけ」”I Never Find Another You”に続き英国で2位、オーストラリアでは1位、米国では19位のヒットになりました。   (Kann Dorao)

 

 

 

 英国での3枚目のシングル「涙のカーニヴァルl」(Carnival Is Over)は、英国で3週間1位、オーストラリアでも2週間1位になる大ヒットになりました。この曲はもともとロシア民謡で、トム・スプリングフィールドが英語の詩をつけました。

   (Kann Dorao)

 

 

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