人が生きる世の中(サランサヌンセサン)
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1969年のポップス ⑮ ビーチ・ボーイズ「アイ・キャン・ヒアー・ミュージック」「ブレイク・アウェイ」」
ビーチ・ボーイズ(Beach Boys)の”アイ・キャン・ヒアー・ミュージック(I Can Hear Music)"(東芝CR-2239)です。アルバム「20/20」からのシングル・カットで、B面は米国と同じ”All I Want Do”です。米国では1969年3月にリリースされ最高位20位、英国では10位にランクされました。リード・ヴォーカルとプロデュースはカール・ウィルソン(Carl Wison)です。エリー・グリニッチ(Ellie Greenwich)・ジェフ・バリー(Jeff Barry)・フィル・スペクター(Phil Spector)の作品で、オリジナルはロネッツ(Ronnettes)で1966年10月にリリースされました。
ビーチ・ボーイズの”アイ・キャン・ヒアー・ミュージック”は、文化放送「オール・ジャパン・ポップ20」では5月25日に18位で初登場、7月6日には5位にランクされました。「洋楽ヒットチャート大事典」(八木誠著)では1969年年間チャートで43位に選ばれています。
ビーチ・ボーイズの”ブレイク・アウェイ(Break Away)”(東芝CR-2317)です。アルバムには未収録で、B面は米国と同じアルバム「20/20」から”Celebrate the News”で、米国では最高位63位、英国では6位にランクされました。ブライアン・ウィルソンと妻のマリー・ウィルソンの作品です。
1969年のポップス ⑬ ナンシー・ウィルソン「想い出の白い部屋」ジャッキー・デシャノン「恋をあなたに」
米国の黒人女性歌手ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson)の”想い出の白い部屋(In A Long White Room)”です。ナンシー・ウィルソンはジャズからソウル・ポップスまで歌える実力派の歌手で1961年にレコード・デビューし 、2010年に引退するまで音楽界の第一線で活躍しました。グラミー賞も3回受賞しています。
「想い出の白い部屋」はアルバム「Nancy」(1969年)からで、日本でのみヒットしました。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1969年年間チャートで55位に選ばれています。
米国の女性歌手ジャッキー・デシャノン(Jackie DeShanon)の「恋をあなたに(Put Little Love in Your Heart)」です。アルバム「Put Little Lovin in Your Heart)」(1969年)からで、米国では1969年8月に4位にランクされ、彼女にとって”What the Love Needs Now Is Love”(1965年)に次ぐトップ10チャート入りの作品になりました.
日本ではジャッキー・デシャノン初めてのヒットになり、「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1969年年間チャートで90位に選ばれています。
ジャッキー・デシャノンはシンガー・ソング・ライターで、歌手と作曲家の両方で活動、作曲家としてはサーチャーズSearchars)のヒット曲”ピンと針(Needles and Pins)"、キム・カーンズ(Kim Carnes)の”ベティー・デイヴィスの瞳(Bette Davis Eyes)”が有名です。
1969年のポップス ⑫ スパンキー・アンド・アワー・ギャング「昨日の雨」「さっぱりわけがからない」
スパンキー・アンド・アワー・ギャング(Spanky and Our Gang)の米国での8枚目のシングル”昨日の雨(Yesterday's Rain”(日本フィリップスSM-1065)です。日米ともにB面は"Without Rhyme and Reason"です。3枚目のアルバムからで、米国では'Give a Damn"に次いで1968年後半にリリースされ、全米94位にランクされました。ラジオでも聴いたことがないので、この曲がシングル盤で日本で発売されていたとは驚きました。
スパンキー・アンド・アワー・ギャングの3枚目のアルバムから、"Without Rhyme and Reason(さっぱりわけがからない)"です。ボサノヴァ調の軽快なメロディーと、スパンキーのヴォーカルとコーラス・アレンジが高度で洒落ていて、プロデュースのボブ・ドロウ(Bob Draw)の面目躍如と言ってよいです。それにしても日本語の題名が”さっぱりわけがからない”とは、ヒットしないと思ってレコード会社にやる気がなかったのでしょうか。
1969年のポップス ⑪ スパンキー・アンド・アワー・ギャング「ホンコンブルース」「メッカ・フラット・ブルース」
スパンキー・アンド・アワー・ギャング(Spanky and Our Gang)の”ホンコンブルース(Hong Kong Blues)”(日本フィリップスSM-1068)です。1969年のポップスで最初に記事をかいているので重複になりますが、スパンキー・アンド・アワー・ギャングの3枚のアルバムの紹介ということでUPさせていただきます。
この曲は日本のみシングル・カットされ、スパンキー・アンド・アワー・ギャング日本での初ヒットになりました。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では1969年年間チャートで31位に選ばれています。
スパンキー・アンド・アワー・ギャングの日本でのシングル、'ホンコンブルース”のB面"メッカ・フラット・ブルース"(mecca Flat Blues"です。スパンキー・アンド・アワー・ギャングにしては異色のブルース・ナンバーですが、スパンキーらしい明るいヴォーカルとアレンジです。
1969年のポップス ㊴ ハプニングス「アイ・ガット・リズム」
米国の4男性人組コーラスグループ、ハプニングス(Happnings)の"アイ・ガット・リズム(I Got Rythm)"です。米国では1967年にリリースされ、3位にランクされるヒットになりました。
ジョージ・ガーシュウイン(George Garshuwin)が1931年に作曲、作詞はアイラ・ガーシュウイン(Ira Gershwin)です。ジャズのスタンダード・ナンバーとしてルイ・アームストロング(Louies Armstrong)、デューク・エリントン(Duke Ellington)、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)など多くのミュージシャンがレコーディングしています。日本では1968年にシングルが発売されましたが、ヒットには至りませんでした。
1969年のポップス ㊳ ホリーズ「兄弟の誓い (HE Ain't Heavy He's My Brother)」
ホリーズ(Hollies)はグラハム・ナッシュGraham Nash)脱退後、テリー・シルヴェスター(Terry Sylvester)をメンバーに加え、"ごめんねスザンヌ(Sorry Suzanne)"を1969年2月にリリース、全英3位にランクされました。続くシングル"兄弟の誓い (HE Ain't Heavy He's My Brother)"も全英3位、全米7位にランクされるヒットになりましたが、日本では残念ながらヒットしませんでした。 作曲はボビ・ースコット(Bobby Scott)、作詞はボブ・ラッセルBob Russel)です。
ボビ・ースコットは米国の演奏家(ピアノ・ヴィヴラフォン、弦楽器など)・歌手・作曲家で、1955年にアルバム「The Compositions of Bobby Scott」でデビュー、1955年~60年代に13枚のジャズ系のアルバムをリリースしています。自身のアルバム「ROBERT WILLIAM SCOTT」(1970年)で"兄弟の誓い(HE Ain't Heavy He's My Brother)"を歌っています。
アレンジが素晴らしいホリーズの"兄弟の誓い"です。哀愁を帯びたイントロのハーモニカ、アラン・クラークのヴォーカルに美しいコーラスとストリングスが加わり、クライマックスまで歌詞の良さも相まって感動してしまいます。1988年にはリヴァイバル・ヒットし、全英1位にランクされました。
"兄弟の誓い (HE Ain't Heavy He's My Brother)"はホリーズ以外にニール・ダイアモンド(Neil Diamond)、ダニー・ハサウェイ(Donny Hatherway)、オリヴィア・ニュートン・ジョンOlivia Newton-John)、ビル・メドレイ(Bill Medley)などがレコーディングしています。
ホリーズの"兄弟の誓い (HE Ain't Heavy He's My Brother)"はメロディー・アレンジだけでなく、ボブ・ラッセルの歌詞も胸を打ちます。My Brotherという言葉は実の兄弟だけでなく、他者、弱き者をも含めていて、それらの人達に対する思いやり、愛を歌っています。英語の歌詞付の画像をUPします。
1969年のポップス ㊲ ファウンデイションズ「恋の乾草」「星のベイビー」(1968年)
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英国のポップ・ソウル・バンド、ファウンデイションズ(Foundations)の「恋の乾草(Build Me Up Buttercup)」です。ファウンデイションズは1966年に白人3人、黒人4人の混成バンドとして結成され、プロデューサー兼ソングライターとして有名なトニー・マッコーレイのもと、パイレコードからデビューしました。
英国では1967年のデビュー・シングル"星のベイビー(Baby Now That I've Found You)"がチャートで1位にランクされるヒットになり、2枚目のシングル「恋するベイビー(Back on My Feet Ahttps://youtu.be/tNFj9IdpMQMgain)」も全英18位にランクされました。英国での4枚目のシングル"恋の乾草(Build Me Up Buttercup)"が全英2位にランク、日本でも1969年に発売され、日本でのファウンデイションズの初ヒット・ナンバーになりました。「八木誠の洋楽ヒットチャート大事典」では、1969年年間チャート41位に選ばれています。
1967年に英国で1位にランクされたファウンデイションズの"星のベイビー(Baby Now That I've Found You)"です。日本では1968年に発売されましたが、ヒットには至りませんでした。
1969年のポップス ⑯ グラス・ルーツ「百万年の想い」「神に願いを」
グラス・ルーツ(Grass Roots)が米国で1969年6月にリリースした”百万年の想い(I'd Wait Million Years)“(東芝HR-2416)で、全米15位にランクされました。日本では1969年11月に発売されました。ラジオのヒット・チャートには入りませんでしたが、今聴いても色あせないナンバーで、日本でもグラス・ルーツが多くのポップスファンに注目されるきっかけになりました。
グラス・ルーツ(Grass Roots)が”百万年の想い"に続いて、1969年に米国でリリースした"神に願いを(Heaven Knows)"(東芝HR-2416)で、全米24位にランクされました。日本では1970年になってから発売されました。グラス・ルーツらしい、からっと明るく楽しいポップスで、暗く重く難しいロックの時代の一服の清涼剤と言ってもよいです。
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1969年のポップス ⑮ グラス・ルーツ「いとしのベラリンダ」「Lovin Things」
グラス・ルーツ(Grass Roots)はフォーク・ロックからブラス・サウンドをフューチャーしたからっと明るいポップ・グループに変わり、ダンヒル・レコード(Dunhill Record))を代表するバンドとして、1968年からヒット曲を次々とチャートインさせていきました。メンバーはロブ・グリル(vocal, bass,)、ウォーレン・エントナー(vocal, Guiter, keyboards)、リック・クーンス(drums)、クリード・ブラットン(lead guitar)は1969年初頭に脱退、デニス・プロヴァイザー(Voval Keaboard)にに交代します。プロデュースはスティーブ・バリー(Steve Barry)です。
”Melody for You"は123位、"Feelings"はチャートインしませんでしたが、1968年6月にリリースした”真夜中の誓い(Midnight Confessiは全米5位にランクされるヒット曲になりました。日本では12月に発売され、TBSラジオ「東芝ヒットパレード」では12月13日に20位で初登場、1969年1月17日.24日、31日に11位にランクされました。
UPしたのは”いとしのベラリンダ(Bella Linda)”(東芝HR-2181)で、米国では8月にリリースされビルボードで28位にランクされました。オリジナルはイタリアのカンタトゥーレ、ルチオ・バティスティー(Lucio Battisti)が1968年4月にリリース、作曲・作詞はルチオ・バティスティーとモゴール(Mogol)です。日本では1969年の1月に発売され「東芝ヒットパレード」では1月31日に20位にランクされました。
グラス・ルーツの”Lovin Things”です。アメリカでは1969年2月にリリースされ全米35位にランクされました。オリジナルはイギリスのポップ・グループ、マーマレード(Marmalade)が1968年にリリース、全英6位にランクされました。日本ではシングル盤の発売はなかったと思いますが、グラス・ルーツらしい明るくて楽しいアメリカンポップスです。
1969年のポップス⑮ビリー・ジョー・ロイヤル「チェリー・ヒル・パーク」「ダウン・イン・ザ・ブーンドッグス(1965年)」
ビリー・ジョー・ロイヤル(Billy Joe Royal)はジョージア生まれで、14歳の頃からアトランタを中心に音楽活動を始め自身のロックンロールバンドを結成、サム・クック・フォロアーを自認するほどの黒人音楽志向の持ち主でした。地元のラジオ番組では友人のジョー・サウス(Joe Southなどと共にレギュラーとして活躍していました。
ジョー・サウスはビリー・ジョー・ロイヤルのナンバーの多くを作曲しています。自身も"Games People Play(1968年)がヒット、カントリー女性歌手リン・アンダーソン(Lynn Anderson)の1970~71年の大ヒット曲”ローズ・ガーデン(Rose Garden)"の作者としても知られています)
ビリー・ジョー・ロイヤルはジョー・サウスのプロデュースで録音したデモ・テープがコロンビアレコードに認められ、”ダウン・イン・ザ・ブーンドクス(Down in the Boondoks)”で1965年3月にレコードデビュー、全米最高位9位にランクされるヒットになりました。作曲はジョー・サウスです。
その後も1965年"I Knew You When"(最高位14位)、1966年"I've Got to Be Somebody"(最高位38位)、”It's Goodtime ”(最高位104位)、3曲ともにソウル・ミュージックです。"Heart's Desire"(最高位88位)、モータウン・サウンド的なノーザン・ソウル・ナンバーで人気があります。"Campfire Girls"(最高位88位)、ソウルから離れ、カントリー風のポップス。1967年"Yo,Yo"(最高位117位)、オズモンズが1971年にカヴァーし全米3位のヒットになりました。"These Are Not My People"(最高位113位)、ボブ・ディラン風の語り調のポップス。"The Greatest Love"(最高位117位)、プロデュースがクラシックスⅣのバディー・ビユーイ(Buddie Buie)になり、ソフトなポップス。"Hush"(最高位52位)、ディープ・パープルがファースト・アルバムからシングル・カットし全米4位のヒットになりました。デビュー曲の”ダウン・イン・ザ・ブーンドックス"からすべてジョー・サウスの作曲です。
1969年にクラシックスⅣののバディー・ビユーイのプロデュースで、アルバム「Cherryhill Park」をリリース。タイトル曲の”チェリー・ヒル・パーク”が全米15位にランクされました。作曲がクラシックスⅣのメンバーでもあったロバート・ニックス、ビリー・ギルモアなので、いままでとは違うソフト・ロック調の人気曲になったのだと思います。日本ではCBSソニーから1969年の終わりか1970年初頭に発売され、ラジオではたまにオンエアーされていましたが、中古シングル盤もほとんど見ないので売れなかったのでしょう。個人的にはとても好きな曲です。
ビリー・ジョー・ロイヤルの”ダウン・イン・ザ・ブーンドクス(Down in the Boondoks)”(1965年)で、全米最高位9位にランクされるヒットになりました。鼻にかかった高い声が特徴です。当時日本でも日本コロンビアからシングル盤が発売されました。
1970年代はヒット曲もなく地味な音楽活動をしていましたが、1980年代からカントリー界に転向。カントリー・チャートのベスト10にランクされる曲を数多くリリースし成功を収めました。特に1989年には"Tell It Like It Is" ”Till I Can’t Take It Anymore”がカントリー・チャートで2位にランクされるヒットになりました。
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